誕生日にもらった意外なもの

辛くて辛くて仕方がないときでも自殺と選択はしてはいけないのでしょうか?よく自殺すると地獄に行くとか成仏できないとか言う人がいますがあれは自殺をさせないための脅迫に聞こえてくるような気がしてきました。人間って自殺と言う最後の切り札(逃げ道があるから生きていけているような気がします)皆さんは自殺を本気で実行しようと思ったことはありますか?

A 回答 (5件)

「自殺問題」を考えてみるために、日本人の死亡原因のデータを見てみました。



日本では毎年約100万人が死んでゆきますが、その内自殺は3%=3万人です。但し、20代だと自殺が死因のトップです。30代、40代でもかなり多い割合です。

日本の国を良くするには、この「若い人」の自殺をなくす国家的努力が必要です。或いはよい国にすれば、若い人の自殺もなくなるのかも知れません。

・・・と言いながら、建前をつぶやいているだけの無力感を覚えます。そして本当は何をしていいのか自分でもわかりません。(合掌)
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私に、知ったかぶりして、「どの宗教家でも自殺を止めるのは当たり前だ」と言いました。

よくも、そんないい加減なことを言うなって思いました。本来、宗教は律法主義でも倫理主義でもありません。

生まれ変わるとも、地獄に堕ちるとも、それは単なる倫理的な観念を形にしただけのものです。人を死を向かわさせる力というものは、そんなに生やさしいものではないと思うのです。

宗教的な地獄がどうこういうよりも、確か、これは、遠藤周作さんが癌になった時に、本当に死ぬ前には、やはり死は怖いはずであり、死を直前にしていないから、死は怖くないと言っているのにすぎないのだ、と随筆に書いておられたと思います。死が怖くないのは、死の実態を捉えていないからなのです。そういう現実の死を直面していないような話は、ウソだと思います。

あるお笑いタレントが、よく「死ねばいい」ということを口癖にしていました。こんなことを平気でテレビでいう人間は、テレビ界から抹殺すべきだと思いましたし、こんなことを許すテレビ局もテレビ局だと思いました。

しかし、現実の社会というのは、不条理だなって思うことが多いのです。死ななくてよい人たちが死んでしまうわけです。世の中、たぶん、日本の社会は特にだと思うけれども、お笑いタレントのように、社会的に弱い立場の人に対して、「死ねばよい」と言っているような気がしてならないのです。社会的な弱者と強者というのは、簡単に入れ替わるものではないから、強者の論理を以て、人を死に追い込んでしまうのだと思います。単に強者と弱者の記号を置き換えたら、それが、秋葉原の無差別殺傷事件の犯人や亡国の無差別のテロリズムになってしまうわけです。

多くの人は、「(こんな犯人は)自分で死ねばよい」のだと思ったに違いないはずです。でも、それでは、そのタメントのような恥ずべき発言と変わらないのではないでしょうか。人がそうなった要因は、人が受ける感覚の大小はあっても、そこで頑張るか・頑張らないかというよりも、そこに至るまでの救済措置があってしかるべきではなかったのではないでしょうか。自殺の裏返しのような気がします。それとも、自殺しないまでも、人知れず死ぬのなら、それでよいのか、ということにもなりかねません。これは消極的な自殺です。

私は、聞こえの良い建前論で、「死ぬな」とか言いたくもありません。
そういう「死」という最終ポイントを踏むか・踏まないかで留まるべきだというような分かりきったことより前の段階があるはずです。人は最後の最後まで死にたくはないはずです。それを踏み越えようとするには、それを推し進める力があると、なぜ理解できないのでしょうか。

私は、死を前にした人に、禁句があると思います。それは「頑張って生き抜くことだ」「自分を見なおせば活路が見える」というように、その人自身に、答えを求めることであり、生き方に変更を求めることです。私は、そういうことではないと思うのです。死を前にした人は、今、何も変える必要がないのだと思います。

大事なことは、なぜ、そう思ったかということなのです。自殺には、いくつかの要因が重なりあったわけで、その通過点を超えたからだと思います。そのひとつでも、要因が減れば、そんなに死を考えなくてもよいことになるのだと考えています。

