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時代にもよるかもしれませんが琉球王国時代の宮古・八重山諸島は琉球王、および薩摩の支配をうけていたのでしょうか。よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

先史時代は縄文文化の影響は殆んど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。

約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、714年(和銅7)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており(『続日本紀』)、「信覚」は石垣島を指すといわれる。 

 14世紀から15世紀に沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年に石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。

 1609年、薩摩国の島津氏による琉球王国侵攻以降、薩摩の過酷な搾取に窮した琉球王府は、先島諸島に対して人頭税を導入し、ここから搾取した。このため、先島の各地には子供や妊婦を処分する遺構が残されている
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この回答へのお礼

ご回答ならびにご丁寧なご説明ありがとうございます。以前、八重山の
西表島に住んでいた(というかバイト)ことがあるのですが、沖縄本島とはちょっと違うなと考えておりました。与那国の女首長というのも興味もちました。

お礼日時:2009/08/21 18:18

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