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以下の英文による哲学用語に関する説明が理解できません

現在、Conceptual Mathematicsという数学の圏論という分野の入門書を読んでいるのですが、
そのなかで哲学の概念を用いた説明が出てきます。しかし、ここに書かれていることが
何をいっているのかよく理解できません。本のほかのページにも補足説明などはありません。

realityは魚、川、家…の動きと成長(?)の中にあるもの?
realityの一部には特別なものがあって、動きと相互作用(?)の中にある?
言語やコンピュータは他のものと相互にやりとりするので相互作用というのはわかるが、
テレビや本やノートは他のものと相互にやりとりしたりしないのではないか?など疑問だらけです。

哲学は全くの素人で、いくつか本などを調べてみましたが結局わかりませんでした。
もし何かお分かりになりましたら教えていただけますでしょうか。

'Reality' consists of fish, rivers, houses, factories, fields, clouds,
stars, i.e. things in their motion and development.
There is a special part of reality: for example, words, discussions,
notebooks, language, brains, computers, books, TV, which are
in their motion and interaction a part of reality,
and yet have a special relationship with reality, namely, to 'reflect' it.

'Thinking' is going out and looking, manipulation, perceiving, considering, ...

The result of this reflective process is knowledge, and the totality of
accumulated knowledge with its inner relationships is 'science'
(a purpose of which is to plan further manipulation of reality).
Science is actually a complex of interrelated 'sciences' focussing on different aspects of reality.

One of the particular sciences is philosophy, reflection (as general knowledge)
this particular relationship within reality, the relationship between thinking and reality.
Thus within the complex of all scientific thinking there is the particular relation between
'objective' and 'subjective'.

In the objective we strive to have as clear an image as possible of reality,
as it is and moves in itself, independent of our particular thoughts;
in the subjective we strive to know as clearly as possible the laws of thinking
(as defined above) in itself, arriving at laws of grammar, of pure logic, of algebra, etc.

ちなみに、この本のページはGoogleで「reality consists of fish conceptual mathematics」
というキーワードで検索すると一番最初にヒットするページでプレビューを見ることができます。

A 回答 (5件)

失礼します。

この文が哲学専門の文であるかということですが、人間が考えるすべてのことは根底に哲学を前提として成り立っていますので、哲学とか数学とか意識されずに読まれればいいのではないかなと思っております。一応解説になっているかどうかは分かりませんが、解説付き訳ということで全文を訳させていただきました。

1)'Reality' consists of fish, rivers, houses, factories, fields, clouds, stars, i.e. things in their motion and development.

「現実」というものは、魚類、河川、家屋、工場、草原、雲々、言い換えれば流転生成しているすべての物事から成り立っています。

**ここで普通「??」と感じてしまうのは「現実」という概念です。品詞は名詞です。名詞とは何かというと「もの(者、物)」「こと(こと、事)」のことです。「もの(者、物)」は人間の五感で感じ取ることの出来るもの、分かりやすく言えば「さわることができるもの」のことです。「こと(こと、事)」とは簡単に言えば「触ることのできないもの」のことです。このあたりから説明に同語反復(tautology)になってしまっていることをお許し下さい。

**そうすれば「現実」とはどちらかと言えば、文字だけ捉えれば、「こと(こと、事)」です。しかし英語の構造はS=C、「こと=もの」という矛盾した構造になっているわけです。日常言語のひとつである英語の「SVC」は厳密な意味では「S=C」ではありません。たとえば「牛はほ乳類である。」の「牛の集合体」と「ほ乳類の集合体」は断然後者の方の数は多いのです。S=Cではなくて、S→C(SならばC)「牛ならばほ乳類だ」という関係が成り立ち、「S」は「C」であるための十分条件、「C」は「S」であるための必要条件ということになります。数学ご専門の方に、こんな事を説明するのは必要はないかと思いましたが、言語というものが一般的には、PC言語・数学言語を除いては、人の使う日常言語ですので、あくまでその中の論理という意味での説明ということでご容赦下さい。

**上のことを別の言い方で言えば、S<Cであります。そういう意味で私の訳した日本文は「現実」というものは・・・物事から成り立っています。というふうに事を付け加えたわけです。英文もちょっと書き方が悪いのではないかと思います。例として、Cのところに物ばかり並べているからです。

**「流転生成」は古代ギリシャ哲学者のつかったごの日本語訳の語を使わせてもらいました。

2)There is a special part of reality: for example, words, discussions, notebooks, language, brains, computers, books, TV, which are in their motion and interaction a part of reality, and yet have a special relationship with reality, namely, to 'reflect' it.

