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キリスト教について教えてください…

お手数ですが、前の質問を読んで頂ければ分かるように、私は酷く捻くれて歪んでいます。

信じられるのは自分だけ…
そう思っています。



2年前、まだ全日制の学校に行ってた頃、登校中に何かを配っている人と会いました。
最初は関わらないようにと離れて通っていたのですが、その人が駆け寄ってきて、「よかったら読んでみてね。」と『新約聖書』を渡して来ました。

その当時は、キリスト教なんて…と馬鹿にしていたものの、なぜか捨てることが出来ず、本棚の隅に置いて、忘れていました。

そして先日、掃除中に新約聖書を見つけました。
何となくペラペラとめくっていると、最後のページに

「すべての人は罪人です」という括りで

「正しい者はいない。一人もいない。」

という言葉を目にしました。
さすがに、本編を読もうとは思えなかったのですが、他にも幾つかの注釈を読んでみると、中々深く、重いものだなと感じました。

それから、少しキリスト教に興味が湧いたのですが、こんな私がキリスト教みたいな神聖な領域に触れて良いわけがない…と思っています。


捻くれていて歪んでいる私…
大人しくて人見知りの激しい私…
今、こうやって文章を書いている私…

どれが本当の自分なのか分からず、自己嫌悪の繰り返しです。
もう何度も死のうと考えてきました。

でも、死にきれず、色の無い世界にただ生きてるだけ。



「すべての人は今救われます」
という見出しがあったのですが、神を信じれば私みたいな価値の無い人間も救われるのでしょうか?


数少ない友達や気心の知れた先輩…何かに縋っていなくては自分が保てません…

助けてください…





前回の質問でかなり精神的に参ってるので、批判的な解答は遠慮してもらえると嬉しいです…

A 回答 (17件中1~10件)

1.そもそも、日本で活動している「キリスト協会」は朝鮮カルト宗教であり、ローマ法王庁公認の「邪教」であり、それゆえに「キリスト教会」を名乗れず「キリスト協会」と紛らわしい日本語を使っているのです。

邪教とは異端を超えた悪なるものどものことです。あなたに近寄ってくる自称「キリスト者」は公式にはすべて朝鮮邪教カルト宗教の悪人です。

2.キリスト朝鮮邪教の背景=大日本帝國政府内務省が制御していた、悪なる不逞鮮人どもや、神道ないしは神仏習合が国教である日本において
陛下をしいし奉り内乱をたくらむキリスト教信者たちを、アカに染まっていた第二次世界大戦時のアメリカ合衆国が、解放の名目で不逞鮮人と内乱をたくらむ
天皇陛下を否定するキリスト教者たちの悪人どもを野放しにしてしまったからです。

3.キリスト教の抱える三重の矛盾
3-1.すべての前提としてのミトラ教
古代からローマ帝国の時代までは「ミトラ教」という多神教が主流でした。
ミトラ教では善と悪とは対等であり、善神が勝つか悪神が勝つかは、決まっていません。
ミトラ教は近代に至るまで主流文明であり続けた無文字文明で信仰されていた正統な宗教です。

3-2.ひとえ目の矛盾=ミトラ教を盗んだユダヤ教と、一風変わった「ユダヤ教徒であったイエス」
主神(一神教)も、主神信仰(一神教信仰)も、救世主願望も、聖典も、すべてがミトラ教由来です。
ユダヤ教とは、当時世界で主流だった強力な多神教信仰に対して、後世仕返しをするという構造の、多神教の中の位置づけでは大変力の弱い単なるいち復讐神の妄想からいでた当時としては観るに値しない変な宗教でした。
キリスト教など存在しません。
イエスはユダヤ教徒でした。

