【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

すべてのひとびとがのびのび生きていけるような社会を作ってゆくために、私たちはどのように、他人と接し、社会に関わり、法に携わり、自分自身を発展させることができるのでしょうか・・・・??
意見をきかせて下さい(>_<)

A 回答 (7件)

他人との接し方ならば、


まずはこの社会をよく観察しましょう。よく観察すれば、弱者を除け者にし、強者に媚を売るスネオ君がなんともまぁ多いことかが解ると思います。ネットでさえもその兆候がよく表れていますが、そういったことに影響されず、まずは自分からそれを止めればいいのではないかと思います。

相手が心の面で少し可笑しな人物だと感じたら、一切相手にせず、加担もせず、徹底した無視を行いながら、貴方なりの信念を持って行動していればいいのではないでしょうか。
心の汚れた人間は、だいたい心の汚れた人間同士で見え見えの徒党を組んでいますので、そういった者との接点を持つのは自分の為にも賢明ではありません。
もし貴方が飢えたハイエナの群れの中に自ら身を投じるお釈迦様のような精神を持っているなら話は別ですが(あれはトラか?)

さらにこの世の中は、何かをやろうとすれば、必ず足を引っ張ろうとする者が出現し、
その狙いは、相手を怒らせ冷静さを失わせることにより、自分と同じ枠組みや愚かな世界観の中に引き摺り下ろそうとする心理が働いています。
それを徹底的に無視し、自分の選択肢を常に志の高い方に向けてればいいだけの事だと思いますよ。

しかしそんな質問をしてるくらいだから、質問者の方は、既にそいった方向に向いているのかもしれませんけどね。
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 すべての人々が、野比のび太のように生きていけるような社会を作ってゆくために。


 のび太くんは、勉強も駄目、喧嘩もからっきし、で、あやとりと拳銃扱いだけ、人並み以上にできる。あやとりは性愛対象を疑ってしまうし、拳銃は嗜虐性を疑ってしまう。
 かねがね思っているのですが、あんなに頼りっきりにしてるドラえもんがいない「学校」に行ってる時間を、のび太はどう過ごしてるのでしょう。ぼくは、ドラえもんはのび太の幻想なんぢゃないか、と思うんですね。超自我といいかえてもいい。それは実体をともなったなにかや誰かである必要はない。超自我といっても、勉強しなさいとか言わない。わりかしのび太のヨワヨワさに傾れてしまう。でもいつも見つめてくれている。
 よく、親のような目で子供たちを、とかいうけど、むしろ、そういう目線だけを、「親のような」と呼ぶべきだとぼくは思ってるんですね。YAWARA!の松田さんとかもそうです。そういう目線は、男女とか、血縁の有無とか、実在不在を超えている。
 『自由について考える』とかいう、大澤真幸と東浩紀の対論が出てます。管理社会を批判というより「批評」してます。行き着く先がどこだろうと、希望を見失わないために、長野まゆみの『テレヴィジョン・シティ』もお勧めします。
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積極的なことは申せませんが。



無駄と知りつつ、ひとまず、不満があれば、選挙に行きましょう。

つぎに、あなた自身が、のびのび自由に生きましょう。
いつか、きっと、だれかが、真似します。
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「全ての人に愛をもって接する」は理想ですが、神ならぬ我々凡人には不可能です。

                   しかしその前段階として「多くの人々(特に弱者)を一個の存在として認め、受け入れる」努力をすべきではないでしょうか。                                                          他の人々を批判的に見たり、自分にとっての利用価値として考える人たちが多ければのびのびと生きていける社会は不可能だと思います。                                                                         例えば、子供が生まれたらまず自分と同等の価値有る存在と考えることです。親の一方的な価値観や欲望を押し付けるべきではありません。                                                                    もう一つの敵は、支配欲だと思います。これがある限り社会は勝者と敗者に別れ、敗者は弱者となり不幸が始まります。                                                      私は、金正日、フセイン、読売の渡辺オーナー、堤義明、池田大作等々を憎みます。                                                             彼らのような存在が社会で受け入れられている限りけして、のびのびと生きていける社会は実現しないでしょう。                                                                  参考までに次の本をご紹介します。                                                     「自我の終焉」  J.クリシュナムーティ著   篠崎書林。  是非一読をお勧めします。
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私もそればっか考えてます。



個人的には、とりあえず自分だけでも弱者に愛情を持って接し(自分が弱者だけど)、

アメリカ以外ではうまくいかないと有名なアメリカ型競争社会にはなるべく自分の身を投げ入れないようにし(仕事の環境選び)、

地震雲の研究者で奈良市長だった故・鍵田さんの提唱していた、「田園都市生活」~都会の暮らしを捨て、田園に帰る~というものに多くの人が目覚め、

国の生産率が下がってもスペインなんかのようにお昼時間が長くてお昼を食べに家に帰ることもできるような生活ができ、

ニュージーランドなどのように家や食料品の税金は安かったり無税だったり(反対に高級品・嗜好品は高価で高税)、

裁判官にはもうちょっと勇気を持ってもらい、

トドメに官僚の天下り先をなくせばクリーンで健全な社会になれそうなんですけど。。
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自分の意志で生まれてきた人はいません。


ですから、自分の為に私は生まれてきたと
言える人もいないわけですよね。

そうだとすると、「自分の為に私は生きる」と
言えば、それは明らかに、間違いだ・・・!!
ということに気づくべきなんですね。

私たち人類は、自分の為に生まれてきたのではなく、
誰かの為に生まれてきたので、価値があるのです。

自分の為に生まれてきたのなら、それは単なる自慰行為
でしょ? 何の価値もありません。

創造目的=存在目的=存在価値なのです。

ましてや、人間は自分の為に生まれてきたのでは
ないんでしょうから、明らかに、誰かの為に
生まれてきたのか、さもなくば、単なる偶然に生まれた
かの、いずれか一方なのです。それ以外にはありません。

もし、私たち人間が単なる偶然に生まれてきたのなら、
創造目的がないんだから、存在価値が本来ありません。
生きていることに価値がありません。
自分たちで勝手に慰めあい、存在してしまっている
事実を以って、存在価値を求めようとしても、それは、
ナンセンスなんですね。だから、人間の尊厳性も人権も
何もあったもんじゃない。

ですから、われわれは、人間を必要として、創造された
創造主なる神様の存在をまず知ることからはじめないと
人生、本当の意味で価値がないのです。

まず神様の存在を信じることからすべてははじまります。

神様は、人類の父母であられます。そして、
人類は皆兄弟なのです。
ですから、人類一大家族世界が実現されれば、これこそ、
まさに、地上天国なのですね。

それには、親なる神様をお迎えしなければ、兄弟も
家庭も何もないのです・・・・

世界平和もそこからはじまります。

神様が存在するかしないか、多数決の原理で決めれますか?
私たちが信じる信じないの前に、まず存在しているか
存在していなかのです。
信じる信じないの前に、そのことが、まず大問題なのです・・・

それでは、失礼します。
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昔はチャップリンが、生きていくためには少しのお金と、、、、といっていたが、実際は現代社会ではちょっとのお金では、話にならない!!


全ての人がというのは情けない話だか無理?!!ありえない!!
のではないでしょうか?
10万所持しているやつは100万を羨み、
1000万あるやつは10000万を羨み、、、、
永遠にきりがないきがします。
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