
このカテでいいのか迷いますが。
個人としての人生論しては部分的には良い線いっているのかもしれませんが。
近代の会社の経営や教育にそのままとり入れるには害が大きすぎると思っています。
・芸は身を滅ぼすという考えが日本の産業デザインが発達しない元凶
・皆が岡目八目なら誰が碁を打つのだろうか。理念を示さない人間こそが卑怯ではないだろうか。
・仕事に建設的な創意工夫をしたりまたは建設的なアイデアを上げることを否定していたら何も改善されないのではないだろうか。
・他の人間のすることばかりを、探偵の様な油断のならない眼で良い悪いと心の中で判断している様な人間は、本質が何かを見ようとしていない。
いづれも変化を阻み経済の成長を低迷させるものと思えてしまいます。本来の伝統とは日々変化してきたものだと思っています。
No.44ベストアンサー
- 回答日時:
>右とは、例えばおかもとのぶとさんに永遠の丁稚をやらせていることが美しいという発想です。
>はしだすがこさんが、もし筆をすべらせて、野望をもつ丁稚にしてしまったら醜いという思想です。
意味が解りませんでした。「おかもとのぶと」「はしだすがこ」を知らない人間にも解るように説明してもらえないでしょうか。なにしろテレビや新聞、雑誌などは最近はほとんど見ませんので。
>わざと筆をすべらせてアバンギャルドな内容にしてみて経済の動向をリサーチしてみてもいいかもしれません。
意味が読み取れず。
>しだいに一段高いところから見下ろすという良く言えば、職人気質の面が強く出てきているのだと思います。
性の高い人と低い人が話すとき、背の高い人は自然と見下ろすかたちになります。見下しているわけではなく、自然とそうなります。背の低い人から見れば「見下されている」と思うかもしれません。
>全てにおいてですが、成熟すると、専門的になりすぎて自己完結に陥りやすいという良い例かもしれません。
成熟すれば、未熟な人にとってはわかり難いということでしょう。真に物事を理解している人なら、平易な言葉を使って説明するはずです。固有名詞や専門用語などを使わずに。最終的には自己完結するでしょう、思想・哲学は。他者完結などありえないと思います。
>右側とはどういうことでしょうか?権威・上位者を肯定し、
>それらがすばらしいという立場の者を言うのではないですか.
>物事の根本・根幹にある家族関係での右側とはどういうことを言うのでしょうか?
お礼遅くなりすみません。もうそろそろしめなければと思っています。
もともと右側というのは、個人と個人がお互いをリスペクトしあって協力して、
生活する事だったのだと思います。
それが、ゆがみをもつとファシズムや排除の論理になりやすい危ういものなの
だと思います。
輪郭のしっかりしたものではなく、人間のきびというやわらかくてあやふやな
ものを核にしているから、すぐにエラーを起こしやすいのかもしれません。
いろいろ考えさせられました。ありがとうございました。
No.45
- 回答日時:
私は、およそ、イズムなどというものには全く関心も関係もない者ですが、
自身の質問及び発言に関して、「適当」なのではなく、ハッキリ、投げやり姿勢と言いましょうか、よりによって哲学カテにおいて、ステップを進めていくための精いっぱいの誠意ある補足すらしようとしない(単に、できない?)のに、他人の質問には、随分と食い下がる負けん気と我を通す情熱があるというのは、やはり例外ではないようだと、たとえば、通常的勤務経験の有無を問われた途端に激昂する人が、他人に向かっては、書道その他を知っているか?などとと問いただす、といったような、発言内容と実際との乖離というものの大きさを見せつけられて、あらためて驚いている次第です。
聞くところによれば、脈絡なく支離滅裂なようでも、たとえ狂人にも狂人なりの論理があるのだそうな。
で、当該ご質問においては、結局、いったい何をなさりたかったのでしょうか?
不可解としか言いようがなくて疲れますね。あ!哲カテも「マスターベーション」に持ってこいとか、そういうことでしょうか?