3-3.ふたえ目の矛盾=ユダヤ教徒のイエスを「キリスト(救世主)」として信仰するキリスト教
キリスト教とは、古代ローマ帝国内部に巣食うたちの悪い奉仕団体でした。
この共産主義つまりコミュニズムの原点であるたちの悪い奉仕団体を、ローマ帝国はプリンキピア(属州)群のミトラ教を奉ずるバルバロイをローマ帝国に服従させるツールとして採用しました。
ローマ帝国がバルバロイと読んで蔑んでいた無文字文明の民は、多神教であるミトラ教をそのまま活かす形でキリスト教とし、服従したふりをしました。
マリア信仰が強いのはキリスト教がミトラ教、すなわち多神教であるからです。
使徒も聖人もサタンもすべてキリスト教が多神教であることを今に伝えてきています。

3-4.みえ目の矛盾=神と預言者と精霊というまったく別のものを一つのものとする「三位一体」という異常な決定
ゲルマン人は、特にフランク王国に端を発しますが、「異常な三位一体説を正統となすことによってあらゆる正統であるはずの他者を罰する権限」を手にして、異端である自分以外のあらゆる正統を「異端と断ずることによって罰し征服」しました。
歴史的には、正統派で大多数はであったアタナシウス派を、異端のアリウス派が、ニカイア公会議で、「異端と断ずる倒錯した決定」をしたことと「その盗作した異端が正統という決定」を利用したもろもろの歴史的事象、魔女狩りや、猫狩りによるねずみの大繁殖によるこれらの蔓延(まんえん)など、を指します。

3-5.キリスト教における「正統性の逆転現象」=正しい正統性の順番
=ミトラ教>正統の絶対壁>東方正教会>カトリックキリスト教>異端の壁(「金利をとるものが楽園に行くのはラクダが針の穴を通るより難しい。」つまり、金の亡者のエセユダヤ教徒アシュケナージユダヤ教徒がキリスト教徒のふりをする迷彩。ちなみに、アシュケナージユダヤ教徒とは、古代イスラエル国国民の末裔でもなんでもなく、キリスト教文化圏とイスラム教文化圏にはさまれた「ハザール汗国(はんこく)」が、イスラム教ともキリスト教とも中立であるために国教としてユダヤ教を採用したことと、ハザール汗国国民がヨーロッパ全土に散会したことに端を発する、「鷲鼻のドイツ語のいち方言を話すヨーロッパ白人である、ハザール汗国の末裔が古代イスラエル国の末裔を詐称しただけの単なるドイツ地方民」です。金儲けをしたいユダヤ教徒のドイツ地方民「自称ユダヤ人」がキリスト教徒になりすましたのがキリスト教プロテスント(抗議するもの。「金を儲けさせろ。」)と抗議したのです。)です。)>プロテスタントキリスト教>邪教の壁>朝鮮キリスト協会

4.キリスト者としていきてゆかれる場合、最低この二冊を座右の書として下さい。
「ゆがめられた地球文明の歴史」栗本慎一郎
「文語訳旧新約聖書」
(口語訳は誤訳だらけなので読まないで下さい。)

5.キリスト者としていきてゆかれる場合、高低アクセントのきれいなラテン語(ドイツ方言ラテン語などは聞くに耐えません。)を話せる日本人聖教者がいるカトリックキリスト教をお選び下さい。
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はじめまして。


高校生ですが、将来は洗礼を受けようと考えています。

学校がキリスト教系であるため、聖書は身近な存在であり、
周囲に相談できるクリスチャンもいます。
その点、信じているから洗礼を受ける、という考えに至りやすかったのだと思います。
ちなみに、在学中や卒業後に洗礼を受ける人は少なからずいるそうです。

質問者さんが聖書をたまたまもらったというのも、何かの縁でしょう。
キリスト教に興味を持つのは自由だと思います。
どうしようもないクリスチャンなんてたくさんいますし、
私だってそんなに性格のよい方ではありません。
クリスチャン的に言えば、他人があなたのことをどう思うかよりも、
神様とあなたの関係の方が重視されるべきですから。

「神を信じたら私のような価値のない人間も救われるのでしょうか?」とのことですが、
実は、意外ともうすでに神様を信じちゃっていたり…ということはないでしょうか?
キリスト教の神、と意識することはなくても、人知を超えたなにか大いなる存在として、
神を信じているということもないでしょうか?

