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自分の人生に納得する為だとすると、
所詮それで終わりなんですよ。
しかもそれは個人的な目標にすぎない。
限りある自分の時間を良いものにしようとするだけ。
それしかできない。小さい存在。
動物や植物も、どうせ死ぬんだから、
最初から生まれてこなくても同じじゃない?
いつか地球も滅びるんだから、
何も残らないじゃん!神がいるとしたら、
なにがしたいんだろう。

と、普段考えないようなひねくれた考え方をしてみました。
私は別に人生は否定的ではないです。
生まれて来て良かったと思ってます。
気分を害された方がいたらすみません。

なぜ、様々な自然に支えられて、生かされてるのか、
また、人間の生きる理由が知りたい。
こんな事、神じゃあるまいしわからないと思いますが、
とても知りたいです、
皆さんはどうお考えですか?難解な問題ですが、
お暇ならよろしくお願いします。

A 回答 (48件中1~10件)

>でも幼年期のトラウマというのはとてもでかいですよ。

実際に体験しないと僕の辛さは誰にもわからないと思います。
僕も相当トラウマがありました。引越しだらけの人生で、地元もなく、幼馴染もなく、友達もなく、恋愛
も出来ず、さらに父が宗教色が強く禁欲的な人で、こどもの僕にまでその価値観を押し付けて、TV
も漫画も俗なものとして禁止でした。話題がないので、学校では友達の輪にも入れず孤独。遊びは一
人で漫画を描いたりしてました。

2年に一度転校する度にイジメの危機。また女の子みたいにおとなしい性格だからその手でからかっ
てくるし。それが高校まで続きました。僕は誰にも必要とされていない。僕には何もない、もの凄い
虚無感。しかし人にそれをさとられないようにしてました。そうやって自分を守るしかなかった。
常に強迫観念にかられて、世間が嫌いだった。学歴社会がイヤで大学も行かず、社会が嫌いだから
ニートでもう20代半ばです。こんな気持ち、僕以外に誰にも理解できるはずがないです。だからこそ、
自分で乗り越えるしかないと思って今は哲学に心理学を独学してかなり自分を見ることができました。

そのきっかけとなったのが、人との出会いです。片想いの恋をしました。そこではじめて他人に興味
が出て、地の底に突き落とされたような辛い経験をしました。絶望の中、僕は自分で自分を見捨てた
らお終いだ、というところまで追い詰められ苦悩で彷徨としました。でもそこで奇跡が起こったんで
す。とでもかけば宗教っぽいですね。(笑)そのことを書きたいけど言葉で表すことができないんです。
だから僕は愛という言葉を代用しているに過ぎません。
それからは、徹底的に嫌いだった自分の過去がプラスにすら見える。逆にそういう経験を活かそうと
思って今に至ります。それからは満たされているけど、しかし満足をしているわけではない。言葉で
表せばどうしても矛盾してしまいますが、過去をまったく後悔してません、というか出来ないんです。
それからは、そんな自分をまっすぐに押し出していこうと、また、この生きる素晴らしさを人に伝え
たいと思い、今は芸術活動中です。

>愛みたいな素晴らしい気持ちのような、「価値」という概念は、科学の視点で捕らえると瞬く間に消滅します。
人類の文明を見れば、考古学だとモノを発掘してそこからとらえるしかありません。原始社会になればなるほど、宗教は絶対的なものだったらしいのですが、占いや超越者との交流など、人間の精神的活動、または祭りや踊りなどの習慣・儀式は、発掘されたツボや骨や石などから想像するしかありません。つまりその人間的なモメントは瞬く間にしか生きないのです。その肝心なところは発掘では発掘できません。現代はその人間的活動を見落としている気がします。科学も数多い分野の一つにしかすぎません。全てで一つであると僕は考えます。

>なんのために進化をしているかが今最大の疑問です
進化しなければどうなるのかな?現代でも原始的な社会はあるわけだし、進化してどうなるのか、僕自身疑問に思います。というのも、進化すればするほど、何か人間的矛盾、または悔いのようなものが深くなっていくような気がするのです。あくまで直観ですが。

>ただ、ニヒリズムの後には何か新しいものが生まれる法則がある
哲学でいう、弁証法のことでしょうか?

