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私の知り合いが良く『弁証法的計算』と云う言葉を使います。難しい事は良く解らないのですが、要するに「AがあってBがあって、その結果Cになった。」と云う「1+2=3」(日本の算数の授業)と云う意味での“計算”ではなく「Cと云う結果が出た。それはBの要素がありAの要素があったからだ。」と云う風な「3=2+1」のような考え方(イギリスの算数の問題)らしいのですが、私達のように普通の教育を受けて育った人間からしてみれば、タダの『結果オーライの後付け理論』にしか見えません。

なんでもかんでも「解ってた。」「そうなると思ってた。」と言って済ませる事や、人の功績さえ、その人を投入した自分の功績にすり替えて話す態度が許せません。

そもそも『弁証法的計算』などと云う物が存在するんですか?もし存在するなら、それと『結果オーライの後付け理論』とどう違うのでしょうか?

猿にも解るような易しい解答をお待ちしています。

A 回答 (6件)

また来ました。


私も#1さんのおっしゃる「詭弁」に一票です。

「弁証法的……」というのは、要は……を弁証法的に扱う、ということですから、そうやって扱えるものなら何が来ても間違いじゃないと思うんです。たとえ「弁証法的計算」という言葉が、一般的に使用されていなかったとしても、自分はこの計算を、弁証法的思考に基づいて行っている、というのであれば。

で、昨日からずっと考えていたんですが、どうも「ぱちもん」(関西弁です)臭いような気がする。

もし、その方が今度「弁証法的……」とおっしゃったら、誰の弁証法でしょう、と聞いてごらんになってはいかがでしょう。ソクラテスとヘーゲルの弁証法って違うんですよね?みたいに。ちゃんとした考えに基づいて話をしておられたるのだったら、きちんと説明してくださるだろうし、「ぱちもん」だったら、「まぁ、そりゃどうのこうのでもごもご……」みたいになって、以降はそんなこと言わなくなるんじゃないかな(きっとそういう人だったらまた別のことを言い出すのだろうけれど……。結局スルーするしかないのかな)。

「弁証法」でもそうだけれど、哲学っていうのは、「テクスト」だの「エクリチュール」だのと独特の言葉づかいをする。
なんだよ、わかりやすく「書かれたもの」って言やいいのに、「エクリチュール」だとかなんだとかスカしやがって……、という批判もできるのですが、たとえばデリダを勉強している人であれば、「エクリチュール」という言葉によって、デリダが表現しようとした思想を言っているのだな、とわかる。
哲学っていうのは、ただ無定型に考えるのではなく、考えるフィールドを設定して、ルールを決めて、そのフィールドの上でルールに従って考えていこう、としたものなんです。
哲学用語というのは、そのルールみたいなものです。思想を理解していくためには、まずこうしたルールを理解するところからでないと、始まらないわけなんです。
ところが、それこそ「スカ」すために、会話にこうした用語を散りばめる方もいらっしゃるわけで……。コマッタモンダ。

で、ですねぇ。#2であげた三段論法、ウソは書いてないつもりなんですが、書き方がよくない(すいません)。誤解を招くような書き方になってるかもしれない。この三段論法の立て方にもきまりごとがあるんです。もし興味がおありでしたら、また聞いてください。
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>今の段階では、所属云々の態度は保留にしてありますので、近日中に直接対決(?)の時を迎える事になるのですが、結果ドチラになってもその人に言わせると「そうなると思った。

」と云う事になり、所属しない結果を出した場合は、私に良く思われていない事も計算に入っていた事になります。
 
ということは、
1+2=を、あなたが答えれる立場なわけですよね?
明らかに、相手がどう言おうが、地球に隕石が降ったり、戦争になったりして、その仕事の話が根底から覆らない限り、あなたの一存で決まります。
そして、 
3と答えると、相手は言います。解ってた。
5と答えると、相手は言います。解ってた。
しかし、人間の惑星には、俺のようなシンプルな猿が必要だ。だから、入ってやろう。と、あなたが返事したとしても、それでも、相手は言えます。解ってた。
もちろんあなたも言えます。解るように言ってやったんだと。お前が理解できるために、俺が猿になってやったんだと。
そりゃそうです。
お互いに、分かり合っていなければ、意味が無いからです。意味が解るように相手に伝えるのに、そのために苦心するのです。
>所属した場合は「コイツ、少しは理解出来るようになった(自分のおかげで)。」と云う事で、イイように使われてしまうような気がしてなりません。

