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団塊の世代誕生の第一次ベビーブームから現在に至るまでの時代背景が与えた影響を受けたと思われる楽曲について卒業論文を書いているのですが
なかなか関連性が見えてきません。

今のところ関連しているのではないかと思っているのが

1971年と1972年の「花嫁」「結婚しようよ」などの楽曲は既成の男らしさ女らしさのイメージを覆す歌詞。1960年代の恋愛結婚の普及を受け、付き合ったら結婚するというのが当然だった1970年代の時代を反映した歌でもあったこと

ということです。

できれば、もっと詳しく時代背景と関わらせていきたいと思っています。

例えば、戦後の影響や東京タワー完成時、オイルショックの時に描かれたであろう楽曲と
その関連性などについてとても幅広くテーマを設定してしまったため、作成が難しくなってしまいましたが教えていただきたいのですが
なにかありますでしょうか?

A 回答 (8件)

これまた文学部の文化史系で(あまり本寸法で勉強しなかった学生に)よくあるネタですね。

卒論発表会で聞き飽きるくらいに。

時期が長すぎますので,高度経済成長期とかにしぼりましょう。このころ,テレビの大躍進期でもあり,NHK「夢で逢いましょう」のような優れた歌謡・コントのバラエティ番組がありました。黒柳徹子が,ほんものの若さで(爆)登場します。『上を向いて歩こう』や『明日があるさ』の坂本九もレギュラーだったはずです。「どんどんよくなる法華の太鼓」そのものの明るい時代でした。

ぼくは直接に体験していますが,いまの学生からすれば「日露戦争とどっちが先?」みたいな過去なんでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうですね。確かに時期が長すぎると不安要素の一つでした。
現在との比較をしていきたいと考えたため、時代の流れと共に関連させたかったんです。
確かにこのまま続けたら曖昧のままグダグダになりそうですね、、
ありがとうございます。

お礼日時:2012/11/14 14:41

昼飯のはらごなしに,もうちょいおつきあいしましょうか。



>1971年と1972年の「花嫁」「結婚しようよ」などの楽曲は既成の男らしさ女らしさのイメージを覆す歌詞

この記述は,いま調べたら Wiki にありますね。自分のオリジナルみたいに書いてはいけません。剽窃をすると,「不可」をくらいますよ。

以下はぼくの見解(むろん,関連するレコードは購入しています 爆)。

「結婚しようよ」の以前は,「鬱屈した貧乏な若者」が吉田拓郎の持ち味であり,歌謡界ではマイナーな存在でした。他のフォークシンガーも似たようなものです。この曲は,彼がフォークソング仲間と「なれあい結婚」した背景でつくられたと覚えますが,曲想がまったく異なる明るいものでした。これで彼はメジャーになりましたが,「単純な野郎だぜ」・「いつまでも貧乏じゃないってことかい?」がぼくの感想でした。団塊世代がそういう年齢にさしかかったことはあるでしょうが,ジェンダーはそれほど重要ではないと思います。世相論よりも,作家論の立場でしょうかね。
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございます。

なかなか文献が見つからなく、ネットの情報をかき集めていたため雑にコピペしてました。
自分なりに理解して変えようと思います。
わざわざありがとうございます。

お礼日時:2012/11/14 15:00

http://www.youtube.com/playlist?list=PLF46CC555B …
http://homepage2.nifty.com/arumukos/unnk/unncssr …

団塊の世代 タモリ(正確にはちょっとずれるが、1945年8月22日生まれ)がセレクションした戦後歌謡史。
No2の方の作家論に対して、作品の受容者としての立場になっています。

B面の開始がオリンピックってのはやっぱり、戦後の一つの屈曲点としては、東京タワーとかじゃないんだろうなぁ、最近は三丁目の夕日的なものが人気だけど、東京で作られている途中を見てない東京以外の人間にとっては、どうでもいいはなし。
http://www.jmdb.ne.jp/1961/ck004550.htm
こんな映画(1961年)では、東京のランドマークは、国会議事堂だった。
モスラが繭を作ってから、東京タワーは全国的になったんじゃないかと、思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
すごい面白いです笑
ただ卒論の主旨とずれてしまいますね笑
やはり東京タワーがインパクトありますね。
利用させていただきます。