また、幸せにしても愛にしても神にしても形而上学的なことは、物質でないので、とらえようのない共通認識をイデアと哲学ではいいますが、それは、人によって捉え方が違うし、ましてそれを言葉で表そうとしても決して100%表せるものでもないと思います。

その上で敢えて発言しますが、「幸せになるのが目的」と思われているようですが、しかし、幸せになってどうするのでしょう?僕にとって、まるで今、幸せじゃないような発言に見えて仕方ありません。僕は幸せを望みません。以前解説したのでここには書きません。

結局のところ、「現代人は生きることが空しく感じる」からこの手の質問が多く見られるのではないでしょうか?僕自身、躁鬱が激しいし、空しく感じることがあります。しかしそれを乗り越える術も知っています。また哲学でいう弁証法も、自分なりに得ています。それらは精神的なことであって、人によって違うと思います。少なくとも僕は、確実に自分が成長している実感があります。

lifeishellさんが、なぜ「人間が生きる理由が絶対にあるはず」と思われるのかを解明するのが答えになると思います。

私事ですが、17歳だったころの僕は、自分の人生から逃げていてこんな難しいことは考えていませんでした。その点、lifeishellさんは真摯にご自分に向き合っていて素晴らしいと思います。これからもきっと素晴らしく成長していくと思います。
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この回答へのお礼

なかなか似たような人生ですね^^
僕もニートです。やりたい事があるので、
別になんとも思ってませんけど。

>>この生きる素晴らしさを人に伝え
たいと思い、今は芸術活動中です。

僕もそんな人間になれるかな。
今は自分の事で精一杯です。

>>哲学でいう、弁証法のことでしょうか?

ニヒリズムは虚無主義という意味です。

>>幸せになるのが目的」と思われているようですが

というか、人って常に幸福感を求める生き物なんですよ。そういう風に脳にプログラムされていると思います。次から次へと欲が出て。
ただ、幸せの形は無数にあると思います。

>>lifeishellさんが、なぜ「人間が生きる理由が絶対にあるはず」と思われるのかを解明するのが答えになると思います。

人間が生きる理由なんて無いなんて言ったらあまりにも空しいじゃないですか。というか、生かされていますよね。ならば理由もあるはずなんです。
この世に生まれ来ても、
何も悟る事も無く死んでいく人達がいます。
交通事故でいきなり死んでしまう人とかも。
その人達にも何か理由があるはずだと思うんです。
無かったら、あまりにも空しすぎませんか?
結局、無いと思いたくないからというのが理由です。

>>その点、lifeishellさんは真摯にご自分に向き合っていて素晴らしいと思います。

ありがとうございます。でも僕は逃げないと言うよりは、自分に向きあわずに精進しなければどんどん不幸になっていくだけなので、頑張って思考に思考を重ねてるんです。ホントしょうがなくって感じです。
それがまた空しくて・・・。

この疑問については、もっと勉強して自分で答えを得ようと思います。でもこんな事ばかり考えて、
人と人の間と書く人間のコミュニケーションの方の
勉強も衰えないようにしたいものです。

回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/03/05 00:03

すみません直接な答えになってないのですが、僕の考えを書きます。



ひとつは生きる理由があったとしてもそれが神(超越したもの)にとっては意味がないか、あってもたいしたことではないだろうということです。

そういう理由とか目的とかそういう因果関係を神は自らのうちに持ってはいないんじゃないのかと
仮に因果関係が超越者の側にもありそこに何か理由があったとしても、それはまたそのなぜかさを問えれてしまうという点で客体的な理由にはなりえないと思うのです。
よくよく考えてみると理由とか目的とかは思われてるほど現実を指し示すものではなく人間(生物)の主観性を無視しては成り立たないと思うんです。
(もう少し言えば客体的なことさえも実在としては問えないと思っていますがちょっと文章で伝える自信がありませんので、、)

でも現実に生きているという事実があります。
それは確かにすごくなぞです。これはとてもおもしろいなぞです。この辺を問われると人間の思いとか主観とか関係ないような気がします。
このなぜかさは、ちょっとまたlifeishellさんの質問されてる問いとは問いの開始場所が違うかもしれません、
これはなんだろうな、、、
すみません話がそれてしまったかもしれません。
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この回答へのお礼

