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恐らく似たような質問があるかと思われますがあえてこの場で質問をさせて下さい。

私は尊王攘夷の思想の意味は分かりますが長州藩の尊攘派の攘夷は土佐藩や水戸藩とは違っていたと聞いており、それが以下のような事で合っているのか伺いたいと思います。

・吉田松陰は尊攘派として有名だが開国派の佐久間象山を師事している
 うえ、西洋の文化にも興味があったことから実は開国派である。
 ではなぜ、幕府の開国を批判したのか?
 それは幕府が開国をする際にアメリカと結んだ条約があまりにも日本
 にとって不平等で、しかも天皇の勅許も得ないまま結んだので吉田松
 陰としてはそんな腰ぬけな幕府を批判した。
 さらにこんな不平等な開国に対しては攘夷だ!という事で尊攘派とし
 て運動した。
 開国するならするでちゃんとお互い対等な条件と勅許を得た上で調印 しろ!といった感じで。

・よって吉田松陰の弟子にあたる長州藩の尊攘派の中心、桂小五郎や高
 杉晋作や久坂玄瑞なども表では攘夷とさけびながらも実は攘夷などは
 もう無理でいずれは開国し国力をつけなければと思っていた。
 しかし、今回の幕府が行った開国は不平等であるので攘夷を実行し
 た。
 不平等な条約での開国は反対という事で攘夷を唱え、実行していた。

・しかし、その攘夷を実行して4カ国艦隊でやられ結局そのまま開国へ
 と変えた。

この概要であっておりますでしょうか?

A 回答 (2件)

 吉田松陰が幕府の開国を批判するときに、不平等条約だからという理由で批判したというのは聞いたことがないです。

質問者様が不平等条約とおっしゃっているのは、明治時代に治外法権などの不平等な点を改正しようと大変苦労をしたあの不平等条約のことを指しておっしゃっていると思われます。
 反対した1番の理由は朝廷の勅許を得ないで開国しようとし、開国した点だったと思います。

 1858年(安政5年)3月、朝廷から通商条約調印について、御三家・諸大名から意見を聞いた後に改めて勅裁を得るようにとの勅掟が出されました。松陰は調印反対の意見書、『愚論』『続愚論』を藩に出します。
 しかし、老中井伊直弼は6月に日米修好通商条約に調印し、朝廷へは事後報告でした。
 翌7月、松陰は『大義を講す』という文章を書いて藩に送っています。

 この『愚論』『続愚論』『・・ などを読んだら詳しくわかりそうですが、手元にないのでとりあえず検索してみましたらこんなページがありました。

http://www.araki-labo.jp/shiso103.htm
 この方のご研究によると吉田松陰の攘夷論は「開国的攘夷論」だそうです。

 また、松陰は鎖国(国を閉ざす)が良いとは言っていません。天保13年に藩に出した上書でも、海防の為に英国などから艦船を買い、西洋の船匠・船師・技師を海外より雇い水戦術を習うべし。また有名な『幽囚録』では、世界へ進出(侵出?)すべしと主張しています。
 その内容は、「善く国を保つものは徒(ただ)に其の有るところを失ふことなきのみあらず、又其の無き所を増すことあり。」として、
 オウストラリアは英国人がまだ10分の1しか開墾していないので「吾先ずこれを得ば、当に大利あるべし。」
 「朝鮮のごときは古時我れに臣属せしも、今はすなわち驕(おご)る、・・・」「朝鮮を責めて質を納(い)れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ(朝鮮を責めて人質を取り朝貢させて昔のようにさせ)、」。
 また、カムチャッカ・オホーツクを奪い、台湾・ルソンも手に入れるべきだとも述べています。
 貿易や産業のための開国というより、領土拡大を第一の目的とした開国です。『幽囚録』で書いていますが、ロシアも近頃蝦夷の近くに艦を備え兵を置いて軍事拠点を作りつつあるので、時を移さず日本に迫って来るだろう。
 ほとんど、「やられるか、こちらがやるか、二つに一つ」に近い大変な危機感で思考しています。

 1854年にペリーが再び来たとき、松陰は日米間で戦争になると予想していました。
 外夷は日本を呑み込もうと来ているのだから、日本が海防力を整えるまではとにかく今は追い払わねばと思っていたのではないでしょうか?
 
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この回答へのお礼

大変詳しい解説をして頂きありがとうございました。
色々と謎が解けました。

お礼日時:2010/03/26 10:11

元は水戸学からの流れです。



違った所は孝明天皇の、公武合体と攘夷の密勅があり、
天皇を中心として攘夷を図ろうと言う長州藩だけが浮いたのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8% …

それがこれです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%88% …

薩摩藩も加わっています。

その後長州征伐が行われます。
二度目の征伐では既に薩長同盟が結ばれており、薩摩軍は参加せず、
幕府は大敗北します。

大攘夷論の為です。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
それではその点以外では吉田松陰やその弟子たちのおおまかな考えはあっているととらえていいでしょうか?

補足日時:2010/03/26 06:51
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