やっぱり、ご都合で「いぐのあ」や、パッコパッコと「馬耳東風」するしかないのでしょうね。べつに、それでもいいですけど。
No.43
- 回答日時:
>子育て論に関してはいろいろな意見があっていいと思います。
めちゃくちゃな意見だったら無い方が良い。「あってもいい」かもしれないが、「あったほうが良い」というわけでもない。自分なりに答えが出ているなら、そのほうが良い。
>私も、何がいいか実のところ分からないのです。
自分の今の感情を損なわず、しかし子供を育てるからには完全に自分を捨てるのが理想です。子供を育てているなら、それに専念すべきですね。
>イラク捕虜の例は、戦争は人間性を破壊する。そういう教訓でしょうか。
いいえ、違います。「戦争が人間性を破壊する」というのが事実だとしても、それ(戦争と、人間性の破壊の一連のつながり)は結果に過ぎません。
>人を困らせてというか、反応を楽しむ本能は確かにあると思います。そういう風に幼児は遊びますから。
親と称する人間も 子供の反応を見て一喜一憂し、遊びます。親の意識が伝播し、他者に反映されているだけでしょう。
子供は「おもちゃが欲しい」というかもしれませんが、大人は「動くおもちゃが『欲しい』と言い、文字通り動くおもちゃにしか過ぎない子供を量産します。似たり寄ったり、同じ穴の狢です。むしろ親が原因で子供を作ったので、親が根源(悪)です。
悪や魔はどこか人間の生活とは関係ない別の場所で 生じるのでしょうか?たとえば宇宙空間とかで?
悪の根本は人間関係から生じます。
右側とはどういうことでしょうか?権威・上位者を肯定し、それらがすばらしいという立場の者を言うのではないですか.
物事の根本・根幹にある家族関係での右側とはどういうことを言うのでしょうか?
ありがとうございます。
右とは、例えばおかもとのぶとさんに永遠の丁稚をやらせていることが美しいという発想です。はしだすがこさんが、もし筆をすべらせて、野望をもつ丁稚にしてしまったら醜いという思想です。わざと筆をすべらせてアバンギャルドな内容にしてみて経済の動向をリサーチしてみてもいいかもしれません。
テレビメディアは、大衆的にはもっとも身近な芸術エンターテイメントですが、近年はその中に思想性が目につくようになりました。なぜなのでしょう。
もともとは、お茶の間に提供するというサービス精神が前面に出ていましたが、それが、少しずつ、自ら楽しんで、それを外側から見せることでバーチャルにお茶の間も一緒に楽しませるという風に複雑になっていきました。また、その技にみがきがかかると次第に自己完結の陶酔的な危うさを伴うようになっていきます。一歩間違うと文化祭の内輪受けになってしまうという臨界のすれすれのつなわたりの様に見受けられます。
前にやらせ事件というものがありました。お詫び番組などというものが組まれましたが、最後まで聞いていましたが、お茶の間にお詫びをするという一言はとうとう聞けずに、正直ずっこけたことがありました。しだいに一段高いところから見下ろすという良く言えば、職人気質の面が強く出てきているのだと思います。
全てにおいてですが、成熟すると、専門的になりすぎて自己完結に陥りやすいという良い例かもしれません。
この辺を両面方向から考えていきたいと思ったのです。
No.42
- 回答日時:
ご一助となればと思い、回答を投稿させていただきました。
前回の投稿から、いろんなことを考えてみたのですが、国民(特に若者)の疲労感はかなりのところにきていることは事実かと思っております。
はやりの“コンプライアンス”はじめ、規制の強化・罰則の強化等が今日叫ばれてはりますが、実情はともう申しますと、日本は未だ安全な国かと察せられます(以下のソースをご参照ください)。
日本の犯罪(OECD各国との比較)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2788d.html
特に青少年に対する批判も多く見けられますが、これも事実とは異なっているようでございます(ソースは以下をご参照ください)。
少年の犯罪 殺人統計
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Satujin.htm
ピーク時の犯罪白書の文言も見ていただきたいのですが、現在メディアを通して判断する限り、報告年度が“平成20年”として再度読み返してもなんら違和感を覚えないと思われます(ソースは以下をご参照ください)。
最近の犯罪白書から:
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/1/nfm/n_1_2_4_1_4_1 …
では、なぜこのような現象がおきているのでしょうか?
