アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

二重の瞼を見ていると、目を閉じた時に二重の部分が伸びて一重になりますよね。
これって、瞼の二重の部分が蛇腹のような役割を果たしているのでしょうか?
目を閉じるときは一重になり、目を開けると二重になるということは、構造的にみると、目全体の面積における目の開口面積を大きくしているのではないかと思うのです。
お風呂のフタに例えてみると、一重の場合は硬い一枚もののフタ(普通は二枚組み合わせる)で、一枚を固定するとすると、開けられる面積は1/2となる。
二重の場合は細かく折り目の付けられた蛇腹式のフタとすると、端を固定したとしても、空けられる面積は( 折り目数-1/折り目数 )となりおおきくなる。

もし二重にこのように目を大きく開くことの出来る機能があるのだとしたら、その機能を獲得した人は、そもそもなぜ目を大きく開かせる必要があったのでしょうか?
(1) 性選択。二重で目が大きいと、第一印象がいい。性格も良さそうに見える。
(2) 社会選択。同じように、印象がよく、人徳も得られそう→出世?
(3) 生物選択。毒を持つ生物が毒々しい色をもつように、一重の人も毒を持つのだとしたら、その毒をアピールしている、「俺に近づくと怪我するぜ」的な威嚇効果?
(不良の間では、いざこざを起こす前にわざと目を細め、わざと目つきの悪い目にします)
つまり二重はその逆で、毒を捨てたことをアピール?

どれだと思いますか?
または他の意見があれば遠慮なくお願いします。

A 回答 (2件)

えーー、質問者様、もしかして一重まぶたが先にあって、二重まぶたが後から進化したと思っています?



事実は逆です。一重まぶたは、東アジア一体(中国・韓国・日本・モンゴル・シベリア一部)の人たちしかもっていない遺伝形質で、二重まぶたと一重まぶたでは二重のほうが優性遺伝子です。

これはもともと二重だけだった人類が寒さから目を守るために、上の皮の死亡を厚くして被さったのが要因だそうです。

だからアイプチは脂肪の重さを接着剤でくっつけているだけだといえます。

ですので、せっかくお考え戴いた二重の機能はまったく意味がありません。人類だけでなく猿人と猿はすべて二重だからです。

また、なぜまぶたが二重になるかは質問者様のご推察どおり、蛇腹式になっているからです。一重の人は空いているときに蛇腹になっているヒダに脂肪がついて覆いかぶさって1重に見えるようになっているだけです。
ですからアイプチで表面を持ち上げると、下から2重目がでてくるのです。

この回答への補足

チンパンジーやオランウータンからニホンザルまで確認してみましたが、確かに二重のものが結構いるようです。
ただ、これらは構造的な二重のようで、目じりに繋がっていないコーカソイド人種と同じタイプの二重のようです。
アジア人の天然二重は、目じりにつなかった繊細型?な二重でしょう。
類人猿や猿類にも一重と二重がいるようですが、目じりにつながった形の二重は調べた限りでは確認できませんでした。

そういうわけで、アジア人型の末広二重は、眠そうな感じや弱弱しい感じがありますが、これは平面な顔面になって構造的二重がなくなり、一旦一重になった後に出来た形質ではないか?と想像しています。

チンパンジーの二重
http://blog.whatsinit.jp/wp-content/uploads/2010 …

コーカソイド人種の二重
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/fd/6adf3f …

コーカソイド人種の一重
http://handicap.scenecritique.com/40715.jpg

アジア人の天然二重
http://pc.gban.jp/?p=45766.jpg

補足日時:2012/08/26 15:44
    • good
    • 0

さほど難しい話ではないのかと思いますが?



例に挙げられた(1)~(3)共に結果としてそのような効果はあるのかも知れませんが、いずれも結果として、文化・価値観としてのものであって、世界各国が一様にそれを「良い印象」「毒・警戒」と受け止めるとも思えません。(調べたり聞いて回ったりもしてませんが)

手をやんわり握ったときに出来る手の平のしわの本数(手相?)、手の指をぴんと伸ばしたときに指関節の指の甲?に出来るしわの本数も形も数えれば個人ごとにかなり違うはずですが、誰もその違いを気にしませんよね?
あるいは二重あご、三段腹と同じことで、最大伸張幅に対してどこまで弾力を持ち収縮できるか、またその反復による癖(癖しわ)でしかないのかと思います。
同じカ所も老化と共に皮膚の弾力を失いしわの数も増えます。(二重まぶたが老化現象だとはいいませんが。)

それが結果として人と人が面と向かい話をする場合、目を見つめあっての機会が多く、目の表情・印象としてしわがあるのとないのとで見た目が違ってくるという点で重く受け止められてはいるのでしょうが。

同じことでもあごを引いたときに出来る二重あご、三重あごのしわの本数(中にはもっと細かく多数のしわが出来る人もいはしますが)はあまりそこを重点的に観察しないので誰も違いを気にしませんし、かがみ込んでお腹を曲げたときに出来るお腹のしわ、しゃがみ込んだときの足首に出来るしわの本数も多い・少ないにこだわる人はいないのも普段目に付かない、見えないからであって。

生物的な機能、進化、という次元の物とは違うと思っています。

どの「しわ」も個体差、個性でしかないと思っています。
まぶたのしわばかりがなぜか脚光を浴びている、ということでしょう。

この回答への補足

目の皺も個人差でしかなく、なんの機能もないということなのでしょうか?
であれば、なぜ一重と二重にはっきり分かれ、中間がないのか、という疑問を生じることにならないでしょうか?

また、「まぶたのしわばかりがなぜか脚光を浴びている」とのことですが、殆どの人は、一重か二重かなど、普段全く意識して見ていないのではないでしょうか?
目を見たときにいい印象があるか、それともそれがないか、それだけで判断していると思うのです。
そうです。印象なのです。
だから、芸能界など、一重であってもいい印象の目なのであれば、その目で売り出したり、あるいは二重をわざわざその目に近づけるように整形したりといったことが行われてもいいはずなのですが、実際は、女優業などほぼ100%が二重なのです。
これは、つまり、二重には印象を良くする何らかの機能があると考えられるのではないでしょうか?

そして、印象がいい場合=ほぼ100%二重、というのも、何か腑に落ちないものを感じるのです。
二重=ほぼ100%印象がいい、ではありませんが。

例えば、目の前に猿と人間がいたとします。
この猿と人間を、異性としてみた場合、どちらがより魅力的か、間違いなく100%の人が人間の方を魅力的に思うでしょう。
これは、人間が人間たる所以です。人間に魅力を全く感じず猿に魅力を感じるなら、人間として子供を残せないはずです。
つまり、猿と分岐して長い時間が経つ現在に生きるヒトは、必然的に猿よりも人に魅力を感じる人たちだけが生き残っているはずなのです。

このように、100%や100%に近い数字というものは、なんらかの説明が必要になると思うのです。

補足日時:2012/08/25 17:20
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!