例えば、仕事がない-収入がない、自分を常に責める人がいる、相談すべき人がいない、家族がばらばらでお互いが関心がない、未来に希望が持てない、というようなことです。頼れるものがなかったり、信じられるものがない、そういうことが重なりあって「死」を向かっていくのではないでしょうか。つまり、「究極の自己否定」なんだろうと思います。そのひとつでもポイントを減らせれば助かるものではないでしょうか。自分で自分自身を助けられるものなら、もともと「自殺する」なんていうことを、本気で考えていないとも言えます。自己努力では不可能に近いと思います。誰かの助けが必要だと思います。それは、誰でも良いと思います。ほんのちょっとのことで、そして、そういう思いやりのある社会や家庭が必要なのだと思います。そうでなければ、然るべき人を求めることではないでしょうか。
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そうですね、何度か考えたことはありますね。

もう、死なないと俺がどれだけ苦しんでいたかを周囲は理解してくれないだろうと考えました。
んで、自分でそういう経験をしてもやっぱ自殺はよろしくないと思います。それはなぜかというと、「生物として正常な状態ではない」からです。全ての生物には「生きたい」そして「死にたくない」という本能がセットされています。これがないと生命は絶滅しちゃうからです。
で、自殺を考えているときってね、もう四六時中死ぬことを考えるんですよ。葛藤があるんです、やっぱり死にたくないって。その葛藤を乗り越えるほどの死への願望ですから、もう本当に「俺は死ぬ」っていうこと意外何も考えられなくなるくらいのエネルギーが必要なんです、自殺ってやつは。だから80歳、90歳の老人はほとんど自殺しませんよね。そもそもそんなにエネルギーが残ってないし、わざわざ自分から死ななくてももうすぐお迎えの方が来るからです。
そして芸能人などが時々自殺したりしますけど、客観的に見るとやっぱり彼らは鬱病を始めとした精神病に苦しんでいるんですね。私の自殺願望のピーク時も、今思えば結構な鬱病だったと思います。鬱病で自殺したとするなら、それは広義の意味の病死なんじゃないかと思います。となると、自殺願望の状態は「病気である」といえますよね。正常じゃない、異常だということです。そして病気なら、治る可能性もあるということだと思います。

今は、死ぬことが怖いって正々堂々といえます。冗談で「死ぬのが怖くて死にそう」なんていったりします。なぜ死なないのですかという人には、明日には、あるいは一年後にはいいことが起きるかもしれないのに、そして死はいつか必ず来るものなのになぜ今日死のうと思うのと問いかけています(残念ながらこの問いかけに一度とて返答をされたことがありませんが)。
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死にたいと思った事は数え切れません。


でも死ねなかった。
私の最後の切り札は、開き直りでした。
ぎりぎりになってくると案外簡単に答えが出てしまうものです。
仕事の失敗や生活の苦しみやら・・・いろいろです。
開き直りとは迷わない事です。
普段は中々これができずに迷って苦しむのですが
つき詰めて、自分と一対一になった時に、向こうから答えがすっと入ってきたような感じでした。
その答えはたった一つです。
どんな理屈でもありません。
こうする、という、ただそれだけの事です。

こうする、というたった一つの判断に自分を賭けてみるのが、開き直りです。
死をも覚悟した開き直りに怖れるものは何も無い感じがします。

死ぬか生きるか、に迷ったら
死を怖れずに生きる事を選択してください。
死という甘い選択は自分への裏切りです。
裏切りであるかどうかは、つき詰めて自分と向かい合えば分かります。
死にたいという気持ちの底の自分と向かい合ってみてください。
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はじめまして。



そりゃ『しちゃだめだよ』って言うのが常識的な対応です。
でもそれって建前だよなとも思います。

『じゃ死ねば?』っていうのはネット上で暴言吐くのと変わらないし
自分の言葉が最悪の結果を招いてしまった場合、おそらくは罪の意識に苦しみます。
余計な悩みを抱えないためにも、面と向かって無責任なことを言う訳にはいきません。

一方で顔も知らない相手に同じような言葉を投げつける行為は
無責任で馬鹿げたことだけれど、ある意味本音でもあると思いますよ。

自殺については否定しません。ですが大人の自殺に限ります。
若いうちの悩みの多くは、年齢とともに解消されるものですが
大人になってから抱える問題はさまざまです。

時には誰かが死ぬことが周りを救うことだってあります。
どうしようもならなくなった時の落とし前として、ありだと思います。

ただひたすら『自殺はだめ!』っていうのは、きれいごとのように感じます。
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