おそらく、以下のサイクルが推察できます。
突発的な事件・犯罪 → メディアの誇張報道 → 企業ではコンプライアンスが叫ばれ、私人では罰則規定の強化が叫ばれる → ラベリング化が生じる(もちろん確固とした理由はございません。単なる“空気”だけです) → 罰則違反者がでてしまう(罰則規定が増えれば違反者も必然的に増加します)or突発的な事件・犯罪 →→→
という悪循環がみられるように見受けられるのですがいかがでしょうか? つまり、疲労感・閉塞感を増やす方向のみに向かっているのではないでしょうか?
ご参考になれば幸いでございます。
ありがとうございます。
この箱のふた開けちゃあだめよって書いておくと子供は必ずあけて中を確かめようとします。原っぱで捕ったバッタが入っているのも知らずに。鎖と南京錠だったら南京錠の仕組みに興味をもつかもしれません。わくわく感と罪悪感は増すばかりですね。
あるスレで優先席の問題があがった時に、やはりルールというものに対して人間の為のルールだと根源的に考える事はどの時代においても必要なのだと思いました。しかし日本人はとかく「屁理屈いいなさんな」って風な文化ですから、そんな事考える方が不道徳で素直さが無いってところありますから、そういう意味でのミスに陥りやすい側面はありますね。
社会の成熟に応じたきめ細やかなコンプライアンスは確かに否定できないけど、混乱した時代だからこそ、やはり根源的に考えたり、冷静なデータを検証したりすることは必要ですね。
いろいろなデータありがとうございました。
No.41
- 回答日時:
>ショッキングな感覚と言えばいいでしょうか。
たぶん、それは好ましい感覚というより、文字通りショックだったのでしょう。そのとき感じた感覚は正しいと思います。しかし、生んでしまえば育てるしかなく、それは仕方ないかもしれないですね。
>赤ちゃんがなぜ泣いているかなんてきっと100%分からないのだろうなーといつも心のどこかにありながら抱っこしてました。そういうあきらめのほほ笑みではないでしょうか。
そういう人もいるかもしれないですね。しかし、実際に大人でも人を怒らせて喜ぶ人もいるし、人それぞれでしょう。
先に言った「泣いている赤ん坊を微笑んで(喜んで)抱いている母親のイメージは、テレビのコマーシャルなどで見ると思いますが、実際にはどうなんでしょうね。全くいないのであれば、例えばイラクの捕虜兵を拷問して喜んでいるアメリカ兵などはそもそも存在しないのではないかと思います。
>ほほ笑んでどんなに泣いても、あなたの泣いている原因はあなた以外には結局わからないのよというあきらめを通達しているコミュニケーションの一歩でないかと思うのです。
そういう人、そのようなケースもあるでしょうね...それは別に問題ないと思うのですが。
>クリムトの接吻てごぞんじでしょうか。あれは人間の頭で描いた美しい願望ですよね。
調べて見ましたが、アタマで描く官能的な愛もあるということでよいのではないですか。
>また、ちょっと違うけど相原コージっていう下ネタ満載のギャグマンガに「吸うても、吸うても、吸いたりんわ」っていうコマがあったことを思い出しました。
吸わしても吸わしても 吸わせ足りんわ というケースはあるのでしょうか。
>赤ちゃんが母親に抱っこされて、自分の全てを包み込んでほしいという願望は、成人した人間が持つ性欲となんら変わりが無いように思うのです。
私はそんな願望は全くありませんでしたが。全てを包み込みたいという願望もあり、「一部の人間を拒否・拒絶するのはプライドが許さない」という傲慢さもあるのではないでしょうか。女性特有のものだと思います。そういうプライドを、私は見習うべきでしょうか?
