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うちの母の家は浄土真宗です。父方は浄土宗です。
私はあまり宗教というものを意識したことはありません。

ですが、そんな私が神様にキリスト教のお祈りの言葉を使ってお祈りしてもいいのでしょうか。
色々調べましたが、「信じる心があれば」というものもあれば「他の宗教徒がキリスト教のお祈りの言葉を使って祈るのは侮辱している」といったものまであります。
お葬式等はお寺でやりますし、家に仏壇もあります。
宗教は家で受け継がれていくものなのでしょうか。

キリスト教のお祈りの言葉を使ってお祈りすることは侮辱していることになってしまうのでしょうか。

教会に行くことは神を侮辱していることになってしまうのでしょうか。

知り合いに日曜のミサに誘われているのですが、上に書いた事が心配で行ったことがありません。

お祈りは誰にでも可能なのですか?
出来れば詳しくお答え願います。
お願いいたします。

A 回答 (4件)

 こんにちは。

一応カトリック信者ですので良かったら参考にして下さい(^o^)。
>そんな私が神様にキリスト教のお祈りの言葉を使ってお祈りしてもいいのでしょうか?
 全く心配する事がないと思いますよ。例えば国民の9割以上が同一宗教に属しているような国で、他宗教が弾圧されやすいみたいな所なら別ですが、少なくとも現代の日本では信教の自由があり、またクリスチャン自体も多くはありません。親の代からずっとキリスト教徒で・・・という方なんて少数派じゃないでしょうか?そうするとまあ何となく家は仏教です的な人はずっと他宗教と馴染めない事になります。現代のキリスト教、特にカトリックは他宗教との交流に積極的です。仏教の僧侶と話し合う機会を持ったり、キリスト教の多教派(プロテスタント諸派)と交流したり合同で礼拝(ミサ)を行ったりもします。これをエキュメニカルといい、山の頂上に色々な登り方があるという考えで、他宗教の行事に参加したり勉強したりする事を咎めません。
 そして仏教も、私も詳しくはないのですが、神道の方が行くのを咎めるでしょうか?仏教徒の方がお正月に神社に行くのは咎める対象でしょうか?仏教徒と神道と良くてキリスト教が悪いというのはおかしいと思います。キリスト教でも右派の人や聖書絶対主義的な教派の人は「他宗教は~」みたいな考えがあるかと思いますが、少なくとも多くのプロテスタント諸派とカトリックではそういう考えはありません。仏教の方、他宗教の方ウェルカムですよ(^_^)v。また仏教徒でも一部の新興宗教でそういう考え方の所はあります(たま~に事件になりますが、お守りを捨てられたりとか・・・)、普通の仏教ではありません。侮辱にもなりません。
 お知り合いの方と一緒にミサに参加されるなら戸惑う事も少ないかと思います。基本は全て信者と同じです。聖水も良かったら使って頂いてかまいませんし、十字を切ることも侮辱ではありません。ただ聖体拝領は信者のみに行われます。これは侮辱というより、私が司祭に教えて頂いたのは信者以外の方がしても意味がないという事でした。ですので聖体拝領の時は前にでてお辞儀をすると祝福をしてくれます。その後軽くお辞儀をするとOKです。
 どうぞ気軽な気持ちで参加して下さい。何年も通われていても洗礼を受けない方もいますが、それを咎めたりしません。たくさんのよい出会いがありますようにm(__)m。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私の欲しかった答えです。
聖水の使い方や聖体拝領はどのようなことなのか分かりませんが(勉強不足ですみません)お祈りの仕方まで教えて頂いて…戸惑わずにいけそうです。

仏教との交流や、仏教徒がお正月に神社に行くのは…
というのを読んで、すとんと理解出来ました。
「建物の中」というだけで、なにやら厚い壁を感じていたようです。
そうですよね。
本当にありがとうございました。

これで迷いなく過ごせそうです。
寝る前に祈る時「他宗教者がすみません…」と 申し訳ない気持ちで祈っていたのですが、それもなく素直にお祈り出来そうです。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2009/02/12 00:38