信じる気持ちがあるのなら、自分に素直になって信じればいいと思います。
そうしたら、気持ち的に楽になるのではないでしょうか。
それが救われるということなのかどうかはわかりませんが。

私の話になってしまいますが、洗礼を受けたいという意思が明確にあるので、
教会に足を踏み入れたりもしましたが、教会は面倒なところでした(笑)
詳しい話は割愛させていただきます。
高校生なので進路のこともあり、洗礼に向けてなにか行動を、ということはあまりできず、
何年かかるかな~というところです。教会にはなじめなさそうだし(笑)

結局のところ、教会も含めてキリスト教は矛盾だらけです。
信仰を持つのなら、その矛盾とどう折り合いをつけていくかも大事になってきます。

どうか、質問者さんのお気持ちが楽になりますよう。
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御言葉、即ち聖書が聖書として認められるのは証拠にあります。

即ち、全ての聖書はその証拠としての連れ合いがあるのです。そして、その連れ合いを探し出すとその意味を分かるようになります。だから、聖書から答えを出さずに自分勝手な解釈をする人は無視すべきです。                                                                「律法は証拠にある。もし、彼らがこの御言葉に沿って言わないならば、それは彼らの中に光が無いからである。イザヤ8:20」。律法は狭い意味では十戒を指しますが広い意味では守るべき御言葉、即ち聖書全体を言います。ヨハネ福音1:9はイエスキリストが真の光だと言われますので、この原則に従わない者は全て、彼がキリスト人だと言っても光とは何の関係も無い偽り者です。                                                           また、イザヤ34;16は「貴方達は主の本を探して読みなさい。これらの中には一つも足りないものが無く、一つも自分の連れ合いが無いものが無い。これは、私の口が命令し、彼の霊がそれを集めたからである」といわれています。                                                                                  最初の人であるアダムは神様を象って作られましたが、罪を犯すことによって神様の似姿を失いました。だから、創世記5:3はアダムが自分の似姿のどうりにこどもを生んだと言われているのです。だから、全ての人は神様の似姿ではなく、罪人であるアダムの姿をしています。だから、全ての人は罪人です。だから、ローマ書3:10は「義人はいない、いない、一人もいない」と言われているのです。義人は罪がほんの少しも無いひとです。罪が刻一つでもあれば罪人です。                   このような哀れな人々のために旧約では律法を完璧に守れば救われるように律法が与えられました。また、律法を守りながらそれを破った人には自分が受けるべき処刑を身代わりの子羊に死を移り処刑しました。                                                                これはイエスキリストの模型だったのです。                                                新約になるとイエスキリストが我々の罪の身代わりになって十字架で処刑されます。だから、浸礼者ヨハネはイエスキリストを見て「御覧なさい、世の罪を取り除く神様の子羊です。ヨハネ福音1:29」と証拠したのです。そして、イエスキリストは私達の全ての罪を背負い、旧約の子羊のように十字架に掛けられ処刑されました。                                                                だから、イエスキリストが自分の罪を全て無くして下さったと信じる人は義人です。だから、イエスキリストは処刑されながら最後に「全てを成し遂げた。ヨハネ19:30」と宣言されたのです。そして、三日後に復活されました。これを信じる人をキリスト人だと言います。これを信じる人は救われたひとです。だからヨハネ5:25は「真に真に私が貴方達に言います。死んだ者達が神様の御子の声を聞く時が来ていますが、今すぐです。聞く者たちは生きるのです」と言われたのです。                                                              救われてない全ての人は死んでいます。人は神様のように肉体と霊体と魂体で出来ていましたが、アダムの罪によって肉体は病と死によって滅び、霊は神様の御言葉を読んでも分からないようになり、魂体は地獄に行くようになっています。神様の御言葉を読んでも分からないので死んでいると聖書は言われるのです。GOOで返事した人々の中で救われた人は10年前の二人しかいませんでした。                                                                                    ローマ書5:18-19は今までの書き込みを整理し「ですから、一人の犯罪によって審判が全ての人に臨み有罪宣告に至ったように、一人の義によって値無しの賜物が全ての人に臨み命の義に至ったのです。