石橋山の戦いで源頼朝を救った梶原景時、
その子である梶原景季が、
源頼朝と源義経の不仲の原因の一つと聞きましたが、
そうなのでしょうか?

A 回答 (2件)

以下が源頼朝、源義経、梶原景季の関係です。



屋島の戦いで源氏軍勝利 → 壇ノ浦の合戦で源氏軍勝利、平家滅亡 → 戦績の著しかった源義経・梶原景季、初め20人余りは共に後白河法皇に任官された → 頼朝は「勝手に任官しやがって。鎌倉に帰って来るな」と怒る → でもなぜか景季は許された。義経は許さなかった → 頼朝は景季に「叔父の源行家を討伐せよ」と義経への伝言を託す → 義経は自分の病が癒えるまでそれは出来ないと言う → 景季はそれを頼朝に伝える → 頼朝は怒る → 義経討伐の命が出される

頼朝と義経の不仲の原因は梶原景季にもあるというのは、ちぃっと正しくないですね。梶原景季はただ頼朝と義経の伝言板役を務めただけで、勝手に頼朝が怒ったというのが明白です。義経の人気が疎ましかったのもあったと言います。策士だったわけです、頼朝という人物は。結局は自分の手を汚さず、平家を滅ぼし、鎌倉に幕府を開いたんです。そして自分の邪魔になる存在を消していったんですから。だから頼朝の後の将軍、源頼家、源為朝の3代で源氏政権が倒れたのも、頼朝の権力志向が産んだ結果とされています。
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この回答へのお礼

梶原景季は、兄弟の伝言板役を何度か務めたのですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2011/03/31 12:35

梶原景季は一の谷の戦いや、屋島の戦いで義経の援将として頼朝におくりこました。


しかし自分の作戦が義経に却下され、面目をつぶされた景季は頼朝に華々しい戦果を過小に評価をし報告しました。


景季は頼朝の愛臣だったので、頼朝は信じてしまいました。
そして頼朝は義経の荘園を没収し鎌倉の出入りを禁止しました。

その後、義経は有名な腰越状を発ましたが意味もなく
ついには頼朝打倒の兵を揚げてしまいます
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