お礼日時:2012/11/14 20:28

蛇足



1958年 東京タワーできる
1961年 モスラ 東京タワーに繭を作る
1962年 キングコング対ゴジラ キングコングが登るのは国会議事堂
1964年 ゴジラ 主戦場は名古屋
1964年 キングギドラ 東京タワーを壊す
1972年 東京タワー破壊

印象だと、東京タワーは毎回壊されていたように思ったが、そうでもないのね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B8% … などより

62年のキングコングは東京タワーでもよさそうなのに、国会議事堂に登ったのは1961年の世界大戦争での東京のランドマークが国会議事堂であったように、61年62年ころにおいては、まだ東京タワーのプレゼンスは弱かったからかもしれない。
※ 61年に壊したばっかりだからかもしれないけど61年には世界大戦争で国会議事堂も壊しているので、壊したばっかりという推測もあてにならない。
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この回答へのお礼

きっと、このような事も影響されていたのですね。
ただ、音楽と掛け合わせている以上、利用しにくい部分がでてきてしまいます。
わざわざ回答していただいたのに申し訳ありません。

お礼日時:2012/11/14 20:34

あはは! 東京タワー vs モスラときましたか。



知らない人も多いのですが,東京タワーの機能は「VHFテレビ電波の送信塔」であり,関東平野をカヴァーしていました。ぼくのような田舎者は,東京の局数の多さと,複数の都道府県でチャネルがおなじことに驚いたものです。テレビ放送は1958年に開始されましたが,1959年の皇太子(現・天皇)の結婚を契機に急速に普及していきます。東京タワーはテレビジョン・エイジの象徴であり,「はとバス」の来訪名所でした。モスラが壊したのはこの象徴であり,だんだんテレビに押されてきた映画業界の八つ当たりにもみえるのです(そんな見方をするのは,ぼくだけか?)。

しかし,それを扱った歌謡曲となると,ほとんど思い出せないのですね。はるか後年のアグネス・チャンのアルバムには,『東京タワーを鉛筆にして』という小品がありますが,香港・台湾盤までも集めている相当なファンしか知らないでしょう。ふつうの人にとっては「展望台」であり,構造力学の専門家でもないかぎり,タワーじたいを鑑賞するものではないことを示しているように思えます。また,ランドマークとしても,「東京タワーを東に見て」といういいかたは聞きませんので,いささか弱いです。

モスラが繭をかけますが,これはカイコの生態を知っていると直接に理解できます。当時はまだ養蚕がさかんでしたので,理科で習ったり,社会科見学することもあったでしょう。飼育下のカイコが繭をかけるのは,角材を井桁に組んだものですが,東京タワーの鉄骨構造はそれを連想させました(そんな見方をしたのは,ぼくだけか?)。

オヤヂは,こういう話題になると歯止めがなくなりますね。あなたの指導教員がそうなら,演習が盛り上がるかも。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに難しいところですよね、、
できるだけ頑張っていきたいと思います。

ちなみに指導教員は団塊の世代とも外れた女性教授なので残念ながら盛り上がりは期待出来そうにありません笑

お礼日時:2012/11/14 20:36

 バブルの頃だったら、象徴的なのはやはりユーミンかな。

彼女の冬のコンサートといえば苗場のリゾートホテルだったりとしたように、ゴージャス感が何よりも面に打ち出されていた時代ですから。また当時はクリスタル族などと呼ばれる「感覚が優先する」などの軽薄短小がもてはやされた時代背景もありました。
 こうしたテーマを扱うならば、80年代後半から90年代前半にかけての「朝日ジャーナル」に連載されていた『若者達の神々』でインタビューと同時に分析がなされています。
 因みに等『花嫁』は、はしだのりひこ(本名 端田宣彦)がフォーク・クルセイダーズに在籍していた当時のメンバーである北山修の作曲であり、彼らが学生生活を終えるにあたり「何か記念になることをしよう」との目的で集まったのが、フォーク・クルセイダーズだったと回想されています。
 彼らが学生だった当時は全国の大学での学園紛争が終結した時期で、目標を喪失した虚無感がゲリラ的なメディアだった深夜放送に向かわせたとも言われています。
 昨今のテレビメディアの寵児としてもて囃されている“みのもんた”などもこの世代ですが、変わり身の早い事で知られ、常に自分を安全な立場において評論家的姿勢に終始するこの人物は深夜放送のリスナーからは低評価しか受けていなかったとの指摘もあります。世間的に物わかりの良いじじいはダメだという証ですね。
 北山修、井上陽水や中島みゆきそして坂本龍一や忌野清志郎をキーワードにすれば、著名なジャーナリストの発言も出てきますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かにユーミンは有名どころですね。
だいたいの世代でも知ってるのではないかと思います。