そのとき、あなたは、俺がお前の理解に努めたんだと。思えば、それでバランスは取れるのではないですか?
あなたは、自分のお陰だと思っているし、そのよう言う。彼は、彼のお陰だと思っているし、そのように言う。
で、失敗したら、あなたは、俺の所為だと言う。
彼は、彼自身の所為だという。
解ってた。俺の所為だと解ってた。
では、失敗するとわかってて、何故やったのか?
失敗する前になぜ対処しなかったのか?
失敗が、成功の鍵になることが解っているから。
実に整然としているように、私には思えます。
3=( )+( )の考え方です。
そして、永久に、本当の意味で3には辿り着けません。
なぜなら、実際は、3は、( )のためにあるのであり、3に帰着するためにあるのではないからです。
3は、理路整然とするための、餌、道具、表です。
( )は、実質、業、裏です。裏というのは、魅せる必要の無い場所です。
あえて失敗をおかしてはいけないことは無いし、成功ばかりする必要も無いでしょう。
 
もし、彼を尋問にかけたいのであれば、あなたが所属すると彼に言うとき、直接対決の時に、こう言えばどうですか?
「私は所属する(表)と決めました。何故(裏)だか解りますか?」と。
所属しないのなら、彼を尋問にかける意味も無いでしょう。
彼を理解する必要が無くなるからです。
 
考え方如何、結果如何、はいずれにせよ、「ありがとう」がそこにあるか?
それがそこにあるように、仕事をしていれるというのが、楽なように私には思います。
それは、彼から部下に、部下から彼にというコミュニケーション、相互理解を言っているのではなく、総体として、そこに感謝があるかということです。
その感謝が常に起きている結果であり、その理由は結果に帰着します。結果と原因を分けないということです。
感謝の理由を解ったつもりになっても、そんなもの不要です。
なぜなら、その感謝は、仕事や生活の総体にあるのであり、部分にあるのではないからです。
ありがとうの意味するところに、裏や表はありません。
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>Cと云う結果を受けて、それを「相対化/客観化/普遍化」する為に、Aと云う現象とBと云う現象を分けて考えるという事でしょうか?



Cは結果ではありません。
始まりです。
仮説前提です。

ただ「お礼」を読んでいると「弁証法」が問題なのではなく
お知り合いの方が「弁証法」という言葉を使って
詭弁を弄しているように見えます。

何を言っても「弁証法」の名の下に
あなたの行動を自分の正当化のために都合よく解釈しようとすることに
反感を感じる、ということではないでしょうか?

技術者としては素晴らしい、とのことですから
あなたがその技術を評価して一緒にやっていくか?
人間性に疑問を感じて離れるか?
問題はそこであって「弁証法」は放っておくべきでは?

弁証法ってのは元々は、ソクラテス・プラトンにみられる
仮説演繹的方法(問答法)のことで
アリストテレスにおいては
確からしいが真理とはいえない命題を前提とする推理をさし
真なる学問的論証と区別されているモノです。
カントやヘーゲルに至ると難しくなるのでココでは止めときますが
>宇宙艦隊はクリンゴンと和平を結ぶと思った。
に例えられるお知り合いの発想法ってのは
恐らく弁証法でも何でもないですよ。
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この回答へのお礼

そうですね。要は

>その技術を評価して一緒にやっていくか?
>人間性に疑問を感じて離れるか?