>クリムトの絵の様に人間と人間が溶け合うことは不可能であることは知っている。しかし、その絵に引き込まれて感動を覚えずにはいられないのです。現実にはあり得ないことを人間は、潜在的に、のぞんで、美しいとさえ感じている。
他者と溶け合いたいと思う人もいるんですね、不思議です。
>不思議ですね。
本当ですね。
ありがとうございます。
子育て論に関してはいろいろな意見があっていいと思います。私も、何がいいか実のところ分からないのです。しかし、個人的な事を言えば、計画出産でしたので生んだから育てるしかないという感覚はちょっと理解できませんが、そういう方もいらっしゃるかもしれません。それはそれで、良いのじゃないかと思いますけど、全ての経験において誰もが初体験の積み重ねですからね。
イラク捕虜の例は、戦争は人間性を破壊する。そういう教訓でしょうか。
人を困らせてというか、反応を楽しむ本能は確かにあると思います。そういう風に幼児は遊びますから。コミュニケーション能力の根源的なものなのではないでしょうか。私には少し足りないものです。だから逆に距離をとって観察して理解することで補おうとしているのかもしれません。
いろいろな考え方があっていいと思いますが、その距離感を無理やり縮めようとするのは、発達障害児童の教育的には逆効果だと思います。まだあまり認知されていないのですが、世の中を恨んで自閉的になっているのではなくて、自閉的だから自閉的なのだと認識がされないと、ますます、これからの自閉症の子供は生きづらくなるのではないかと危惧してしまいます。
ですから私個人的には、プライドの問題ではなく、なめくりまわされるのが嫌いという特徴を幼児の時から持っているのです。(一歳のときにしつこくチューされて泣いた記憶を思い出しました。生まれつきの不感症です。)
クリムトは、絵空事の様にさめて見ている部分と、熱情を感じる部分の両方あるんじゃないでしょうか。
そんなことないですか。
No.40
- 回答日時:
No.39です。
★ しかし、自分がこういう子供時代の経験をしているからと言って、自分の子供の主体性を重んじすぎることは良くないのでしょうか。
☆ このたぐいの問題につきましては わたしは適任ではありません。そもそも経験がないのですから。
澄みません。自分でふっておきながら ぶざまな格好です。
右翼と言えば けっきょく同和問題あるいは在日朝鮮韓国の人びと――いわゆる《暴力団》と呼ばれる人びとです――とつながる。というふうに相場が決まっている(決められているかに思われる)ようですが そういう実際の問題もあるかに思えます。
つまりそういう人びとの将来における身の振り方についてです。そうでなければ あたらしい社会を考える意味がありません。
でも むつかしいので この件も ――誰に対してなのか分かりませんが――予告のみです。
何かありましたら投稿いたします。
No.39
- 回答日時:
No.22です。
なぜかつながりましたね。はーとまいんどさんは どうもアンテナが四方八方に伸びていて変な言い方をすれば主題が海のものとも山のものともはっきりしない いえ はっきりさせない いえ ひとつはっきりしたかと思うとすぐ次の別の主題に関心は移っている というようでもありますから こういう場合 わたしはかなりよわいです。対応の仕方が後手にまわります。
そのわたしは 考え方はしばしば思弁的(≒投機的)ですし ということは飛躍が多いのですが ひとつだけ特徴があるとすれば それは 階段を一歩づつ上がるということです。二段一気に上がっても 一段づつの確認をあとででもしておくということです。
前置きに分かったような分からないようなことを書きましたが 指導者の件でひとつ思うところがあったので したためます。
次のような投稿をしたことがあります。
《広い意味で指導者として 一般にやはり広い意味で最前線にいて
しかもつねに自分は 心身ともに しんがりを務めている》
これは 【Q:謙遜の意味】の回答No.3です。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3676266.html
その回答No.2で触れている美術にかんする質疑応答のほうも おもしろいと言えばおもしろいです。
お分かりだと思いますが 上は 次の一節に反応したものです。
★★ (No.22お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私の経験からですが、日本のリーダーというもののあり方について、もう少し考えてみると、やはりリーダーというものは、全体を見てどう導くかを的確に把握する能力が必要なのだと思います。
この素養は、どうも知識のあるなしや頭のよしあしとは、私の経験上は関係が無いように思います。なので自分の見解では、管理職という名の専門職だと思っているのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
話が変わりますが 質問です。
★★ (No.38補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちょっと話は変わるけど、アマガッパさんが遊戯についてスレ上げた時に、今考えると自分にかけているのではないか思う能力があることに気づかされました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《自分にかけているのではないか》というのは どういうことですか? 自分の考えに自信をもって たとえば子育てについても 行動をつらぬいているといった意味ですか?
