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タイトル通りなのですが、死ぬとどうなるのでしょうか?
意識が身体から離れ、幽体となってさまようのでしょうか?
天国や地獄などは存在するのでしょうか?
それとも、意識も消滅し、何もなくなるのでしょうか?
また、自然死した場合と、自殺した場合は、何か違いはあるのでしょうか?

A 回答 (22件中1~10件)

それは誰にも分かりません。



死後の世界があるといっても、宗教によってちがいますし。

意識も何もかも無くなるでしょうね。
寝てる時(夢を見てるとき意外)の様に。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
宗教ってそもそも何でしょうね?

お礼日時:2005/01/14 00:50

>死ぬとどうなるのでしょうか?



無になって消えてなくなってしまうのではありません。肉体は日本だったら火葬場で焼かれて骨と灰になってしまうでしょう。しかし、人間の魂と霊は永遠に生き続けます。

>天国や地獄などは存在するのでしょうか?


天国と地獄は存在します。
死んだ人間の魂と霊は、天国か地獄のどちらかで永遠に生き続けるのです。輪廻転生はありません。なぜなら天地万物を創造された神が聖書をとおして、そのことをはっきりといっているからです。

私たち人間は天地万物を造られた神によって造られ、存在しています。神によって生かされているといってもいいです。神は私たちを愛しておられます。しかし、神は愛であると同時に義でもあります。神の義は私たち人間の罪を決して見逃すことは出来ず、裁かなければなりません。そして、その裁きの結果は罪人である人間を地獄へ投げ入れてしまうということです。
しかし、神は愛ですから、人間を地獄へ投げ入れてしまうことはしたくないのです。そこで、自分のひとり子であるイエス様をこの世に誕生させ、十字架にかけて殺すことによって、人間のすべての罪の刑罰を身代わりに負って死なせ、3日後に復活させることによって人間が天国へ行く道を開いたのです。イエス様が自分の罪のために十字架にかかって死に3日目に復活したということを信じるものはだれでもそのことを信じるだけで天国へ行けます。いいことをたくさんしたら天国へいけるのではありません。悪いことをたくさんした人が地獄へ行くのでもありません。天国へ行くか、地獄へ行くかはイエス様が自分の罪のために十字架にかかって死に3日後に復活したということを信じるかどうかにかかっています。なぜなら私たち人間には自分の力で罪の問題を解決する方法がないからです。だから、神の側で人間に天国への道を用意してくださったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
キリスト教徒の方でしょうか?
そのように信じられるものがあって羨ましい限りです。

お礼日時:2005/01/14 23:30

ご質問は、「死ぬとどうなるのか」ということですが、


それを理解するにはまず、「生とは何か」をしっかり定義するべきだと思います。
(⇒「生」があるからこそ、
  その終焉である「死」が存在するわけですから…)

そこで、質問者様の考える「生」とは何でしょうか?
例をいくつか挙げますと、
(1)人間の一個人
(2)動物
(3)植物
(4)アメーバなど
(5)ロボット
(6)人間の一部分(細胞など)
(7)地球全体(空間軸による捉え方)
(8)おじいさん→お父さん→自分(時間軸による捉え方)

私がざっと考えただけでも、
上記のような「生」の種類を思いつきました。

どこまでを「生」と呼ぶのか、によって、
「死」の意味も、大きく解釈が違ってくるように思います。

上記の(1)~(8)までのどれとどれを「生命」と捉えるのか。
まずはその定義をはっきりさせて頂けると、議論がしやすいような気がします。

※もしくは必須条件をあげていただいても構いません。
1.「そのモノ自体が、生きる意思を持っていること」
2.「必ず死を迎えるモノであること」
3.「たんぱく質は必須」等々…

決して悪意でいっている訳ではなく、
純粋に「本質」を突き詰めてみたいと思っています。

ぜひ、よろしくお願いします。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
生は、もちろんロボットなどに存在するとは思っていません。生は、死んでいないもの、と思っています。

補足日時:2005/01/14 23:27
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死後の世界があるとして、それはどのようにしてわかるのでしょうか?「ここは、天国です」という看板があるのでしょうか?それで、納得して、ここは天国かと思うのでしょうか?わたしは、死ぬことは原理的にできないのではないかと思っています。

ウィトゲンシュタインも言っていました。「死を経験することはできない」と。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
死ぬことは原理的にできない、というのはどういう意味なのでしょうか?
死んだ瞬間、無の世界に入るから、死がどういうものであるかを経験できないということでしょうか?