って事なですけどねぇ。
実際、理解したいとおも思うんですよ。いい加減な詭弁で取り繕う人物であると判断して、1度袂を別った事がありまして、それからかなりの時間経過があり、今、再び接触している状況です。前回よりも理解出来る事も多く、早急な判断をした自分を反省したりします。
しかし、それでも彼の言う『弁証法的計算』と云う部分には引っかかりがあり、ご質問させて頂きました。
今週中に直接対決(?)の場を持ちます。

お礼日時:2003/11/12 02:46

猿の惑星のひとたちならわかるかもしれない。

なんて。 
括弧の中が3であろうが1であろうが・( )=1+2であろうが3=( )+2であろうが・

同じ1でも、今日晴れだったからの1なのか、五万回転生してやっと解した1なのか、恋人が去って涙しての、、1なのか。又は一を知って十を知り、十を知って元のその一の、1なのか。
3にしても、いろんな3があるからなぁ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
こんな話もあります。 
ある人が、1+2=くじら大好き!
と答えたら、その人の主張を尊重するならば、これを間違っているとはいえない。
1+2が3である「とする」ことは、無限にしえるパターンのひとつに過ぎないからです。
3=くいかけの誕生日ケーキ+2
というならそれでいいわけで。( )を使うということは、そこに何を入れてもいいわけです。
もっとも、回答して「欲しいこと」、期待する回答を伝えるなら、
3=1+2と書くだけでいい。
で、書いてから、3=1+( )でも何でもして、繰り返し確認すればいい。
・・・・・・・・・・ 
( )の中が、1であれ、3であれ、くじら大好きであれ、何故そこが1なのか?3なのか?くじら大好きなのか? 
それを考えるのが、弁証法的結果の解釈ではないでしょうか。
弁証法は、現象を、結果と見る。結果と見るということは、理由を見る意識があるということと解釈した場合、
( )の中を結果とみるなら、それがそうである理由を見るということです。
又、 
(3)は結果、(1)は原因と見る場合は、別に、(1)を導かれた結果とみることもできるわけです。
3という結果を導くためには何を( )にいれたらよいか。
これは、定められた、期待される結果に、邁進せよ。
こういう命令です。原因を問題にする場合、定められた目標を、与えられているのです。
だけれども、その定められた結果、目標を第一に優先するか、あってもなくてもよい一結果として扱うかは、問題を提示された側の一存です。
つまり、回答は、1+2=今日の出来事…3(余り三)でもいい。
>私の知り合いが良く『弁証法的計算』と云う言葉を使います。
 
一昨日のはやりなんですかね。
「的」ってかなり使い方がいいかげんでも黙認される言葉ですし。
弁証法による計算なら、まだわかりやすい。
でも、それは、計算を、弁証法的に解釈するのとは又違いますよね。
弁証法的計算は、計算のために弁証法を使う。
でも、計算を弁証法的に解釈するというのは、弁証法によって、計算以外の示すところに意識が向けるということでしょう。
それはつまり、括弧の中が1であれ、3であれ、くじら大好き!であれ、式をトータルして、なぜあの括弧の中は1なのか、3なのか、それを、計算式の外に求める。
それが、計算の弁証法的解釈となります。
それをし、社会的な意図、背景の意味をかねた場合、
 
期待される結果が前提に存在し、やりくりして、如何にその目的(結果、例えば金、例えば幸せなど)を達成するかを問う3=( )+( )の式は、結果重視の、固定された未来に餓えさせ、現在を常に未来の犠牲とするような思考を堅固にします。その思考に支配されたものは、常に固定された未来(あって欲しい固まった幸せ)の因子を、現在に見ようとします。今何かすることは、求める将来につながると思い、未来という結果のために、今を原因にします。 
だから、間違っても、( )の中に、「3のための数字」をいれるような教育をしてはいけない。
このような遠まわしに飼いならすような教育は、卑劣だと感じます。
このような教育を受けさせられる者は、働く気の無い奴隷のような者たちです。この教育で、労働を鼓舞します。
 
( )=1+2は、常に、現在ある情報を固定され、あたかも線路に沿って走り、常に一定の結果をもたらすような思考を堅固にします。
この思考に従うものは、常に、現在の状況が変わりようの無い絶対の状況だと認識し、待つことで、未来に行くのを待ちます。何が達成されるかを、何もせずに待ちます。彼は、待つことを求められており、停滞することを求められます。
このような教育は、言うことを聞かない、好き放題する奴隷のような人達です。この教育で、活発すぎる動きを萎えさせます。そのことで、コンスタントな労働力を、奴隷から得ます。彼らは、何もせず待っているだけで、実は、既に働かされています。
このような、自由を認めているようなフリをして、実は線路に載せているという、嘘をつくのは、冷たい。
裏切りです。 