分かりませんが どうもその主題とそして《クリムトの接吻》について書かれた感想とが つながっているように感じたものですから。その内容はまだ言わないでおきますが。(へへっ)。
ありがとうございます。
かけているのは、たぶん「じゃれあい」を楽しんだり、人と人の間の空気感を楽しむ能力ではないかと思います。人と人の間に物や、事がある場合は割とできると思うのです。何らかの議題においてのディスカッションなどは、「じゃれあい」ではありませんからね。空虚なじゃれあいはすうーっとひくような感覚になるのです。顕著に感じるようになったのは4歳の時だったと思います。その結果、どうでしょう1~2年間ぐらい「おし」の様に過ごしてしまいました。断っておきますが、こういう傾向は、環境に起因するものではないと思っています。ですから、母なりに悩んだと思いますよ。私としたら、もう少し子供の一人の時間を大事にしてほしかったかなという思いはありますが。まあ、母は今でもその逆を信じて疑っていないでしょう。どうしたもんかな。
しかし、自分がこういう子供時代の経験をしているからと言って、自分の子供の主体性を重んじすぎることは良くないのでしょうか。
No.38
- 回答日時:
>まだ自分も他も何もわからないのでしょうね。
そうかな... ほかの事は何もわからなくて、逆に自分のことは体現的にすべて身についている・わかっているのではないでしょうか。
>なき疲れた時に「誰かをもとめている自分」の認識
親が自分を頼り、自分を求める赤ん坊を求め、それを見て満足・優越感を得ているのだと思います。 もちつもたれつであるはず。
というより、むしろ親が赤ん坊の存在によって助けられているのでは。
私は、泣いている人間(赤ん坊も含めて)をみると悲しくなりますが(今はもうそうでもないかもしれないですが)、母親は泣いている赤ん坊を見て、微笑み、笑って抱き寄せます。
恐ろしい光景です。
頼り、甘え、依存しているのは親のほうだと思いますが...
