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よくわからないのですが、
少納言、中納言、大納言さんて
何をして暮らしていたのでしょう?

貴族だから、歌を作ったりして生活していたのですか?
具体的に貴族って人数も少なかったと聞きましたが、
詳しく教えて欲しいです。

A 回答 (3件)

こんばんは。



まずは、太政官の官位の流れです。

左大臣⇒右大臣⇒内大臣⇒大納言⇒中納言⇒参議⇒左大弁⇒右大弁⇒少納言

大納言ですが、貴族だけが任命されるのではなく、氏族他も任命されています。人数は時期によって様々ですが、少ないときで2人。多いときで8人ほどいたとの記録が残っています。後鳥羽天皇の時代以降になると、6人で固められました。ただし、後年、大納言のほかに権大納言(例えば、豊臣秀吉などが任命された。)という職が出来、大納言がなかなか任命されなくなります。大納言は、上官である大臣と共に国政に務めます。その他、大臣の仕事の補佐にまわる事も多かったようです。時たま大臣が不在の時がありましたので、その際は国政の中心をなしました。

中納言は大納言につぐ官位で、大納言の仕事を補います。大臣や大納言と共に国政の会議に出席します。人数は変動(多いときは10人!)を経て、後鳥羽以降8人に定められます。水戸黄門さまで知られる光圀は中納言に該当しますね。

少納言は当初は、大納言につぐ官位でしたが、中途に中納言等の職が置かれ、国政での影響力は持たなくなります。3名がその職にあたります。(国政に影響力があったのは、基本的には参議以上でしょう。)詔勅・宣旨などの清書、叙位などの儀式・印の管理などなどを担当します。少納言に関しては、名前の響きやインパクトはありますが、そこまで重要な職とはいえないかもしれません。

歌を詠んだりした方も多いでしょうが、常にのんびり優雅に暮らしているわけではありませんでした。

ご参考になりましたら幸いです。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。
詳しく回答して頂き助かりました。

驚くほど少ない人数だったのですね。

えらい仕事だった訳ですが、少納言(清少納言)
とかは女性も珍しくなかったんですね。

お礼日時:2006/09/17 21:26

皆さんが詳しくご説明されてるので、そこは省きますが、


1さんへのお礼について
女性は少納言にはなれません。というか政にかかわることはできませんでした。清少納言は、親戚に少納言の人がいた清原氏の女ということになります。

当時の中宮付きの侍女等は本名で呼ばれることはなく(文献にも本名は記されてません。大貴族の娘なら別ですが)
親戚の男性の職名から、あだ名のようなもので呼ばれてました。
紫式部も源氏物語の紫の上と、誰か式部省で働いていた男性が身内にいたからそうあだ名が付いたのです。

女性がなれるのは、内侍司という天皇の秘書役の役職でした。これも後には、帝の側室の色合いが濃くなってしまいましたが…
ちょっと余談でした。^^;
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

そうだったんですか~。あだ名なんですか。

昔にしてはえらい仕事を女性がしていたものだと
思いましたが、わかりました。

お礼日時:2006/09/18 17:10

大納言などは、現代風にいえば、朝廷という中央政府の中枢に勤務するエリート高級官僚です。

また、「納言」とは、文字通り(天皇の)言葉を納める役職、即ち、天皇(朝廷)の意志(政策)を他に伝達する職でした。しかも、単なる政策の伝達パイプではなく、政策決定過程に関与する資格があったので、官僚(役人)であるとともに閣僚(政治家)でもありました。

当時の高級官僚は貴族であり、従って高い教養を備えているのは当然でした。大納言などは、高級官僚・政治家であるとともに、一流の文化人でもあったわけです。当時の貴族にとって和歌を詠むことは生活の一部であったので、普通に生活していれば自然と歌が生まれてきたのでしょう。

収入という面では、官僚として朝廷から受けるもののほか、所有する所領・荘園からの収入がありました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
まさにエリート高級官僚だったのですね。

収入方法などはやはり貴族そのものですね。

お礼日時:2006/09/17 21:30

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