どっちも猿以下です。
サルは、奴隷じゃ無いから。
くじら大好き!と答えたり、問題を無視したりしたとして、社会の奴隷ではなくなったとしても、その人が、何らかの奴隷で無いとは言い切れない。
何故なら、腹が減れば満たすものを求めなけりゃならない。生理の奴隷とも見れる。幸せを求める、幸せの奴隷とも見れる。自律性など、微塵も見られない惨劇がそこには残っている。それは、求めるものとの間に、距離をみるからです。
社会の奴隷になることは、生理の奴隷であることを忘れさせるので、その方がマシだという者もいるでしょう。
だからといって、奴隷という形で社会を利用して、何時でもそれを裏切れるぞというような筋違いの姿勢は、同じく寒い。

今記述したようなことが、生の奴隷を繋ぐ鎖(目的との距離)ではないでしょうか。
算数の問題を、弁証法的に解釈すると、↑のようになっちゃいました。
続きは、サルの惑星からはちょっと遠いので、ここまでです。(この後は、銀○鉄道999をご利用ください。)
今回の考察で、定番の算数の問題に、日英問わず善いところは見られませんでした。
 
>なんでもかんでも「解ってた。」「そうなると思ってた。」と言って済ませる事や、人の功績さえ、その人を投入した自分の功績にすり替えて話す態度が許せません。
 
星○監督は選手のお陰だといって、選手を褒めましたからね。決して、俺が選手を選んだんだ、だから優勝したんだとは言いません。そりゃそうです。選手はがんばったんだから(もちろん監督もがんばった)。自分のことをほめるのに、他人に言う必要はありません。自分にむかって言えばいいんです。独り言でも心の中でも。ただ、なぜあの時「○○選手」を起用したのか?それは、戦況が××だと思われたから、○○選手に、~のようなことを「期待して」、投入した。このような説明は、ありと思います。
結果は、リーグ優勝できなかったけど、熱いゲームを、みんな(ファンも選手もTVもみんな含めて)ありがとう。と、いわば、この「ありがとう」が、結果を総合して、表彰してるわけです。
 
あなたの知り合いは、このようにあなたによく思われて無いことも「解っていて」、そのようなことを言うのかな。
解ってなかったら、落語ですね。
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この回答へのお礼

長文の御回答、ありがとうございます。
何度も読み返して、理解出来るように務めたいと思います。

その知り合いというのは、現在私が関わってる団体の主催者で、今後本格的に所属しようかどうか迷ってるところでして。。。
技術は素晴らしいものを持ってる事は分かっているのですが、所謂“芸術家タイプ”と言いましょうか“職人肌”と言いますか、人とのコミュニケーションがあまり上手ではない人のように思います。
私としては監督の様に「選手が。。。」と公言して、解る人には「やっぱり監督だよねぇ。」と思われるような人物こそ尊敬に値すると思うのですが。。。

今の段階では、所属云々の態度は保留にしてありますので、近日中に直接対決(?)の時を迎える事になるのですが、結果ドチラになってもその人に言わせると「そうなると思った。」と云う事になり、所属しない結果を出した場合は、私にに良く思われていない事も計算に入っていた事になります。更には良く思ってない私自身の“認識能力の甘さ”だと云う事になり、「結局アイツは解らなかったんだ。」(誤解したまま)と云う事で処理される。
所属した場合は「コイツ、少しは理解出来るようになった(自分のおかげで)。」と云う事で、イイように使われてしまうような気がしてなりません。
ですから、私から見るとドチラも(浅い意味での)詭弁に聞こえます。ご都合主義の『結果オーライ後付け理論』にしか思えないのです。

お礼日時:2003/11/02 01:10

弁証法的計算、という言葉は、聞いたことがありませんが、私が知らないだけであるのかもしれません。


ただ、この場合はアリストテレスの古典論理学から読み解いていくのが一番いいのかな、という気がします。
ちなみにアリストテレスにあっては、弁証法は論理学とほぼ同義の意味で使われています。