特別な部位の現実もあります。たとえば、言葉・論議・ノート・言語・脳・コンピューター・本・テレビなどです。それらは、動き(流転)と相互作用という点において、現実の一部をなすものであり、しかも現実とは特別な関係をもっているのです。つまり現実というものを「映す(反映する)」ことです。

**ここでは作者の「現実」という意味の分類法は私が先の1)で行った分類法とはことなっています。意味というものはカテゴリーの分類法であり、書籍の作者の数だけ、あるいは思考する者の数だけ分類法つまり意味が存在するということです。だからコミュニケーションの難しさがあるのです。私の「もの・こと」の分類法、作者の「動き(流転)と相互作用という点において」の分類法と異なって当然なのです。
しかし読解するということは、作者の分類法(また新しい別の言葉で言えば視点)に従って思考を進めなければなりません。ここが難しいところです。

3)'Thinking' is going out and looking, manipulation, perceiving, considering, ...

「考える」ということは、外へ出かけて見ること、操作、感じ取ること、熟慮することなどなどです。

続きはあとで、入力文字がなくなってきました。
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途切れ途切れになってすみません。



先ほど「自分の外の"O"」「自分の脳の中に入ってきた"O"」というふうに考える癖をもっているのが西洋の人たちです。「現実」にも2種類あるのです。最後まで"S"と"O"の対立という思考の癖から抜けきれないのです。「自分の外の"O"」のことを人によってはテキストと呼ぶ方もいるし、西田幾多郎・アメリカのジェームス何とか言った方などは、純粋経験と呼んでいます。この筆者は両方"reality"と呼んでいます。実際この考え方が正しいのかどうなのか、私には分かりません。「現象」という言葉でさえ、「象が現れる」とかみ砕けますが、どこに?と尋ねることによって、「自分の外に」と「自分の脳の中に」と考え出すので分かりにくくなるのです。エディターに書かれたファイルをtxtという拡張子で表しますよね。ワープロで色々文字飾りや下線など飾り付けをやると(これが原文の中の"manipulate")拡張子が変わってきます。そのイメージでよろしいのではないかと思います。
ちなみに"O"などないと、いにしえより主張してきたのが、インド哲学(仏教の源)です。唯識という学問があります。まあ暇があれば、ちょろっと流し読みされればと思います。西洋では独我論solipsismといって忌み嫌われています。

7)Thus within the complex of all scientific thinking there is the particular relation between
'objective' and 'subjective'.

このようにすべての科学的思考の集合体の内部では「主観」と「客観」の間に特別な関係が存在してくるのです。

**この用語は西周(にしあまね)が翻訳したものですが、当時の時代の考えを反映しているものを、現在まで皆が使っています。廣松渉などは「客観」のことを「共同主観」とよく呼んでいました。このあたりからアリストテレスが入ってくるのです。論理学でも「形式論理学」と「現代論理学」と区別しているようですが、両者は同じものではないかと思っています。前者がカテゴリーという便利なものを使ってアリストテレスが述べた論理学です。後者は数学の集合?(この辺は不確か)など数学を駆使してより精密さを求めた論理学だと聞いています。分かりやすく言えば、生物の分類で上から「有機物」「無機物」と分け、だんだんと下へ下っていくと、たくさん分類の名称が出てきますよね。あれですよ。ですから、最初の方で「ほ乳類」とか「牛・馬・ヒト」などと言ったのです。上に行くほど述語になり下に行くほど主語になるのです。時代が進むにつれて分類はさらに多くなるかもしれません。後期西田幾多郎はこの形式論理学の主語・述語の関係を「場所の論理」という用語に適用しました。前期西田幾多郎は先ほどのテキスト論を「善の研究」の中で頻繁に述べています。

以上のような理由で、筆者が「主観」「客観」という用語を出すのはちょっと古いなと思った次第です。

8)In the objective we strive to have as clear an image as possible of reality, as it is and moves in itself, independent of our particular thoughts; in the subjective we strive to know as clearly as possible the laws of thinking (as defined above) in itself, arriving at laws of grammar, of pure logic, of algebra, etc.

客観という世界の中で、我々は、出来る限り明確にあるがままの状態で「現実のイメージを」つかもうとし、我々の特定の思考にとらわれずに現実そのものの中へ入り込もうとするわけです。主観という世界の中では、我々は(先に定義したように)思考の法則そのものの中で、思考の法則を出来る限り明確に知ろうとするのです。そして文法・純粋な論理。代数などの法則に到達するのです。

**いかがでしょうか。たいして難しいことを述べていません。かえって考えが、自分勝手な用語を使い、いたずらに人を惑わす文章です。主観・客観なんてない。主客合一と唱える人もおれば、客体などないと唱えるインド哲学もあれば、主観・客観は絶対ある。なぜって我々の言語は"S"と"O"が主たる役目を果たしているのだ。だから科学が生まれたのだ。といろいろですよ。数学と関係した「ウィーン学派」という哲学もあります。興味があれば覗いてみてください。それでは失礼
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この回答へのお礼

