
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
坂本龍馬については、1866年1月に成立した薩長同盟の際に
長州の三吉慎蔵が竜馬の警護についています。
2日後に竜馬は寺田屋で幕吏のために襲われてしまいますが
後に竜馬の妻となるおりょうが風呂場から裸で急を告げ
その際に三吉も同席していたという話は有名ですね。
この頃には龍馬はすでに幕府・薩長の両方から
重要人物として注目を浴び始めていたようですが
安政の大獄(1860年)当時は、まだ江戸の千葉道場で
剣術修行に励んでいた一人の若者に過ぎませんでした。
(彼が井伊大老の暗殺を聞いたのは土佐に帰省していた時でしたが)
高杉晋作については、警護を連れていたという話はあまり聞きません。
風来坊の高杉ですから、そういうことは嫌ったのではないでしょうか。
ただ伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)は舎弟のような立場で
いつもくっついていたということです。
ちなみに彼は代々上級武士の家柄でしたが、無名の頃は
品川で建設途中だったイギリス公使館を焼き討ちするなど
手がつけられない暴れん坊だったそうです。
本当に頭角を現したのは、私の意見ですが
1864年12月の「功山寺決起」ではないかと思います。
この挙兵で高杉は太田・絵堂の会戦での勝利を経て反論を掌握、
第二次長州征伐の海戦では坂本龍馬の海援隊と連合して
幕府軍を全面撤退させ、長州復権の立役者となりました。
この回答へのお礼
お礼日時:2007/02/18 18:25
詳しいご説明ありがとうございます。
他の皆様の意見も含めて考えると、この二人はあまり警護が必要なかったようですね。
『舎弟のような立場で…』というのは、高杉の人柄が伺えて微笑ましいです。
時代資料の集め方が分からず途方に暮れていた所だったのでとても助かりました。ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
坂本竜馬は寺田屋で襲われ負傷した前後の一時期を除き、ほとんど護衛をつれていません。
剣の達人で拳銃まで持ち歩いてる竜馬につけられる護衛なんて、そうそういないでしょうが。お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
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