この回答への補足
ちょっと話は変わるけど、アマガッパさんが遊戯についてスレ上げた時に、今考えると自分にかけているのではないか思う能力があることに気づかされました。
犬でも、乳児でも、何らかの他という対象にアクションをして、リアクションを楽しむという行動をします。この行為、実は今の自分の子供には0歳からあったんだけど、自分自身の子供時代にはほとんどないのです。あるとしたら、3歳の年少さんの時に1回だけ、一対一のかるーい鬼ごっこをしていた一場面しか思い当たりません。この能力は、多分、冗談を言う能力につながるのだと思いますが、今私がさがしているところの何らかのヒントになるのかな。
ありがとうございます。
私が、子供に始めっておっぱいを吸われた時、「ひっ、ひっ、ひえー」という感じでした。決して、感動なんて生易しいものではありませんでした。ビューンて熱帯雨林のワープしてゴリラのお母さんになったようなショッキングな感覚と言えばいいでしょうか。
赤ちゃんがなぜ泣いているかなんてきっと100%分からないのだろうなーといつも心のどこかにありながら抱っこしてました。そういうあきらめのほほ笑みではないでしょうか。ほほ笑んでどんなに泣いても、あなたの泣いている原因はあなた以外には結局わからないのよというあきらめを通達しているコミュニケーションの一歩でないかと思うのです。
クリムトの接吻てごぞんじでしょうか。あれは人間の頭で描いた美しい願望ですよね。
また、ちょっと違うけど相原コージっていう下ネタ満載のギャグマンガに「吸うても、吸うても、吸いたりんわ」っていうコマがあったことを思い出しました。
赤ちゃんが母親に抱っこされて、自分の全てを包み込んでほしいという願望は、成人した人間が持つ性欲となんら変わりが無いように思うのです。
クリムトの絵の様に人間と人間が溶け合うことは不可能であることは知っている。しかし、その絵に引き込まれて感動を覚えずにはいられないのです。現実にはあり得ないことを人間は、潜在的に、のぞんで、美しいとさえ感じている。
不思議ですね。
No.37
- 回答日時:
>もし自分の鏡としての「他」がいなかったら、やはり「個」というものも考えられないのではないでしょうか。
鏡がなくても自分が在るのを知っている人は知っているわけで。
>なにも修飾がない主体はないわけで、どうなんでしょうかね。
確かに。「ボルトが入っているのが私である」と言うのでは、他にもたくさんいるからね。
なにも修飾がなくても主体がある人もいると思います。
ありがとうございます。
生まれ落ちた赤ちゃんは、まだ自分も他も何もわからないのでしょうね。でも、次第におかあさんの後追いを本能的にし始め、また泣いてさみしさから誰かをもとめる。
なき疲れた時に「誰かをもとめている自分」の認識は一歳すぎたぐらいだったと思います。その時同時に風景の認識がありました。
もとめているものは、他というよりは「ぬくもり」という主観的なものだったと思います。
と考えると主観という認識がまずは初めでしょうね。
その時は鏡というものはやはりなかった、だけど自分の輪郭はぼんやり認識していた様です。
とやはり原始的な感覚に戻って考えると、そうかもしれない気がしてきました。
そうかもしれないです。結局、私も何らかの思想にリードされてしまっているのかもしれないです。ニュートラルにものを考えることは必要ですね。
ニュートラルになって、「かれはざい」も「じゅうぐんいあんふ」も両方考えることは必要ですね。
そういった意味で考えを進めると、やはり客観的視点は人間形成を構成しているともいえるのかなと。
入力割り込みでしか動かない原始的なシーケンサーから、さらに発達させて、
ぐるぐるしちゃった時に客観的な視点から、CPUオーバーヒートしちゃうぞってさっちして、割り込みかけて終わらせることができるっていう発展は、社会の成熟と似ているのかもしれませんね。
No.36
- 回答日時:
>しかも、きている洋服にその人間の趣味や傾向という人格性を判断して付き合うことが現実ではないでしょうか。
>「足の中に入っているボルト」というのもその人の、社会における経験によるもので、経験による人格というのは無視はできません。
そこまでいったら、個としての人間がこの地球に生きているのも
その人間の個性や、経験によるものと言える。
「個人」を考えるなら、それはそれ。と考えるのが良いでしょう。
ありがとうございます。
そうですね。
ですが、「個」というものを考えるにはやはり、「他」は欠かせないでしょう。もし自分の鏡としての「他」がいなかったら、やはり「個」というものも考えられないのではないでしょうか。
経験は、伝えなければ、もしくは、なんらかの鏡が無ければ、経験にはなりえない。
なにも修飾がない主体はないわけで、どうなんでしょうかね。
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