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イタリアをあちこち旅行して思うのですが、イタリア全土の特に地方、いたるところの山や丘の崖っぷちの上の狭いところに街(村)が存在するのは何故でしょう?日本では山城は見かけますが、山の上の街はまだ見たことがありません。一応自分で考えた理由は 1、数多くの戦乱から逃れる為 2、疫病から逃れる為 どれも的を得た理解に繋がりません。その理由は 1、それなら、なぜ戦乱の多かった日本にそのような街は存在しないのか 2、日本は疫病が西洋に比べあまりなかったのか? どなたか特にイタリア史や地政学に詳しい方、その理由を教えていただけませんか??

A 回答 (4件)

もちろん都市の防衛のためでもありますが、イタリアの場合は、マラリアを防ぐためという目的も大きかったとのことです。


「丘の上の都市」が多いのはイタリアでも北部から中部にかけてですが、このエリアの平野部は、都市が発達した中世には湿地帯が多く、夏になると蚊が発生し、マラリアが流行しました。イタリアは山が多く、かといって平地もマラリアのせいで住みやすい環境とは言えず、その中間の「丘の上」に都市を築かざるを得なかったのです。

地震や台風などの自然災害が多い日本では、山間部に住むのは危険です。
イタリアには台風はありません。
地震については、イタリアもヨーロッパの中では地震の多い国ですが(火山があり、南イタリアの先はプレートとプレートの境界線)、それでも日本ほどには地震は頻繁ではありません。イタリアの中部や南部では数年~数十年に一度の頻度で5レベルの地震が発生しますが、被害が大きくなるのは、耐震構造になっていない何世紀も前からの石造りやレンガ造りの建物が倒壊するからです。逆に言えば、何百年もの間、それらの建物が倒壊しなかった程度に、大きな地震は発生しなかった、ということです。
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モロッコで、ハドゥ一族が築いたという丘上の小集落をみました。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4 …
古代ギリシャのポリスも基本的に丘の上です。 
イタリアのトスカーナ地方でエトルリア人が作った都市も丘の上です。
よくは知らないのですが、見た目では、農耕適地には思えない場所です。たぶん、地域での農産で豊かになり城壁や石造物を作ったのではなく、広域との交易で富を集積し、そこで文化の高い生活を営み、直接の生産労働への従事はせず、多くの使用人や奴隷を使っている社会的上級者の密集地が、丘の上、崖の上の都市なのかもしれません。
http://bokyo-qualia.com/archives/1687
自分たちが使用人を直接指揮して生産活動するような状況ならば、こうした丘の上で集住はできないし、仮に住んでも、洞窟住まいのようなものや小さな建築で精一杯で、それ以上のことはしない、城塞のような大がかりな土木工事に多くの労役を費やすことはしないでしょう。
もともと、気候変動が激しく、多湿な時代であったので、多くの地域で凶作飢饉が起き、民族の移動が激しく、世界各地で、支配民族の興亡も激しく、地中海周辺でも多くの民族の興亡、移動がおきます。エトルリア人もアナトリアから移動して、トスカーナに拠点を作ったようです。湿地はよくないという生活上の自然条件もあったでしょうが、交易で利権と富を維持し、他民族との戦いに負けて滅亡する危機への対策も必要だったので、そうした配慮から、立地条件を選んだということもあったのではないでしょうか。
http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/169/akas … (膨大すぎる)