人間の個体としての意味は、
遺伝子の伝達役であるだけで、その他は何も意味が無いのかもしれませんね。。種全体が進化していく事が目的っぽいので。なんだかなぁ。

>>この辺を問われると人間の思いとか主観とか関係ないような気がします。

僕もその通りだと思います。人間の思いとか主観なんて全く関係ないです。むしろ興味ありません。
キリスト教的な考えが嫌いです。愛をはぐくむため?
それは潜在的には全て利己的に生きてる事になります。神に救われる為?その証拠を出せるのでしょうか。本に書いてあったから、そう教えられたからそう思ってるだけなくせに。
僕は気付いたら僕でありました。
気付いたら生まれてて、それがどうして自分なの?
この世に二つとない、他の誰とも一緒じゃない僕がどうして存在してるの?と思います。
魂が人間という器に入っていて、それがいろいろと活動して、進化していく。こういうやり方をとった、
僕ら人間を創造した「何か」は、必ずこういう世界にした理由を持ってると思います。それを聞けば、
人間も、あぁそうなんだと納得できるはずです。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/03/10 19:33

いきなりレベルを下げるようで恐縮ですが・・


僕個人としては死ぬまでの暇つぶしです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

僕もそんな感じです^^;

お礼日時:2005/03/10 19:13

単純に言うと人生の目的は最終的に幸せになることですが。

それは死後の世界も含めてまったく後悔なく死ぬことができる状態です。
輪廻転生が話題に上っているようですが、六道は天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄の六つで人間が認識できるものは人間界と畜生界です。ちなみに植物は魂がないものとされていますので、仏教では植物に転生することはありません。
さらに、八識という考え方があります。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識という五感と意識、末那識という潜在意識までの七識は臨終とともに消えます。つまり、人間としての感覚は臨終とともになくなるわけです。
しかし、第八の識である阿頼耶識は生き残って転生するわけです。この阿頼耶識は阿が無限、頼耶が蔵を意味し、生命の誕生から今までのすべての記憶をしまいこんでいます。また、因果律に関係するのですが、仏教には善因善果(よいことをするとよいことがかえってくる)、悪因悪果(悪いことをすると悪いことがかえってくる)、自因自果(自分がやったことは自分にかえってくる)という三つの基本の柱があって、その因果律の種を持ち続ける蔵としても阿頼耶識は機能します。解脱していない阿頼耶識は真っ黒な存在で、例えば楽しいことのあとにふとむなしくなるのはこの阿頼耶識が顔を出すからと言われています。
自因自果について、テレビ等で罪のない被害者といった表現がありますが、被害にあったのは自分がこの人生じゃなくても前世あるいはもっと前の生で悪因をまいたためであり、そこに縁が関係します。因果の法則は正確には因縁果の法則といい、原因があり(もちろん自分の中にある)、何かの縁があり(悪人に会うと悪因が結果を出すように誘発するなど)、結果が出るというわけです。
どんな道を通っても最終的には幸せになると目的達成だと思いますよ。
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この回答へのお礼

>>単純に言うと人生の目的は最終的に幸せになることですが。それは死後の世界も含めてまったく後悔なく死ぬことができる状態です。

僕もそう思います。というか個体としてはそれしか意味が無いと思います。遺伝子に幸せを望むように書き込まれているかしょうがないですよね。生物は新しいものに向かって進化していますが、なんのために進化をしているかが今最大の疑問です。

仏教のお話しありがとうございます。
考えの幅が広がりました。
回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/03/01 21:32

>同じ魂なのにどうして少しも記憶が残らないのでしょうか。



僕たちの意識には顕在意識、潜在意識というものがあります。

今あなたが意識している顕在意識には、
あなたが日常生活を送ることや
あなたの魂の成長に必要な部分だけを記憶に留めるように、
配慮がなされています。

反対に、体験・経験したことのうち、
日常生活に不必要な部分は
潜在意識下にしまい込まれるように配慮されるのです。

しかしいずれにしても、体験したことの全ては、
あなたの記憶装置に書き込まれます。
たとえ、どんな些細なことでも、忘れたと思っても、
経験したことは全て記憶され消え去ることはありません。

コンピュータにたとえれば、
メモリー上の記憶か、ハードディスクに記録するか、
の違いといえばよいでしょうか・・。
人間が作った電子装置でさえ、大容量記憶できるのです。
大宇宙を御創造された大叡智者が
僕たち一人ひとりに与えてくださった能力は計り知れないものです。
ここに、感謝の必要性を感じませんか!?