一人の不従順によって全ての人が罪人になったように、一人の従順によって全ての人が義人になります」と言われました。                                                                                             世の中の歴史は過去のことを書きます。しかし、聖書は未来の歴史を書いています。多くのことが成就され、また成就されつつあります。                                                                           聖書の歴史の中で我々が住んでいる位置はヨハネ啓示録3:14-22の間です。これをラオデケア教会時代と呼びます。この時代、即ち今の時代には救われた人が殆どいません。日本の教会の99%は救われた人がいません。また、書店に行っても救われた人が書いた本もありません。救われた人がいないので神様が教会の中に居られません。ヨハネ啓示録3:20は「御覧なさい、私が門の前に立ち叩きます。誰でも、私の声を聞きその門を開けると私が彼に入って行き彼と一緒に食べるのであり、彼も私と一緒に食べます」。教会に彼を教える人がいないのに、それでも神様を捜し求める人がいると神様が個人的でも合って下さり、彼に御言葉を教えるという意味です。聖書は受け入れることを食べると言うときもあります(ヨハネ啓示録10:9)。                                                                              自分の罪の故に苦しんでいる人は病人です。彼には医師が要ります。そして真の医師になるイエスキリストに会えれば治れます。マタイ9:12-13は「健康な人には医師が必要ないけれども、病の人には必要です。ーーー 私は義人を呼びに来たのではなく、罪人たちを呼びに来たのです」といわれています。啓示録3:17で指摘するように目が見えない(聖書を読めないとの意味)のに見えると偽る人が沢山います。洗礼を受けると救われると偽る者、本人も分からない異言を唱えると救われると偽る人、近くにある教会に行けと偽る人、キリスト関係の本を読めと偽る人、聖母マリアに祈れと偽る人など医師が必要ない元気な人々が沢山います。                                                                                   それでは、聖書は何と言われるのか確認してみしょう。「キリストは浸礼を与えるために私を送られたのではなく、福音を伝えるために送ったのです。言葉の知恵でしないのはキリストの十字架が無駄にならないようにするためです」。                                                                                       聖書に根拠も無いことを言葉の知恵で言う者は神様から送られた者ではありません。                                                        福音はイエスキリストが子羊としてこの世に来れれ、私の罪の身代わりになって処刑され、三日後に復活されたことを言います。これを信じる人は今すぐ救われます。ここで書いたことは99.9%は聖書の中に書いてる内容です。                                                                                                                                                                                                                                       
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「キリスト教に興味があるのですが、」言いかえれば神様があなたに興味があるのかもしれません。



教会にいきながらも、罪悪感に悩んだり、落胆したり、を繰り返しながら、
少しずつ目の前の霧が晴れてゆく、少しずついやされていく、皆そんな過程をたどり、
神の愛を信じるようになるのだと思います。
神様はもう貴方に働きかけていらっしゃいます。
お近くの日本基督教団に属する教会でしたら間違いないでしょう。
勇気を出して行って御覧なさい。
元気の出るサイトがあるので検索してみてください。

「今は時 だから今日希望がある」マスクワイヤーというキリスト教の合唱団です。
若い人が元気いっぱい歌を歌っています。ユーチューブで聞けます。

うちの教会にも若いころ精神を病んでいた人が、その方面の勉強をして、現在
公務員でそう云う人を助ける施設で働いていらっしゃいます。神様はどんな人も見捨てず
その人を人のため役に立つ人へと導いてくださいます。
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バイブルは読んだことがある。