1+2=3という数式の正当性を論理的に証明するのは、おっそろしく大変なものらしいのですが、とにかくわたしたちはそういう論理とは無関係に、論理的な裏付けもないまま機械的にやっているわけです。

そこに「考える」という筋道を導入する。
それにはいくつかの方法があると思うのですが、そのひとつがご質問にあった方法だと思います。

おそらく質問者さんの知り合いの方がおっしゃる「3=2+1」というのは、3という数から1と2を導く、アリストテレスのいう「推理論」のことだと思います(#1さんのおっしゃっておられることも、そういうことだろうと拝見しました。違ってたらごめんなさい)。
ある命題を前提として、そこから推論によって結論を導く方法です。

この推理論には直接推理と間接推理があって、有名な三段論法は、この間接推理のことです。

もっとも有名な三段論法というのは、ふたつの前提(大前提・小前提)からひとつの判断(結論)を導くものです。

たとえば「すべてのクリンゴン人は礼を重んじる(質問者さんのHNから思いつきましたw)。ウォーフはクリンゴン人である。ゆえにウォーフは礼を重んじる」というもの。

正しい論理の筋道で考えていけば、前提が正しければ正しい結論にたどりつける、というのが、古典論理学の一番基礎にある考え方です。

「すべてのクリンゴン人は女性蔑視である。ウォーフはクリンゴン人である。ゆえにウォーフは女性を蔑視している」というのは、論理の筋道としては正しいけれど、前提が間違っているため、結論も正しくありません。

また「戦士の中には宇宙船に乗りこむ者もいる。すべてのクリンゴン人は戦士である。それゆえウォーフは宇宙船に乗っている」というのは、論理の筋道としては間違っているのですが、たまたま結論は正しい、という、質問者さんのおっしゃる『結果オーライの後付け理論』なわけです。
『結果オーライの後付け理論』というのは、三段論法の中で、誤ったものなんです。

おそらくお知り合いのおっしゃる「弁証法的計算」ということの中味は、このような内容だと推測されるのですが。
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この回答へのお礼

解り易い御回答、ありがとうございます。(笑)

さて、私の知り合いの云う所の「計算」は、我々の思う所の「先を読む」方法ではないという事から、「3=2+1」と云うものと近いのではないかと、私なりに推測しただけなのですが、知り合いの言い方・考え方で物事を見ると、全てが「当然そうなる」と云う事になり、私は「じゃぁそうなる前に、対処しろよ!」となります。3=2.5+0.5でも3=0.75+2.25でも結果(3)が固定されてしまえば、あとは無限に前提が存在する訳で、どんな言い訳も成り立つ考え方に見えて仕方ありません。

「宇宙艦隊はクリンゴンと和平を結ぶと思った。」と、当事者のその時の苦悩を余所に、机上の空論を弄んでるだけのように見えます。

お礼日時:2003/11/01 12:48

『弁証法的計算』なるモノがあるか?は知らないんですけど


弁証法っていうのは
ソクラテスとカントとヘーゲルとマルクスとでは
厳密に言うと異なった展開をするのですが
基本の部分で簡単に言うと「推理するコト」じゃないですか。
元々は学問的(科学的)論証ではなく哲学的論証ですから
経験的/科学的実証は不可能であるが
純粋に思考上/論理上はこう考えられる
ということです。
「3=2+1」というのは
「合計して3になるには、どういう可能性が考えうるか?推理せよ」
ということで『結果オーライの後付け理論』ではなく
「答を考えさせるよりも問題を考えさせる方が
より理解を深める」という価値観だと思います。

誤解したポイントは恐らく
>Cと云う結果が出た。
 それはBの要素がありAの要素があったからだ。
の部分です。これは
「Cという現象がある。それはBの要素とAの要素に
分けて考えることが出来るのではないか?」
(そう考えることで現象Cが相対化/客観化/普遍化できるのではないか?)
というように捉えるべきだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
Cと云う結果を受けて、それを「相対化/客観化/普遍化」する為に、Aと云う現象とBと云う現象を、(連続性の中の過程と捉えるのではなく)分けて考えるという事でしょうか?

私から見ると、やはり起こった現象(結果C)を次への糧に出来ない考え方ではないかと思えるのですが。。。

お礼日時:2003/11/01 12:27

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