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三国志における兵数(曹操軍20万等)の記述は、誇張があるとは思いますが、実際問題どの程度だったか?ということを定量的に推量する方法を探しています。

・当時の全人口から、兵として徴用可能な人数をある程度割り出す方法。
・当時の食料の生産性等から推量する方法。
・軍事的な常識や戦術論から推量する方法。
などがあると思いますが、
より具体的に調べるにあたって
たとえば、参考になる文献や資料などをご存じないでしょうか?

(三国時代の社会背景や風俗について書かれたもの以外にも、
 同時期のヨーロッパにおける軍隊情報や、
 はたまた、社会工学的なアプローチや、あるいは民俗学的な資料、
 生理学的な食物論でも、何でもかまいません。)

より大雑把に、小説を読むときは、
およそ10分の1~100分の1と、割り引いて読んでみたりしていますが、

せめて、軍隊数の実質的なオーダー(桁数)は、合わせたいと考えたいと思い、質問させていただきます。

A 回答 (4件)

私は、だいたい下記のように推測しています



100万人で3万人
100万石で100万人の生産力があるという前提。
北条攻めが近接する大名は100万石で5人、中間地帯が3人、遠隔地が1人だったと記憶しております。

上記は戦国末から江戸初期の兵農分離が完了した段階での動員力です。
農業社会ではだいたいこの程度が農業の再生産を妨げないような動員比率のようです。

この推定を三国時代に当てはめると総人口で700万なので、総兵力21万程度。
魏:400万程度=12万
呉:200万程度=6万(防衛戦で根こそぎ動員だと、10万)
蜀:100万程度=3万(防衛戦で根こそぎ動員だと、5万)
という程度ではないかと。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

具体的な数字でとてもわかりやすいです。

・1万人=1万石(1人の1年分の食料が「1石」)
・1万石あたり3百人の兵
・三国時代の総人口700万人
という類推なのですね。

「1万石あたり3百人の兵」がある程度堅い推定に思えるので、
当時の人口数や、1人の1年分の食料が「1石」に相当する量がどの程度か
について裏づけが取れればかなり確からしい推定だと感じました。

お礼日時:2008/08/25 06:33

私は、そのまま真に受けて読んでいます。


理由は単純で、司馬遼太郎著『街道をゆく 蜀と雲南のみち』で「三国志」の背景を知ったのですが、司馬氏の緻密な分析をそのまま信じているからです。
司馬氏は、『後漢書』第23巻を取り上げて、「蜀郡」の人口1350476人、「巴郡」1086049人と書かれていることから見て、劉備が、孔明の三分の計によって、蜀に割拠しようとしたのは、巴蜀合わせたこの大きな経済力の上に立てるから、としています。
さらに、紀元前、秦の時代につくった灌漑・治水用のダムである都江堰のおかげで、成都盆地の農業生産力は高く、蜀は天賦の地であるからだ、としています。
ちなみに、三国時代前の『漢書』「地理志」(紀元82年に成立)では、「蜀郡」の人口は1245929人、戸数268079戸です。
そして、「中国はすでに古代において官僚制が確立し、政治に数量把握の思想と技術が濃厚に入っていたから、数字はさほどいいかげんではない。」と述べています。
なお、当時の「郡」の広さは、今の「省」に匹敵するそうです。
今の中国からは想像できない正確さですね。

再度、兵数に注目して三国志(宮城谷昌光著)を読んでみますと、「数万の大軍」とか「怒涛のごとく押し寄せる大軍」といった、あいまいな表現は非常に少ないですね。
戦さの場面が連続して出てきますが、歩騎1万とか6万とか具体的な数字が並びます。
当時から、こまめに竹簡に記録する習慣のあった中国の正史「三国志」ですから、兵数は形容詞的に使用する「白髪参千丈」の類の誇大表現ではないと思っています。

このような訳で、次の一節など、そのまま数字を信じて読むと実感が湧いてきます。

「合肥の役」では、孫権軍の兵力は十万という巨大なもので、その大津波のような大軍を、張遼、樂進、李典という三将と七千余の兵は合肥で迎え撃たなければならなくなった。
夜、張遼と李典は決死の従者を募った。集まったのは八百人である。
張遼と李典、それにこの八百人が永々と語りつがれる伝説の戦いをはじめようとしている。

蜀だけを取り上げましたが、黄河流域の魏郡(今の河南省)だけで、戸数212849戸、
人口999655人で、さすが中原は人口稠密です。
農業生産力が高かったことがうかがえます。
また、秦の始皇帝の兵馬俑の規模から考えて、曹操軍20万は誇張ではないと思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考にさせていただきます。
「政治に数量把握の思想と技術が濃厚に入っていたから、数字はさほどいいかげんではない」という点には、私も違和感無いです。

ただし、当時の人口の数字を疑うわけではなく、
・平世と乱世の人口の違い
・人口当たりに対する、拠出可能な兵数
・戦時の兵数の申告には、大きく見せるインセンティブが働くのでどうしても兵数にはバイアスが掛かりがちであること

等等の理由もあり、文献上の数字を基にすれば、
「信じる」「信じない」の話になってしまいそうなので、

もうすこし「工学的」というか、定量的なアプローチで、
「この数字の桁数だったら、およそ堅い」といえる兵数の見積もりを
したい、というのが、質問の意図でした。
(たとえば軍馬1万頭の飼育に必要な牧場規模等から、
 実際的に飼育可能な頭数を算出する、など)

ご紹介いただいた本等も参考にしてみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/26 06:44

三国志演義を読んでいるのだと思います。


これは明代の小説書であり、三国志とは異質の物です。

>参考になる文献や資料など
魏書、蜀書、呉書はいずれも翻訳されていますのでこちらを一読して下さい。

史記以下、こちらを読むのが普通です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98# …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「演技」は小説であるということを踏まえ、
「原典」を参照するようにいたします。

お礼日時:2008/08/25 06:27

私の場合も日本の戦国時代では1万石あたり300人と計算しますね。



ただ、三国時代とは生産技術が違うでしょうから、人口の13分の1を最大動員兵力とみなしています。ただしここまで動員してしまうと国の生産力が大幅に低下しますし、多方面の国境その他の守りがいなくなってしまうのでその3分の1を目安に計算します。
回答1番さんの人口に当てはめますと。
魏:400万程度=30万(通常動員10万)
呉:200万程度=15万(通常動員5万)
蜀:100万程度=8万(通常動員2万5千)

ただし、この数だとさすがにあの広大な国土では少なすぎるので、当時多く発生していた流民を兵力に組込んでもう少し兵力も捻出できたのではないかと思われます。
また、三国時代は中国史の中でも人口が激減した時代であるので、魏が数州を版図としたときでも盛時の1州の人口に満たなかったといわれていますから、蜀などはあまり影響がなかったのでもう少し余力があったのかもしれません。
いずれにしても補給の問題もありましたでしょうから1回の戦いで10万を越えるというのはあまりなかったのではないかと思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「人口の13分の1を最大動員兵力」とすると、7.7%ですか。
通常動員が2.5%で、最大が約8%弱と考える訳ですね。。
(wikipediaの「石高」の項で、江戸時代の軍制について、「1万石あたり概ね2百人程度」という記述もあったので、通常動員で2~3%というのは、「常識的」なのかもしれませんね。)

・日本の戦国時代と三国時代では、1000年以上の隔たりがある点
・中国が広大な国土を持つ点
・当時の人口の流動性
これらのギャップがあることを踏まえた上で、
非常に有益な類推ではないかと感じました。ありがとうございます。

お礼日時:2008/08/25 06:45

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