矛盾の山積みである。

矛盾は辞書で調べてね。

ちなみに、ボクの理論では、ボク(自分)が全宇宙の中心と考える。
誤解があるようだが、自己中心とは違うのだ。

たとえば、地球は太陽の周りをクルクル回っている。
BUT
地球にいる視点では、そんなものは感じることはできない。

ようするに、視点は常に本人であり、本人が中心視点である。

ってことで、ボクが「キリスト」でっす。

ここからが問題ですが、こうゆうことを書き込むと、「牧師」が私に会いにくるのは、
どうゆう「力」なんでしょうかね。
権力とかで個人情報を入手したりするんでしょうか。

こうゆう発言者を1人1人調べてるのかなぁ?

まぁ、キリストでも、寿命は回避できないはずだし、
所詮、人は、地球に住む、ただの動物なんでしょう。
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>それから、少しキリスト教に興味が湧いたのですが、こんな私がキリスト教みたいな神聖な領域に触れて良いわけがない…と思っています。



よく言われるのは、聖書の「健康な人に医者は要らない。
私は正しい人を導くためではなく、罪人を導くために来た」
という言葉です。
(間違っていたら済みません)

また、精神疾患と宗教が一緒になるとややこしいことに
なるので注意が必要です。
(聖職者でさえこういう問題が起きます)

>「すべての人は罪人です」という括りで

私もカトリックなのですが、
原罪というのは理解できません。
聖書に「親の罪を子供が背負うことはない」
と書いてあるのに矛盾するような気がします。

これは、おそらく「思いによる罪」、「怠りによる罪」
を犯さないことは不可能だといいたいのだと思います。

精神疾患の話と関連しますが、「悪いことをしようとしたと
考えた」とか「いじめを見てみぬふりをした(これは
これで問題ですが)」などが罪だと言われて
落ち着いていられますか。

ちなみに、この問題は、カテキズムを
ある程度勉強すれば解決できます。
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プロテスタントのクリスチャンです。



神様に最も近い方は、ご自分が正しいと思っている人ではなく、毎日が楽しくて仕方ないという人でもなく、社会に貢献し、人々に認められている人でもございません。世界の歴史を変えた人たちは、普段は小さな小舟だ魚をとって生活する漁師で嵐が来ると怯えて漁にもならないような者であり、自分の尊敬する先生が捕まって、自分も仲間ではないかと言われると、何の誇りもなく否定するものであり、自分が捕まりそうになると捕まえられた服を脱ぎ捨て裸で逃げるような者たちでした。

イエスが来たのは健康な人をまねくためでなく、病人を招くために来たと述べています。聖書は述べています。

「私はあなたに将来と希望と平安を与える。」

今お約束できることはもしご質問者さんがイエスキリストに出会うならば楽しとかだけでなく、幸福だとかいう人生だというだけでなく、ただただ歓喜、歓喜に溢れた時間をもつことが出来ます。日々の生活が歓喜に溢れていると仕事にならないかもしれませんが、歓喜の原因を抱えて日々を生きることが出来ます。

教会では牧師がご質問者さんのような求める方を、ある意味でそのような人のみを待ち受けております。またそのように求める人になっていただこうと日夜頭をひねっております。

解決の日は近いと思います。
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簡単な心理テストをしましょう。



仏法以外をすると成仏しませんよ!

