10秒目をつむったら…

質問が複数あるので、題名を曖昧にしてしまったことをまず最初にお詫びいたします。

(1)戦国時代の騎馬隊について質問です。
本格的な文献を読んだ訳ではないですが、ある本で戦国時代の騎馬隊は輸送が主な任務であり、ドラマのように騎乗したまま戦ってはいなかったと知りました。
そこで思ったのですが、騎馬隊の主な任務が輸送であっても、少しは騎馬隊として戦いに参加していたと思います。騎馬隊が戦いに参加する際、どのようなことを求められていたのでしょうか?やはり機動力でしょうか?それとも、騎馬で人を跳ね飛ばす等の打撃効果でしょうか?

(2)六角氏の軍役と城割について質問です。
六角氏の軍役を具体的に知ることは不可能でしょうか?特に100貫所有する者に対して、何人の兵を率いることを要求していたかなどが知りたいです。
また、城割という意味が良く分かりません。六角氏が城割をしていたと聞きますので、六角氏を例に説明していただけると助かります

(3)肥田城攻めと野良田合戦における浅井長政の関連性について
浅井長政は周知の通り、六角氏から後に独立します。そして、それに怒った六角氏が浅井氏と交戦するわけですが…この二つともの合戦に浅井長政は関連しているのでしょうか?
質問を分かりやすく言いますと
肥田城攻めの段階で既に浅井長政は六角氏から独立しており、肥田城攻めにも関わっている。
または、肥田城攻めの段階では浅井長政は独立しておらず、野良田で初めて六角との戦に関わったのかという質問です。

どうか、回答のほどよろしくお願いいたします

A 回答 (2件)

騎馬兵の存在は(組織的運用)存在しなかったというのが、最近の考え方でしょう。


この時代の馬そのものが、モンゴルの草原を駆けるような体躯的になってないのですよ。
山岳に適するように後ろ足が発達しておりまして、ハイスピードで走ることはできない。
信長が桶狭間の時、清洲から熱田まで2時間かかっていますよね。時速で8kmぐらい(笑)。
短時間なら35Kmぐらい出せるようです。それ以上走るとたぶん死ぬでしょう。
その、信長公記のある合戦の記述の中に、戦闘中は馬を後ろに下げて、徒歩で戦っているさまがあります。
つまり、とても高価だったということです。

それと、その時代の道ですか、馬2頭が並んで通れる道がそもそもありません。
騎馬隊(隊という言葉もありません)が通れる道が日本の国にはなかったわけです。

武田家の軍役では50貫で騎馬1 徒歩兵8人 ですから元から騎馬隊は存在できません。

北条家の軍役も50貫で騎馬1 旗持1 鉄砲1 槍2というところです。

浅井については、新しい文献が出てからでしよう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

お礼日時:2011/03/08 11:44



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
足軽隊の戦闘で手薄になった箇所への突撃・突破とそれに対する逆襲
※ 古代ローマ時代の騎馬兵の機動力ではない
上記の例は、江戸時代になり整備された段階でのものだが、戦国時代は江戸時代以上に大名戦力は国人連合の色合いあが強く、各国人が連れてきた兵力を大名が集約運用することはなかった。



http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/04718b287cd …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%89%AF% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

お礼日時:2011/03/08 11:44

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