お礼日時:2005/01/14 23:25

こんにちは。

私の考えを述べます。

私は、あらゆるものは、分解され、他の生物の糧となり、また、空気に溶け、雨となり、川となり、大地となり…地球、宇宙の一部になるのだと思っています。

同じように、「魂」というよりは「生命」があって、生命はやはり、循環していて、生まれては還り、生まれては還っているのだと思います。ちょうど、雨のように、あらゆるものに等しく降り、雨は大地に染み込み、植物となり、動物となり、死に、大地に帰り、いつしか川となり、海となり、雲となり、また雨になる。
生命も循環し、入れ物(身体)に染み込んで、いつかまた、他の生命を、今のこの宇宙を維持するために、生まれ、生き、死ぬ。

だから、せめて、今この入れ物の中にある間は、花に種を残す働きがあるように、そのために美しい花を咲かせるように、私達は精一杯生きていればいいのだと思う。それは、DNAを次代へ引き継ぐという本能なのだとしても、生命を運ぶ入れ物に過ぎなくても、いつか死ぬのだとしたら、今、この入れ物の中にある奇跡を満喫したほうがいいと思うのです。
「生命」が循環するという考えから、前世の記憶が残っているという話も、何となく頷けます。

意識が身体から離れ、幽体となってさまよう、というより、循環している、というのが私にはなじみます。
他の生物(犬、猫、昆虫、植物)にも、魂はある、というより、生命はある、という感じです。
皆に等しく、降り注ぐもの。
ただ、組成(塩基の配列)が違うだけで、皆、同じもの。もとは宇宙のチリから生まれた同じもの、と思うのです。ですから、自然死と自殺には何の違いもないと思います。ただ、「死」の種類と、遺された者の気持ちに違いがあるだけで(どちらも辛いけど、自殺されたら病死されるよりも、まだ何かてだてはあったかも、と、やりきれないから、自殺すると魂は救われない、といって、今を生きるよう、諭したイメージなのかもしれないです)。DNAを確実に次代に残すには、自殺していたら種の存続の危機に関わるから、本能的にブレーキがかかるのかも。…といっても、アポトーシスといって、自殺する細胞もあるのですが(グーに細胞が足されていって、5本指になるのではなく、グーの状態からアポトーシスがあって、「欠ける」ことで5本指になる、っていう。←だとしたら、私が自殺することで今現在の宇宙が完成されることもあるのかな…なんて、ネガティヴなこと考えていた時期もありましたが)。今、この宇宙が、今現在の姿であるためには、個々の存在が、必要なんだと思います。
今のあなたを形成するために、あなたが出会ってきたものはあなたにとって必要なものであったように。一冊の本を知るのと知らないのとでは、今の自分は微妙に違っただろうな、と感じたこともありましたから。

…脱線してしまいました。

生命は、循環しているのだと思います。ひとつの入れ物に入れば、その人生、それぞれの人生、時間を生きるしかないのだと思っています。そして、ひとつひとつの生命は、別の生命と、否応なしに関わりあうことで完結するように思います。

天国や地獄(あるいは、宗教と言い換えてもいいかもしれません)は、生きている人のためのものと思います。遺された者の心(魂)を、癒すために(死に直面することで、死を怖がらずに、また、今生きることに絶望せずにすむように、そして、よりよく生きるために)つくられたものと思います。それを選ぶか選ばないかというのも、また個人の問題と思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
生命が循環しているということは、死は終わりではないということですよね。

お礼日時:2005/01/14 23:23

宗教、映画、本などで勉強した結論。


「死ねば無。何も残らない」
天国や地獄は人間が作ったもの。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私も同じ考えです。

