No.3ベストアンサー
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1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。
オランダ人たちは前世紀にこの地域に到達していたポルトガルや、同じ時期にやってきた競争相手のイギリスを追いやってこの地域における主導権を握り、長い時間をかけて次第に支配地を現在のインドネシアの領域全体へと拡大していった。その拠点として1619年に制圧されたのがバンテン王国の首都ジャカルタであり、オランダ人はこの町をバタヴィアと改名した。
1660年よりオランダ東インド会社は、スラウェシ島のマカッサル西海岸でゴワ王国(英語版)との戦争に突入し、1669年にスラウェシ島支配に関するボンガヤ条約(英語版)が締結された。1665年から1667年にかけての第二次英蘭戦争で、バンダ諸島のラン島(香辛料貿易)とニューネーデルラント植民地のニューアムステルダム(毛皮貿易)の自治権とを交換して獲得し、香辛料貿易(ナツメグ、クローブ等)の独占を図った。イギリスは既に種子を持ち出しており、1815年頃からモーリシャスやグレナダなどでプランテーションを開始すると、香辛料はありふれた商品となってバンダ諸島の価値は相対的に下がっていくことになった。
18世紀には3次にわたるジャワ継承戦争(第1次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第2次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第3次ジャワ継承戦争(インドネシア語版))と華僑虐殺事件によってマタラム王国が4分割されてオランダ東インド会社の保護下に組み入れられると、ジャワ島全域がその支配下に置かれた。1825年にはスルタン家のディポヌゴロがオランダへの反乱を起こすが、1830年に鎮圧されている(ジャワ戦争)。
19世紀に入るとナポレオン戦争によるオランダ本国の混乱もあって一時支配力が弱まるが、オランダ東インド会社が解散されてオランダ本国による植民地直接統治が始まり、オランダ人によるプランテーション経営が広まって経済的な搾取は強まっていった。
1815年5月5日、スンバワ島のタンボラ山が噴火。翌年、夏のない年と呼ばれる異常気象に見舞われた。
パドリ戦争(1821年 - 1837年)。 1824年に英蘭協約を締結したが、この条約がアチェ戦争(英語版)(1873年-1913年)の導火線となり、オランダが勝利してスマトラ島の支配権も確立し、ポルトガル領ティモール(現東ティモール)を除き東インド諸島はすべてオランダ領とするのは20世紀に入ってからとなった。
20世紀初頭にオランダは従来の植民地政策を転換し、現地住民の福祉向上と、本国から植民地政府へ権限委譲をすすめる方針をとった。前時代の純益政策によって、植民地からオランダ本国に莫大な富がもたらされた一方で、過酷な搾取と「愚民化政策」のもとで、現地住民による初等教育の機会や産業の復興が制限され、その結果植民地の現地住民の窮乏化がすすんだことを反省し、これまでより多くの恩恵を現地住民にもたらすことで、植民地における経済の復興を目指すという意図で始められたのが「倫理政策」と総称される一連の施策である。
これによって、現地住民には初等教育の機会があたえられ、また、親オランダ的な一部の住民エリートの子弟には、オランダ語での専門教育(行政学、経済学、医学など)の機会もあたえられた。彼らの多くは、植民地政府の末端を担う下層行政官や、現地住民の福祉向上を担う医師となって、オランダ人の下で植民地統治の運営の一翼を担った[10]。しかし、これらの一部の親オランダ的なエリートを除く現地住民は、その後も初等教育以上のものを受ける機会は与えられなかった。
そのようにしてオランダ語で教育され、東インドに創設された大学や留学を許されたオランダ本国の大学で学んだ、親オランダ的な一部の学生たちのなかから、民族の独立を志す者たちがあらわれた。その最初期には、ジャワの医学校で学ぶ学生たちを中心に、1908年に結成されたブディ・ウトモ(ジャワ語で「至高の徳」を意味する)のように、教育を通じてジャワ人の社会的地位を向上させようという、穏健な活動がはじめられた[11]。また宗主国オランダでも、東インド出身の学生たちが東インド協会 (Indische Vereniging) を結成し、出身地方の枠を超えた東インドの民族的一体感に目覚めていった[12]。
1911年に結成されたサレカット・イスラーム(イスラム同盟)は、当初は中国革命の進展によって東インドでの商業活動をにわかに活発化させた華僑商人に対抗して、ジャワのバティック商人が結成したものであったが、組織の主導権が商人層からオランダ語で教育を受けた知識人層に移ると、ジャワ島外にまで支部を結成して、東インド全体に広がる最初の大衆組織となった。サレカット・イスラームの指導者チョクロアミノト(英語版)は各地で集会を催し、熱気のこもった演説とカリスマ性で熱狂的な人気を博した[13]。
第一次世界大戦を経て、サレカット・イスラームの会員数は200万人をこえ、独立と社会主義を掲げるようになった。このように組織の性格が変わった要因として、ロシア革命の成功も挙げられよう。1920年にはアジア初の共産党としてインドネシア共産党(前身は1914年にスマランで結成された東インド社会民主主義同盟)が成立し、コミンテルンに加盟した。インドネシア共産党は原住民党員をサレカット・イスラームに加入させ、その組織内部で共産党の影響力を強めていくという方針を立てた[14]。その結果、サレカット・イスラーム内の主流派と共産派の対立が激化し、民族主義運動の潮流は分裂し、大衆の運動離れを招いた[15]。サレカット・イスラームから排除されたインドネシア共産党は、その地方支部が1926年から1927年にかけて散発的に起こした武装蜂起によって、植民地政府による弾圧を招いた。党の指導者は海外へ逃亡するか、東インドに潜伏するなどしたため、以後の民族主義運動は、スカルノらが1927年に結成したインドネシア国民党など、世俗主義を掲げる民族主義団体によって担われていくことになった。
戦前のインドネシア民族主義運動の頂点となったのは、1928年10月27日に開催されたインドネシア青年会議における「青年の誓い」採択だった。ここにいたって、独立を求める人々は、オランダ領東インドの国名として、「インドネシア」の名を選び取り、この地域に住むさまざまな民族をインドネシア人として統一し、独立を達成する、という決意を内外に示したのである。
太平洋戦争(大東亜戦争)最中の1942年2月、日本軍の侵攻によってオランダの植民地支配は崩壊した。
No.4
- 回答日時:
一気に収奪、略奪の限りを尽くせる植民地にした訳ではなく、以前は印尼(インドネシア)は、ポルトガルにも搾取されていたから。
フィリピンは米西の植民地時代がもっと長いよね。
400年近いから。
ヴェトナムやビルマは明治時代半ばにフランスが植民地化に来たよね。
No.1
- 回答日時:
香料ですね。
コショウとかです。
昔は、大金に成りました。
オランダは、ご存知の通り小国です。
香料を取る為に、働かせていたのでしょうが、英仏よりは、ましなんじゃない?
(*´Д`)
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