幼稚園時代「何組」でしたか?

松尾芭蕉の平泉の件で
「夏草や兵どもが夢の跡」の前文
「国敗れて山河在り、城春にして草木深し」
と杜甫の詩を芭蕉は
「国敗れて山河在り、城春にして草青みたり」
と言葉を変えています。
そこで質問なんですが皆さんのご自分の感覚で判断して頂いて結構です。
「草青みたり」は「草が青々と茂ってる」という意味なんですが草に対してプラスに感じますかマイナスに感じますか?

A 回答 (8件)

私の場合、プラス、マイナス、というよりも、『自然の生命力の強さに圧倒される』ように感じます。



「草木深し」だと、既に指摘されている方もいますが、象徴的な感じがします。「深し」は営々と流れる時の永さを感じさせますが、実景からは遠い。
「草青みたり」だと、草の生命力を強く感じます。眼前に広がるのは、長い時間をかけて深く繁った草木ではなく、あっという間に芽を出し成長し、ただ今という瞬間を青々と繁る夏草です。

また、「草青みたり」の方は、生い茂る夏草の青臭さも伝わってくるように思います。…「青」だから?(私だけですか?w)
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‘草木深し’は時の経過とそこに籠もる恨みや悲しみ、それに呼応する感情などの‘量’として感じます。

対して‘草青みたり’は人の万感を、その執着から一瞬にして‘青’という色の中に開放しようとしているのでは?杜甫に私淑した芭蕉ですが、禅僧としての芭蕉ですから。
‘草に対して’という質問が不思議ですが、あえて言えば草にとってあるがままという事でプラスでしょうね。
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みなさん立派な回答をされていて大変勉強になりますね。


私はあえてとっても感覚的な意見を言います。

私の場合は草に対してのイメージはプラスです。
文を読み返してみて、頭の中に青々と力強く茂っている草がイメージできます。
青々と茂った草は力強くクリーンでシンプルなイメージです。
それでいて人間の栄枯盛衰を上回る懐の深さみたいなものもイメージできますね。

何だか抽象的過ぎる意見で申し訳ないのですが、
私は文も音楽と同じように感覚を味わって楽しみます。
そうすると草のイメージは決して悪いものには映らないですね。
検討ちがいだったらごめんなさい
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 いちばん注目すべきなのは「草木」が「草」になっている点でしょう。

単に芭蕉が目にしたの草っ原であったから、というだけではなしに、「草木」といえば漢語では自然界一般を指します。それを「草」だけにしたというのは、杜甫の「自然と人為」という観念的な対比を、やや実景に引きつける意図があったのでしょう。図式的に訳すと、

  杜甫: 町にはまた春がやってきて、草木に代表される自然は今その生命力のさかりを迎えている
  芭蕉: 城にはまた春がやってきて、草はその生命力のさかりを迎えている

でしょうか。もうひとつ「草木」を「草」にただした芭蕉の意図として考えられるのは、「くにやぶれてサンガあり、しろはるにしてソウモクふかし」は漢語が多すぎて響きがかたく、句への導入にはふさわしくないと考えたことではないでしょうか。それくらいなら「くさあをみたり」の和語の響きのほうがなだらかに句を呼ぶ、と。
 草青みたり、は、ネガでもあり、ポジでもある感情です。「ああ、自然はめぐるのだなあ」という希望がある一方で、「それに比べると人為はついにむなしい」という絶望もある。その二つが相俟って芭蕉の心をしめつけるからこの場面は高揚するのです。どちらか一方と決めつけるのは文学鑑賞の態度として間違っています。どちらとも決められないから、その相克が文章をもりあげるという点は、『ハムレット』の「生きるべきか、死ぬべきか」とおなじ。
 ちなみにこの重要な場面で芭蕉は勘違いをしています。漢詩の城は「町、都市」の意味ですが、彼はこれを「城砦、城郭」の意味で使っている。日本人にありがちな誤解なのですが、もしかしたらそこも芭蕉の意図だったのかもしれません。
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 kaibarahanさんの質問で、何気なく読み過ごしていたのを改めて考えてみました。


 杜甫の詩は、前段も後段も無常の繰り返しであり、後段の城(城跡)の草木深しは、春の草いきれを呼び起こすどころか、一層の無常観を掻き立てます。芭蕉にはそこの所が不満だったのではないか? むしろ青々と生い茂る草と廃城を対比した方が効果的と考えたのではないか、と思えるのです。
 そこで、 夏草や兵どもが夢の跡 の夏草は、生気溢れる夏草になり、兵どもが夢の跡との対比から、一層の無常観が表現されると考えたのでは。
 プラスかマイナスかと問われれば、俳句を補うことを考えれば、ややプラスなのかなと思います。
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芭蕉の言い換えは別として芭蕉は無意識のうちにも神(超越者)の立場から見(下して)いますからプラスでもマイナスでもないのではないでしょうか。

あえて言えばゼロというべきかあるいは次元が違うというべきなのかもしれません。
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草と城が、自然界と人間界の対比で、人の築いた建造物である城が、時間の流れの中で自然に戻ろうとしているという情景でしょうから、草木に対しての意味はプラスでしょう。



草木(自然界)が発達するということは、人間界(人里と言い換えてもいいでしょう)が、ある意味で衰退しているということかと思いますけど。
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+だと思います


ちなみに深しをみたりに変えたのは芭蕉なりのこだわりで、別に他意はなかったのではないでしょうか?
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