これを言われて腹が立ったりそうだと思うなら仏法をするべきです。表面的な意識や希望はどうあれ内心、深層の心理では仏法を求めているからです。

これは東洋人には顕著な傾向です。
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ずいぶんと極端な事を言う聖書?ですね



全ての人が罪人・・これは神の禁じた実を食べたという原罪を差しています。
全ての人には原罪があり、これによって罪を背負っているわけです。別に全ての人が罪人と言うわけではありません。

そして改心し、洗礼を受ける事によってこの原罪を赦される。だから天国の門の通行証を得る権利が与えられるということです。
では、洗礼を受けたものと受けないものではどちらが罪が重いでしょう。
私は考えます。洗礼を受けたと言う事は事の正邪の判断が出来るということ。その人が犯すのですから、物事の判断の付かない子供の罪より重いのが当然でしょ。それだけ被洗礼者の人生が厳しいものなんですよ。
なぜか多くの人がキリスト教を誤った解釈で気軽に考えているようですね。

キリスト教も千差万別で、ドコからドコまでが正規のキリスト教と言うものもありません。
古くはカトリックから、プロテスタント(正式にはルターの唱えたものだけがプロテスタントです)、その他の新キリスト教などなどありますので、自分が善いと思うキリスト教でいいと思います。

私はカトリックなので、カトリック自体を軽く受け止める事は出来ません。

誰でも救われる、のがお望みならむしろ「浄土真宗」でしょう。
『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』これは有名な言葉ですよね。善人が悟りを開き往生するのだから、まして悪人が悟りを開き往生できないわけが無い」と言う意味です。
但し、これも決して「悪人だから極楽にいける」なんていう意味じゃないですよ。
確か東条英機も晩年は浄土真宗に帰依して心穏やかに過ごしたと言うことでしたよ。
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pastor様のご回答の後で気が引けるのですが.....



キリスト教に関しては多くの派があり、
聖書解釈の過程でどの解釈を支持するか熟考・吟味する必要があります。
日本基督教団はメインラインと言われ自由神学の流れですが、福音派は聖書無誤謬性をとり献金等も厳しいです。
徹底的に信仰を追及していこうというのであれば、福音派・ルーテル派が合っています。

私は、凡人中の凡人。とても神に従っていけるような身ではなく、よくぞここまで信仰するに至ったと思っています。一般的な凡人は、聖書解釈・礼拝スタイルに関して自分の考えが決まるまで所属教会を決めるべきではありません。クリスチャンの知人を複数持つことも必要です。彼らの意見も大いに参考になるでしょう。その点から、最初は独立した講座に所属されるのが最も自由な選択ができると思います。

千里の道も一歩からですが、途中で脱落する者も多く.....
もちろん、すべての道は主がご用意してくださいます。歩みも招きもすべて神様の意図のもと、私が口出しするような事ではありません。ですので、本当に素晴らしいと同時に凄い世界です。個人的には、まだ宣教をするような状態ではありません。宣教は、聖書的には信徒がするべき義務なのですが。

一般書籍も日本では少なく且つ10%~増しの価格設定なので、図書館で借りるなりして自分で読んでいくべきでしょう。クリスチャン同士、信仰の在り方もまちまちで、個人の疑問を晴らすには聖書・書籍を読んで考え、主にお尋ねするのが一番です。宗教に関心があり、信仰を第一と考えていることが本当に重要ですので、時間が無い、費用が惜しい、他にやりたい事があると考えるうちは厳しい可能性があります。

実は私は、仏教に関心があり密かに書籍を読んでいます。近いうちに、イスラム教も始めます。
しかし、信じているのはキリストだけです。

宗教は本当に凄い世界ですので、「神聖な」と考えるだけでは将来考えが変わるでしょう。
人間を支配してきた歴史もあり、様々な知識が必要であり、しかし知識だけでは不十分であり、理性と感情と直感と......考えれば考える程、自分の限界を感じます。怖くなる時もあります。

結論としては、その人間には、その人間の道があります。何度も迷ったり、悩んだりする可能性がありますので、とにかく最初は勉強から始めて、充分な聖書解釈と選択眼を養うことでしょう。私は、こう言ってくれるアドバイザーがいなかったので大変でした。参考になれば嬉しいです。
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