お礼日時:2005/01/14 23:21

再び御邪魔します。

哲学的に考えるというのは論理的に考えるという意味でしょうか。生きているということと死んでいるということの違いは生物学では熱力学の観点から考えるのが普通の様に思います。熱力学から考えると、ある構造が消滅するということが死ということになると思います。哲学的というのは死という言葉に対応する何か実体があるという前提を置いて考えるということかなとも思いました。ある構造の消滅した状態を死とすると死そのものに実体はなくなります。つまり死に限らず分解できるものには実体がなくなるということになります。死を分解しようとして古来多くの人が考えてきたわけですが分解できなかったというのが現状ではないでしょうか。即ち死というのは考えている主体そのものではないかというのが一つの考え方ではないでしょうか。われわれの自我意識は分解できません。要するに自我意識は自我意識のことがわからない〔分けられない,分解できない〕ということの反映として死というものが実体のあるものと認識されているのではないかと考えると結構哲学的な感じがするのではないでしょうか。死というものは分からないから死があるというのは言葉が持っている本質的矛盾ともいえるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
死についての解明がまだまだ進んでいないのが現状なのでしょうね。
いつか謎が解ける日が来るのでしょうか?

お礼日時:2005/01/14 23:20

死んだらゴミになります。



ただそれだけです。

精神だけ解離して別世界に行く、
と各宗教の坊主たちは言いますが欺瞞です。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
私も、ゴミ、とまでは言いませんが、物化する感じがします。

お礼日時:2005/01/14 23:18

死は誰人も逃れられない事ですが、病気災害戦争などで死に直面していない場合は、人は自分の死をあまり意識しないで生きているのではないでしょうか。

質問者さんの問いかけは永遠の謎になると思います。この死ぬ事をを考えることは生きることを考える事に通じる事ではないでしょうか。死を意識する間もなく一瞬に訪れる死は別にして、死の訪れを意識した時に恐れおののく事もなく、悠々と死に臨む事ができる人が死を解決できた人だと思います。脳をあつかう専門家の方が死を恐れない方々ばかりとは思えません。
超現象とかを披露する人も同じかと思います。もし指の先から火炎放射器のように炎を出せる人がいたとしても、全世界の人々が幸せな人生を送ることとは関係ありません。他の回答者さんの参考URLには、生前と死後の幸せ不幸せは死体の形状に顕れるといってますが、こうゆうことは頑張って生きてこられた方々を侮辱することになると思います。テロ、災害で亡くなられた方のご遺体は激しい損傷であったことでしょう。
まずは、死後のこととか先祖のこととか誰もが目に見えないことを突かれると弱くなるのです。死ぬとどうなるかとゆう答えになってませんが、少しでも参考なれば幸いです。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
私はメンタル系の病気にかかっており、突然癌にでもなって死ねたらいいな、なんて考えます。
死は私にとって救いのような気がします。

お礼日時:2005/01/14 23:17

猫や犬などの動物、昆虫や植物の魂の存在についてなのですが、これらは宗教や霊能者によって答えが様々です。



私が信じている教えでは、動物や昆虫、植物に魂は存在しません。しばらくはエネルギーとして存在しますが、時間ともに消滅するようです。魂を形成するだけのエネルギーをもっていないらしいです。

人間以外の動物や昆虫などは本能だけで生きています。思考する能力の低い事が、魂を持ち得ない要因かもしれませんね。


考えてみると、人間は牛や豚を食用として殺しています。でも牛の霊や豚の霊を見たという話や牛の呪いなどの話は聞きません。もし牛に魂があったのならそういう話があってもいいはずです。

でも、狐のたたりの話は聞きますよね。これは民間伝承など古い言い伝えによるもので、実際には狐のたたりなど無いと考えています。

たとえば霊に憑依されている人に対して、「お前は狐だ。正体を現しなさい」などと霊能者が繰り返したとします。そうすると未浄化の霊の中には、暗示にかかってしまい、自分が狐だと思い込んでしまう場合もあります。また霊能者が未熟で狐の霊の存在を信じており、霊視と自分が作り出した幻覚を区別できない場合があります。それ以外にも、霊が自分を狐と思い込んでおり、狐に姿を変えている事もあります。ほんとうに高い霊能力をもっている人は見破れますが、低い能力の人は見破れず動物の霊の存在を肯定するようになります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
魂を持つものだけに霊界が存在するということでしょうか?

お礼日時:2005/01/14 23:14

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