貴重なお時間を割いた大変丁寧な解説ありがとうございました。

私には哲学の教養がありませんが、なんとなく意味は理解できました。
思考するスピードが遅いのでohgooさんの解説をもとに、もう少しじっくりと考えてみます。

この解説で哲学の分野にもとても興味が出てきました。SVOという基本的な文型にも、そのような哲学が隠れているというのはとても興味深いところです。
西洋の人が書く文書を読む際には、それぞれの文化に根づいた哲学を意識しておくと、より深く理解できるのですね。

お礼日時:2010/05/01 13:01

専門家の方々が続々ご説明いただいたので、私のようなものが、付け加えることはございませんが、一応途中で止めるのは失礼ですので、ご存知のことが多いとは思いますが、英語の解釈と思われて、続けさせてください。



3)'Thinking' is going out and looking, manipulation, perceiving, considering, ...

「考える」ということは、外へ出かけて見ること、操作、感じ取ること、熟慮することなどなどです。

**英語では「AとBとCとDとE」と言う時、"A, B, C, D, and E"としますが、途中でEを忘れたら"and so on"とか"and the like"などと言ってごまかします。ここでは"...."でごまかしています。"going out and looking"がAに相当する部分で他のものと同レベルの扱いをしています。意味として深い意味はありますがあとで言及させていただきます。

4)The result of this reflective process is knowledge, and the totality of accumulated knowledge with its inner relationships is 'science' (a purpose of which is to plan further manipulation of reality).

この「映す(反映する)過程の結果生じたものが知識というものです。そして知識の内部での(色々な)関係とともに蓄積された知識の全体が「科学」というものです。(その目的はさらに現実を操作しようと企むことです。)

**#3の方が言われた「フィルタリング」といわれたのがまさに、自分という個体の外にあるすべてのもの・ことを自分の解釈に都合のよい分類をしていくことです。reflect=Of mirrors or polished surfaces, to shine back light rays or images, 1520s; meaning "to turn one's thoughts back on" is c.1600.が語源です。要するに「自分の外にあるもの」を「再び都合よく分類して自分に戻す」ということです。

**英語のSとOの関係で説明するとOは"object=ob(before自分の前)+ject(jetエンジンと同じ意味、投げ出す)"つまり外へ投げ出されているもの(絶対に自分ではない)を"going out and looking, manipulation, perceiving, considering, ...するということです。"going out"がまさにSがOと関係を持つために出かけることです。"looking, manipulation, perceiving, considering"はカテゴリーのレベルがめちゃくちゃに書かれてありますが、要するに五感というセンサー・アンテナを使って脳みそ(CPU)でごちゃ混ぜを分類してデータベースのデータにする(操作・熟考)ことです。

5)Science is actually a complex of interrelated 'sciences' focussing on different aspects of reality.

科学というものは、実は、「現実」というものの様々な側面に焦点を当てた「各学問」の集合体であるわけです。

**最初の主語になっている"Science"はあとに出てくる"scienes"とはカテゴリーのレベルを一段上に上げて使った言葉です。お分かりの通り前者が「哺乳類」に当たり、後者が「牛・馬・犬・ヒトなどなど」の意味です。

6)One of the particular sciences is philosophy, reflection (as general knowledge) this particular relationship within reality, the relationship between thinking and reality.

その特別な学問のひとつが哲学です。つまり(一般的知識として)「(外[O]から)内[S]へ)反射してきたもの」で、現実の内部でのこの特別な関係、思考と現実の関係のことです。

**「現実」という言葉が少し分かりにくいですが、この「現実」という言葉も、この文章の中では、カテゴリー(データーベースの分類)の場所が少し異なった場所に入っています。「自分の外の"O"」「自分の脳の中に入ってきた"O"」というふうに。
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アリストテレスのMorpheを理解しないとむずかしいかもしれません。



現実に対する認識を写像によるマッピングで可能にするということについての基礎付けがこの本のテーマです。

数学領域でよく問題になるのは、

アリストテレス的現実論とプラトン的仮想現実論です。

70-80年代にプラトンが流行ったということもあり、最近の流れとしては、アリストテレス的現実論が優位であるという政治的事実があります。その大きな流れがたとえば、semantic Webとかストリングベースのオントロジーの展開です。この本の中でのrealityは、アリストテレス的現実論の中での「現実」です。現実は、effectsとしての現実と捉えてください。デフォルメすると、データベースプログラミングの中のオブジェクトとユーザの関係です。両者は、オペレーションレベルで不可分とします。

意識レベルで、思考の前段階として、自己の中にデータベースに似た構造があるとします(構造主義的思考形式及び動的現実像の生成過程)。

フィルタリングレベルでは、安易にタダ受け止めた像をカテゴリーに放り込むだけ。
思考レベルで、データベースの構造を最適化したり、放り込む先を替えたり出来ます。コレが俗語で言うところの反省です。特殊(spezial)なRelationsの全体です。

