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社会不安障害(SAD)、対人恐怖、社会恐怖
この3つはだいたい同じような意味だと思うのですがそれぞれどのような違いがあるのでしょうか?
自分でもいろいろ調べたのですが、いまいち分かりませんでした。
どなたか分かりやすく説明してください。

A 回答 (2件)

これが答えです、と言えるものは無かったのですが、とりあえず参考になりそうなものをリンクしてみます。



http://www.kokoro.vc/sad.html

http://www.e-heartclinic.com/machida/heart_squre …

http://d.hatena.ne.jp/iDES/20080119/1200714171

これらを総合して考えると

・社会不安障害(SAD)はDSM(アメリカ精神医学会診断基準)に基づいてつけられる診断名

・社会恐怖はICD(WHOが作成した「疾病、傷害及び死因分類」)による分類(診断名?)

・対人恐怖というのは日本独特のものと考えられてきたが、それに似たような診断名として社会不安障害が出てきた。

私は素人なんで、よく分かりませんが精神科の診断名はつけるのが難しく、また医師の考えによっても違ってくるという印象があります。また専門家の方たちは厳密に診断名を考える必要があるかもしれませんが、私自身はあまり診断名にはこだわり過ぎないほうがよいと思っています。大切なのは、診断名よりも症状にどのように対処していくか、だと思いますので。

回答になってないですね。失礼しました。

この回答への補足

今日、主治医の先生に聞いてみたら3つは同じだと考えていいとおっしゃっていました。
はじめからきいていればよかったですね(・ ・;))。。
わざわざ調べていただきありがとうございました。

補足日時:2008/03/19 21:33
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに症状の方が大切ですよね。
でもちょっと正確に知らないといけない事情がありまして・・・・

お礼日時:2008/03/17 18:16

私は素人です。

ですが、ノイローゼになって、それを、乗り越えてきた経験から、話してみます。昔はそれらの「精神疾患」をノイローゼ、或いは神経症、神経衰弱というような事で呼んでいた事もあります。ほんとうの「医学名」かは分かりませんが。

乗り越えてから、28年の年月が過ぎました。「精神疾患」というものは、全てが「意識」した所から始まるような気がします。その「何を」意識したかで、意識した事が「病名」になっています。対人で不安を意識した時は対人恐怖症。鋭い刃物に不安を感じて意識した時は先端恐怖症。殆どが「何かに不安を感じて」「意識」をした事が「症状名」となっています。

私が、ノイローゼの症状が、きつくて入院森田療法を受けた時も、色々な症状の人達と一緒でした。ですが、その「精神疾患」を、今は「症状別」に対処しているように、見えますが。本当の原因は同じ事のような気がします。それは「意識」したという事です。

人間の心というものの無知から、大部分の「精神疾患」が、起こされている気がしてなりません。不安というものがあります。刃物を見て不安を感じる。この事は、自分の中に、自分の知らない者が、居てその感じをを抱かせて居ます。その者とは、誰の心にも居ます。スピードを出してカーブを曲がる時の、あの感じです。

悩みというものについても、同じ事が言えます。自我が悩みとして受け取っているもの。それは、心の矛盾です。或いは心の対立と言っても良いかと思いますが、自分の中で二つの考えがあって、その矛盾が悩みとして感じられると思います。

全ての「精神疾患」の元となっているもの、それは「意識する」事と云っても、余り、大間違いでは、無いかと思えます。

不安というものは、自我が何かの拍子に、「変な感じ」と思って意識する事が始まりとなります。それは、大部分が生きてゆくために必要な事です。その事を「意識」の上に乗せて問題としなければ、問題になりません。問題にして「意識」に載せると言う事が問題を大きくしています。そうしてその「心の違和感」を心から追い出そうとします。その事で、恐怖感が増して、パニックになることも在ります。

悩みも同じ事が言えます。人生最大の悩みというのは、自分の死です。ですが、子供の時から、誰もが、いつかは死んでゆく事を、知っています。悩まない時も、悩まない人も居ます。ですが、死を現実のものとして「意識」した時は、大変な苦しみとなります。

「意識」している間中、苦しみが続きます。「一切皆苦」の世界です。お釈迦様の悩んだ世界です。それは、どういう事かと言いますと、自分と、もう一つの意識との矛盾なのです。そのもう一つの意識というのが「仏性」です。自分は有限な者で終わりがある。という事です。ですがその反対の者が居る、という事です。自我の他に永遠なものが居る、という事です。

悩み始める時期があります。それは思春期の始まり頃です。それは脳の機能分化が完成に近ずいたという事です。悩みや不安の解消が宗教の目的です。キリスト教では「天国に一番近い者は、幼子」と言います。幼子には悩みは在りません。その訳は、脳の機能の分化が出来ていないことによります。

その脳の機能分化について、1,980年代に、ノーベル賞を授与された研究があります。左右の脳をつないでいる、脳梁を、テンカン治療のために、切断する事が、一般に行われていた時代です。今では弊害が、在って、その治療は行われていないようです。その分離脳の研究で、発見された事があります。

それは、左右の脳にはそれぞれ、別の人格が居るという事です。

左脳に意識が在って、論理的に物事を、処理する能力です。分別が専門の脳と言えます。(私の考えですが、分別できる事は有限に属していると思います)

それに対して、右脳の専門は、分別出来ないこと、感情、スポーツ、直感、芸術、意識は感じられない、言葉を持っていない。(多分、永遠を担当しているかも?分別出来ない事の又の名を永遠と云ってもいい様な気がします)

その事を、証明する事実が在ります。それは「禅問答」です。この問題は、左脳にある、自我では刃がたちません。それは、専門外だからです。自我が苦しんで、計らいを尽くして、尽くしきった時に、一度自我が死んだ時に、突如顔を出します。その事を「大死一番」と言います。

その時自分の性を見る「見性」と言います。或いは「悟りを開く」とも言います。その時に、苦しんでいた自我が右脳の永遠性に触れて、「肉体の死は、本当は大事な事ではなかった。」と知る時です。

「仏性」の完全性に触れて、自我は全てを安心して、任せてゆこう。「絶対肯定」という事になります。お釈迦様の教えは「精神療法」それも「絶対の安心」を獲得できる究極の「精神療法」と言えます。その事で、心が今までは、何かに縛られ、自由ではなかった事を知ります。

そして「人間はどうして生きてゆけばよいのか」=「平常心是道」それは、当たり前の心です。何ものにも囚われない(意識しないで意識する)、自由な心と言えます。「精神疾患」とは、意識する事に囚われた心、或いは、心が停滞している事と言えます。心が停滞するとは「妄想」の中で地獄を作って、地獄を見ていることです。元々地獄なんか無いのに、自分で地獄を作っているのが「人間苦」かと思います。

自分の感情は、自分ではコントロール出来ません。コントロールしようとすることが「地獄」を作る作業です。

天国を欲しいという心が地獄を作っています。天国を捨てれば地獄も消えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
熟読したのですが内容が哲学的でちょっと自分には理解できなかったです。
ごめんなさい。

お礼日時:2008/03/18 17:38

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