なるほど、そういう調べ方も出来ますね。
ありがとうございます。是非とも参考にさせていただきます。

お礼日時:2012/11/14 20:39

あはは! ユーミン(荒井由実,結婚後は松任谷由実)もでてきましたか。



たしかに。彼女は,「貧乏くさい歌はいや」とかなんとか既存のフォークソングにケンカを売ってでてきた,八王子の商家のお嬢さんだったはずです。彼女が天才だった(作曲では,ね 笑)のは,とても現代的なラヴソングを創作し,いまのJPOPの原点となったことでしょう。大学での専門も,教育学(武田鉄矢)などのダサイものではなく,美術。

1970年代の『中央フリーウェイ』は,開通したばかりの中央自動車道を通って,自宅までアッシー君に送らせているような歌です 笑。なんと高速道路を舞台にし,調布基地だのビール工場だの,とんでもない事物を歌いこみました。ただし夜景ですけども。『埠頭を渡る風』では,なんと港湾労働者がたむろする港の倉庫を舞台にしました。こちらも夜ですけど。どちらもモータリゼーション・エイジの開始を示す内容であり,曲もハイテンポで斬新でした。

10年も前でしょうか,彼女のコンサートをNHKBSで観ていたら,水着で『埠頭』を歌いまくってましたね。このひと,ぼくくらいの年齢なんですよ・・・ようやるよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「中央フリーウェイ」は僕も聞いた事があります。
おぼろげですが、なんかの旅番組でそこを通るとかで説明していたような、、笑
参考にさせていただきます。

お礼日時:2012/11/14 20:44

 東京タワーが電波塔でありそれがテレビ文化の普及と密接な関係にあることは他の回答者の方々から指摘されていますが、その「テレビ」でも70年代以後には変化も生じていると思われます。


 当時、リバプールの港町から世界に飛び出した4人の若者の奏でるサウンドや言葉は瞬く間に世界に広まり、そして日本武道館での初の外タレコンサート開催につながりました。
 以後「日本武道館」は外タレの来日コンサート会場の代名詞となる一方、日本のミュージシャンにとっても一つのステータスを象徴する言葉となってきた経緯もあります。それまではブラウン管の向こう側にいて自分では手のとどかない存在だったアーティストが、コンサート会場へ脚を運べば同じ時間を同じ空間で共有している等身大の存在へと見方が変わってきたことも考えられます。
 その象徴が88年に開場した『東京ドーム』であり、今や多数の観客動員を見込めるアリーナコンサートのシンボルともいえましょう。
 コンサートそのものが「鑑賞型」から「観客参加型」へと変化していく形で、その先駆けはすでに78年4月、後楽園球場でのキャンディーズ解散コンサートに見えていたともいえるでしょう。
 また「季節と共にやってくる」コンサートも80年代から目立ち始めます。夏そして海をイメージさせるTUBEやサザンの野外コンサートツアーは常に夏であり、以前は暮れの渋谷の街の風物詩だった中島みゆきの『夜会』などの形もあります。
 コンサート会場はアーティストにとっても一つの称号とも呼べる部分があって、赤坂のサントリーホールで演奏することはクラシックの音楽家にとっても栄誉とされているほどです。
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この回答へのお礼

とても詳しい回答ありがとうございます。
テレビの変化なども組み込んだら面白くなりそうですね。
グループサウンドが影響したのは間違いなそうですし
参考にさせていただきます。

お礼日時:2012/11/15 10:55

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