Specialには、最低三つの意味が託されています。視覚的直感的「Space, Speciality, Secification」です。

質問文に書かれているダイナミズムだけに焦点を当てるとすると、思考レベルの反省及びマニュピレーションです。個人レベル集団レベルの主観的反省・操作が出来ます。

問題としては、思考の合理性がここに作用してくるという事実です。デフォルメすると、カテゴリー論を含む論理の学です。主客を越えた統一論です。

集積した学としてのコンポジションが、独自のダイナミズムを持って、「学的論理」を通じて、時間を超えても理解されていくという事実です。

Accumlationという言葉で、大雑把に書かれていますが、ぐちゃぐちゃしたコンプレックス(複合体)をフィルタリングすることで、認識が可能であり、フィルタリングの為の本源的理論が、isomorphism (本論)です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
アリストテレス的現実論とプラトン的仮想現実論という立場があるのですね

自分なりにもう少し調べながら解説をじっくり噛み砕いてみたいとおもいます。

お礼日時:2010/05/01 13:03

 こんにちは。



 文章は すべて一人の人間の主観によって成っています。おのれの自己表現として成り立ちます。
 ですから 用語にかんしてもその人じしんの定義に従って まづは読まねばなりません。
 が そのことは No.1の方の解説にゆづって このくだりについてやぶにらみをした別様の解説をつづります。
 というよりも 次の基礎にもとづいて概念の異同を確かめながら読んでみてください。

 1. 一般に《現実》は 《事実》と《真実》から成ります。

 2. 事実とは 世界を現象として捉えたときの実態です。
 3. 《現象として捉える》とは 自然現象にもそして社会現象にさえも そこからできるだけ行為主体という要因を捨象してしまうという意味です。魚・川・野原・雲・星。そして 家にも工場にも 人間とその行為という要素を見ないかたちでの事実認識です。
 4. つまり一般に誰れが思惟しても或るいは行なっても 同じ現象になるという場合に 事実という概念を持ちます。

 5. わたしは トロが好きだとかウナギは嫌いだとか ふるさとの川には特別の思いがあるとか無いとか さまざまな思いを伴なって人の主観が入ってくれば それは《真実》という範疇に属します。主観真実のことです。主観内面における心のことでしょうし 内省・内観等々とも呼ばれます。
 6. 言いかえると 行為事実についてその行為主体の要因を その当事者である人がそれぞれ訴えるかぎりで 含めて考慮するなら それは 真実の問題になります。

 7. ということは 同じひとつの事実をめぐって 人にはその人なりの事実認識とそれに関する主観判断とが現われます。
 8. しばしば事実認識にさえも それぞれの主観内容が入り込むことがあります。そうなると その事実にかかわる人の数だけ真実があることになります。かくして《 discussion 》が避けられません。

 9. ということは 《現実とは 事実と真実との総合である》というとき どうもほんとうは いくつかの――時には対立しあう――主観真実が事実認識よりも優位に立つかに思われて来ます。
 10. この世界現実というものは たとえば歴史事実について その事実認識という名の主観による解釈としてのいくつかの真実でしかないようにも思われます。

 11. ただし 自然科学としては この《主観》から自由な事実を捉えようとしているかも分かりません。
 12. もしくは 主観をむしろ排除して事実認識につとめていると言うべきでしょうか? もしくは 主観を排除しうる分野での現実の知解に限っていると言うべきなのでしょうか?

 13. 事実認識は 《客観》でしょうし 主観真実は 《なるたけ客観にもとづいて主観的に判断した現実観》だと一応は捉えられます。
 14. 《主観真実》について課題として問われることは どれだけ客観にもとづくことが出来るか および推論の妥当性いかんです。
 15. しかも同時にさらに それらすべての条件を優れて満たした真実としての判断であってもそれは いかんせん 全体観にはほど遠いと思われることです。最良・最善の思索にもとづく政策が 実際の現実性となって好い結果をもたらすか これは人間の知性のおよぶところではないようです。

 16. 《客観》については それがそのまま《現実》であるのか この問いが 問題になるでしょう。部分的に 否 という答えが返って来るものと思います。つまりこの場合も 全体観としてどうであるかが 問われているのだと思います。

 17. さまざまな分野でそれぞれ《文法》を 事実としても真実としても認識し それにもとづきさまざまに応用実践したとしても なお《現実》は ほかの道をたどって逸れて行っているか もしくは先を行っているかだという場合が大いに考えられます。
 18. 文法じたいが 現実において 現実じたいとして 動態だと考えられます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「事実」と「真実」、そして「主観真実」と「客観」ですね。
そのような立場でもうしばらくじっくりと考えてみます。

お礼日時:2010/05/01 13:09

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