塩野七生ローマ人の物語Ⅰ「ローマは一日にしてならず」第一章に次の文があります。
①(紀元前八世紀)イタリア半島には、立地条件さえよければ堂々とした都市でも簡単に建設できるだけの経済力と技術力を持つ民族が二つは存在した。中部イタリアに勢力を拡張中のエトルリア民族と、南イタリア一帯に入植し始めていたギリシャ人である。ところが、この二民族とも、ローマには食指さえも動かしていない。当時のローマは、七つの丘以外の低地は湿地だったが、エトルリア人は干拓の技術も持っていたのである。
②エトルリア人も産業と通商の民族だったが、都市の建設に関してはギリシャ人と考えを共通していない。彼らは、小高い丘の上に都市を建設する。海に近い土地でも、背後に丘がない土地には彼らは興味を示さなかった。丘の上に城壁をめぐらせた堅固なつくりの都市を建て、そこにこもって平地には住もうとしない彼らの性向は、フィレンツェを見るだけでも明らかだ。フィレンツェの起源はエトルリア人にはじまるが、彼らが住んだのはフエゾレの丘である。…………エトルリア人にとっては、ローマの七つの丘はそのいずれをとっても、小さすぎて低すぎたのであろう。そしてもっと悪いことには、七つの丘は近接しすぎていた。エトルリア民族は、適度な距離を保って頂上にゆったりと広い、丘陵の散在する中部イタリア地方に根を降ろす。
③しかし、都市建設にあらわれた考え方のちがいが、これら三民族の後の運命を左右したと考えられないこともない。防御には万全でも、発展は阻害されやすい丘の上を好んだエトルリア人。防御が不十分な土地に町を建てたおかげで、結果としては外に向かって発展することになるローマ人。通商には便利でも、ともすれば敵を忘れさせる海ぞいの土地に街を築いた南伊のギリシャ人。

ただ、民族の興亡は多くの事情が絡んでいるので、これこれの志向があった街作りをしたらそのあと隆盛になるという単純なことはないです。 気候変動も、地震火山、大水害、虫害、疾病、他の民族の移動、いろんなものが偶然に重なるので、結果論を言っても意味はないです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%B9 …

日本は、たぶん、7世紀以降は大きな民族移動の影響を受けていないのだと思います。戦国時代や江戸時代、明治、昭和でも、内部の勢力争い程度のことと経済的理由での個人レベルの移動が大挙しておきるという程度のことで盛衰、集中、過疎が起きるのであって、民族集団の存亡を懸けた防衛的構造で都市を計画するということが元々ないので、せいぜい戦いのための砦、出城、戦略拠点という視点しかないので、丘の上の要塞都市は造らないのでしょう。
http://www.y-history.net/appendix/wh0100-49.html
http://www.kobemantoman.jp/sub/227.html
http://information-station.xyz/3351.html
民族の興亡に強く意識があってこそ、丘の上に城壁で囲う街を作る意思もできるし、交易を富の源泉と意識しているから、その強みを、エトルリア人の場合は、鉱山技術であると考えていたのかもしれません。

自分(達)は、食料生産しない、繊維製品もつくらない、だけれど、超高層マンションが群れをなす地域で、豊かに暮らす人びとを、(15世紀の日本の人が見て)「なんであんな人工山の洞窟で住むのか」と考えるようなのと、反対方向で、似ているような気もします。
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もちろん日本でもどこでも、崖の上は防衛上の利点がでかいです。

でも日本でそんな崖っぷちに街を作ると、地震が来たら終了じゃないですか。あるいは台風が来たらどうなります?

イタリアに限らずヨーロッパでは、すごい崖とか岩山の上に石造りの建造物や町がありますけど、それは日本ほどには自然災害を心配しなくても済むからでしょう。日本でも自然災害を承知のうえで、それでもなお防衛を優先させたい場合は軍事拠点を作りますが、町までは作りません。いや、作れないと言うべきかも?
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日本と違い欧州の古い町はほとんどギリシャ・ローマ以前から続く町でした。


中世、近世でもそうでですが、ギリシャ・ローマ以前の狭い社会だと、より町の人間自体で街を防衛する必要がありました。
欧州の歴史はとかく抗争の歴史です。
そこで防衛に適した地点、丘の上や岬、そういうところに街を建設していきました。
今の街の姿はその名残です。
特にエトルリア人は丘の上を好みました。
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