自分の宗教を信者だけのものにするというのは、階級制度のある宗教の特徴です。

もし、キリスト教信者がそう思っているなら、階級制度のある宗教を批判したキリストの教えを理解していないということです。
信者になるためには手続きが必要です。しかし手続きを踏まないからと言って信仰が無いとは言えません。

「人は神の子」です。人は人であって、信者とは言いません。
ノアの箱舟に入れなかったのは信者でなかったからではなく、自ら神との繋がりを離したからです。
ソドムやゴモラの滅亡は、信者かどうかではなく、神を信じたかどうかです。

教えを守る非信者と、教えを破る信者…天国に入れるのはどちらでしょう。
私は前者は煉獄の試練を受けるかもしれませんが天国に入り、知りながら叛く信者には門は閉ざされると考えています。
教会で、非信者の立ち入りを拒んでいる所など、少なくともカトリックではありえません。
もしそうなら、信者がいなければ教会は作られない…そんな歴史はありませんから、矛盾が生じてしまいます。

狭量な者のたわごとに惑わされる事なく、堂々と教会に行きましょう。
出来れば信者にならずとも、勉強しましょう。知識を得れば、たわごとに惑わされる事もなくなります。
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この回答へのお礼

そうですよね
勉強して、色々なことを知って、理解したいです

お友達に連れて行ってもらいます。
初めはやはり緊張しますので…。

祈ることも続けます。
ありがとうございました

お礼日時:2009/02/10 18:36

海外ではカソリック教会の


礼拝に行きます。普通に祈り
他の信者さんと一緒の行動
しています。
ただ、洗礼を受けている人が
受ける?葡萄酒かなにかを飲む
行為はいたしません。

日本での布教活動経験のある神職者
が以外に多くお話しさせて頂く事が
有るのですが、私はブッテストと
言って嫌な顔をされたことは有り
ません。

上ではみんな一緒(イエスも、ブッタも)
と言った事もありますけれど何も言われ
なかったです。

上の神さんはお心が広い
下の神のしもべも又、気にしていない

行ったらいいじゃない
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この回答へのお礼

本当にありがとうございました。
お友達に声を掛けて連れて行ってもらいます。
ありがとうございました

お礼日時:2009/02/10 18:30

個人的には、信じていようが信じていまいが祈りたければ祈ればいいと思います。

神が怒る?そんな発想こそ神を馬鹿にしている、というか見くびった発想だと思いますね。信じていないのに祈るなんて不誠実、なんて人間の物差しでしかない。

キリスト教であればなおさら、神の考えていることは誰にも分からない、測り知ることはできない、となるはずだと私は思います。

「どうか私たちの祈りをお聞き届けください。私たちにその資格があるからではなく、あなたが、その測り知ることのできぬ恵みによって、永遠の昔から私たちをあなたの子と認めて下さった基(もとい)であられるイエス・キリストのために、お聞き届けください」(「祈り」カール・バルト P140)

あと、カトリックであるマザーテレサ的には以下の意見のようです。

(祈りの言葉について)「キリスト教徒でないなら、あなたは「イエス」の部分を「神」に置き換えてもかまいません。」
(「マザー・テレサ語る」P39)

まあとにかく、神の考えは、人間には測り知ることができない。
「人間には、人間をはるかに超えた存在である神を把握しきることはできません。ですから当然、その神の愛も、具体的にはどのようなものなのかはわからないのです。」(「イエスはなぜわがままなのか」P144)

誰かに「そんなことしたら神はお怒りになられる」とか「オーラがうんぬんかんぬん」とか言われて祈るのをやめてしまったら、それは神(もしくは仏)ではなくその人を信じたことになります。

私たち人間には、神やら仏やらが考えていることはこれっぽっちもわかりません。人間がいくら頭をひねって規則を考え出しても、所詮は人間の作ったものでしかありません。

ですので、神(仏でもいいですけど)を信じるのであればなおのこと、何も恐れずに、祈りたければ素直に祈ればいいと、私は思いますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
本当にどうしようか混乱していたので

私が信じていれば怖がることなんてないのですよね

ありがとうございました

お礼日時:2009/02/10 18:27

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