No.4ベストアンサー
- 回答日時:
徳川家が解決して足利家が解決できなかったこと
○ 対抗権威の解決
後南朝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97% …
応仁の乱が 1467年で後南朝の最後が1459年
潜在的な権威として応仁の乱直前まで南朝は存在した。
鎌倉府
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …
1455年に事実上消滅とされるが、その後も京都の対抗勢力として存続
天皇の権威に関しては、禁中並公家諸法度で統制、豊臣家を1615年に滅亡させている。
豊臣家に対して一大名になることを要望などと歴史書に書いてあるが、近畿圏や西日本では、秀頼の知行宛行状が存在しております
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/20 …
○ 長子相続制の解決
室町期の大名が反乱を起こすのは、足利家にとって代わろうというのではなく、相続者以外の一族が、足利将軍以外の権威を掲げて相続者になろうというもの。
典型例は、観応の擾乱における足利直義となりますが、南北朝期以降も、大名の反乱の構造は
将軍家による、各大名家への相続介入とそれに対しる対抗なり、事前対抗だったりする。
相続の紛れが無くなれば反乱の要因は減ります。
○ 貿易の独占
海外貿易を徳川家が直接独占することで、経済的に徳川家が他家を圧倒します。
No.6
- 回答日時:
1.徳川氏には室町時代の松平氏の時代から引き継ぐ分厚い忠義一筋、質実剛健の三河武士の家臣団がいたのに対し、足利氏は名門として人望こそ有ったが、組織化された家臣団がいたわけではない。
2.徳川氏が戦国時代に織田氏と同盟を結び、東国に大きく勢力を拡張させ、豊臣政権時代にも実質NO.2として関東の開拓に成功して大きく実力を蓄えることができたのに対し、足利氏は北条氏に警戒されないように恐る恐る家系をつなげていただけで実力を蓄える時期が無かったこと。
3.徳川氏が関が原の合戦で反徳川勢力を一掃し、反徳川勢力の領地を没収し再配分することで権威を高めたのに対し、足利氏は自分の方が南朝政権に対する反乱勢力であって、北朝から支持を得ることでかろうじて政権の正当性を主張できた脆弱な政権であったこと。
4.足利氏は、源氏の嫡流という名門の家系であることが評価されて、反南朝政権派の武将の支持を得ただけであって、足利氏自体に他を圧倒する実力があったわけでもない。反南朝政権派の武将の正当性を担保する為に足利将軍という存在が必要であって、そのために反南朝政権派の武将によって擁立されていたに過ぎない。
それに対し、徳川将軍家は「二度と戦国時代に戻りたくない」と願う朝廷、公家、寺社勢力、商人、農民のオール与党体制というべき磐石な支持基盤を確立できていました。
5.徳川氏が武家官位制を創案し、徳川将軍家が武士に対し独占的な官位の任命権を握ったことで武士の序列付けに成功し、徳川将軍家の権威を高めたのに対し、足利氏は守護の任命権を握っていただけです。ということは守護に任命されなかった武将にすれば足利氏の有り難味など全く無かったわけです。だから足利氏は権威を高められなかった。だから室町時代は有力な守護大名が将軍家を通さずに直接、公家を通して味方につけたい国人領主の官位を推薦するといった手段で、独自に組織化して実力を蓄えることができたのです。
6.徳川将軍家が当初から朝廷、公家、寺社勢力を統制し、彼らの領地を安堵し安全保障もしていたのに対し、足利将軍家と朝廷、公家、寺社勢力の関係は安定したものではありませんでした。足利将軍家は北朝の軍事基盤として北朝を支持し、北朝は室町幕府の正当性を担保することで朝廷としての正当性を南朝に対して主張できたという二人三脚の関係があったものの、南朝政権との対立が続き寺社勢力の領地を安堵してもいないし、安全保障もしていたわけでもない。だから公家や寺社勢力は縁の深い有力な守護大名に安全保障を頼ろうとしました。また寺社勢力は独自に武装し、それ自体が独立した大名といえるような勢力にまで発展していったのです。
7.徳川将軍家が、海外との交易を制限し、金山・銀山などの鉱山を幕府直轄領にし、大名が独自の経済基盤を持たないように統制していたのに対し、足利将軍家はそれができなかったので守護大名は独自の経済基盤を持つことができた。金山・銀山の開発・発見が促進されたのが室町時代であって、それには足利将軍家が関わる機会も無かったわけです。
8.徳川氏が徳川将軍家、徳川御三家、徳川御三卿という基盤を確立し、将軍職相続の基準も明確化できていたのに対し、足利氏はそうではなかった。将軍職相続の基準が不明瞭です。だから、有力な守護大名は現将軍を退任に追い込んで、自分の意のままになる傀儡将軍を立てようと企んだりしたわけです。
9.徳川家康が室町時代をお抱え御用学者、ブレーンに徹底研究させ、政権安泰のための建策をさせたのに対し、足利尊氏は武骨一辺倒で時代の流れに乗る知恵があっただけで、ブレーンがいたわけでもない。
以上をまとめると室町時代は歴史に学ばない政権がいきあたりばったりに対処していたのに対し、江戸時代は歴史に学んだ政権が磐石な政権基盤を確立したということに尽きます。
この回答へのお礼
お礼日時:2011/12/14 15:27
丁寧な回答ありがとうございます。
家康が幕府を開くに当たって考えに考え抜いたのが
その後の盤石な基盤につながるのですね。
また元寇~鎌倉幕府の崩壊~南北朝時代と
時代の流れに問題があると感じます。
No.5
- 回答日時:
それぞれの回答者様から貴重な内容を学ばせていただきました。
少し、別の視点から
要するに、室町時代の大名は守護大名にしろ後の戦国大名にしろ「成長期」ですよね。
伸び盛りの悪たれ坊主が子分を率いて暴れた時代です。
江戸時代は、大名そのものがサラリーマン化し、将軍をはじめ江戸の重役ににらまれてクビニならない
かとひやひやした時代です。経済力を考えてもとうてい幕府に対抗できる藩はないですよ。
つまり江戸の大名はもう没落期なのです。
面白いのは明治になって「廃藩置県」をするとき明治政府は大名の反乱を覚悟して皇居を守備兵で
固めたのに、反乱を起こした大名はゼロ。どの大名も華族になり、政府からお金を支給されるので
喜んで藩を手放したということです。
No.2
- 回答日時:
室町時代の大名と江戸時代の大名とでは、幕府との力関係が全く違います。
室町時代の大名は六分の一殿と呼ばれた山名をはじめとして、足利将軍家に匹敵する
勢力を誇り独立性の極めて高い者が多数存在していました。
将軍家はいわば京都周辺を治めている一大名であり、大名連合の盟主のような存在でしかなかったのです。
一方江戸時代の大名は最大勢力の加賀百万石でも、徳川家の四分の一以下の勢力に過ぎません。
幕府の力は全国に及んでおり、政治的経済的に重要な拠点は幕府の直轄地にしていた他、
反乱の可能性のある外様大名の周辺には親藩譜代を配置し、幕政に外様は関与させない参勤交代や手伝い普請で経済力をそぐなど様々な手段での統制が図られていました。
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