この世からあの世へ移行すると、この世の経験の記憶を猛スピードで再現され、色々と反省させられます。
あの世(霊界)は僕たち地球人にとってはこの世の反省の場です。

そして、再びあの世からこの世へ肉体を与えられ修行にくるのです。
その時は、前回肉体を持って過ごした時の記憶は消されます。
潜在意識下に埋没されるということです。
たまに子供でこの記憶を持っている人もあるようです。
しかし、4~5才になると殆ど忘れてしまうらしいです。
もし、そのまま持っていたら、未熟な僕たち地球人は、
かつてのことを思い出し、愛憎を引き続き持続し、
混乱は無際限に起こるためです。
僕たちが優良人間になれた時には、
必要とあれば記憶は自由に蘇らせることが出来るそうです。

もちろん、植物の時や動物の時の記憶も、
深い潜在意識層に記録されているということだそうです。
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この回答へのお礼

なるほど、考えの幅が広がりました。
お釈迦様は、死後の世界がどんなものかを、
他人にけして教えなかったそうですね。
なので、それはそんなに安易に理解できるものではないんじゃないかと思います。
回答ありがとうございました!!

お礼日時:2005/03/01 21:22

lifeishellさん、こんにちは。

vagabond_0710です。

>相談に乗ってくれて本当に感謝の気持ちで一杯です。
僕もlifeishellさんに感謝します。毎回ちゃんとお礼をいただけるし、きっと素直な方なんだなと思います。自己主張は自分を確認するための手段でもあるんです。その効果は自律へと繋がります。だから僕もlifeishellさんに感謝です。

>それは自分にとってストレスにしかなりませんでした。
僕はよく人に、男前とか、かっこいいなどと言われます。高校生だったころの僕は、当然モテたわけですが、しかし実はあまり嬉しくなかったんです。電車で通学していたのですが、女子高の知らない女の子がいきなり告白してくる、というような経験もあります。しかし内心は「外見だけで判断しやがって。オレのことを何も知らないくせに!」と僕はスレていました。今思えば、外見じゃなく中身の自分を理解して欲しかったのだと思います。

>愛に物凄く飢えています。
僕はね、愛は与えるものでもなく、与えてもらうものでもないと思うんです。愛とか自由は、買ったり売ったりするような相互依存的なことじゃなく、ただ素直に「感じる」ものだと思うんです。つまり知ることではなく、感じることなんです。

>もし僕がその老女だったら、そのマザーテレサの愛が本物だと信じようとしないで、全てを拒否し>てしまい、発狂してしまうと思います。こんなに愛に溢れた人間がいるなんて、幻を見ているに違>いないと思ってしまうと思います。
それでいいと僕は思う。それがありのままの真実ならば。受けれても、受け入れなくても、マザーテレサはマザーテレサに変わりはない。つまり、愛に満ちた存在であるに変わりはないと僕は思います。

難しいかな。理屈で全てを知ろうとするべきではないと思います。愛を"感じ"たければ、愛を追い求めていてはいけません。求めるものでも与えられるものでもない、と僕は哲学するからです。
例えば、悟りを求める人は悟りを得ていないからです。つまり、悟りが何か気づいていないだけのことだと僕は思います。

lifeishellさんのお礼を読むかぎり、この生きている世界が無常であることを感じているようですね。無常だからこそ切ない。それこそ愛だと僕は叫びたいです。感受性の高い人なら誰でも一度は気づくことだと思います。ただ現実が実証科学主義だから、多くの人は非科学的なことは見ないフリをする。それが現代人の空しさの産みの親になっていると僕は思います。

>愛というものが怖いです
それはつまり、自分の中にある愛という概念が、怖いと設定しているからです。愛とはこういうものなんじゃないか、と想像しているわけです。思い込みや先入観というのかな。愛は想像ではなく"感じる"ことだと思うのが僕の主張です。頭でわかることなんか、愛でもなんでもないと僕は思います。僕にとってそれは勘違いなんです。難しいと同時にもの凄くシンプルなんです。
もし今、愛を感じたことがないと思われているのであれば、この先の人生で愛を感じる瞬間があると思います。その時は、今想像することも出来ないような時です。これは理屈でもなんでもない。僕の人生経験です。そして一番肝心なことは、愛を感じることができないと思っていては一生できないと僕は思います。自分の心は想像の域を越えて作用していると思うんです。自分を信じることの凄さはとにかく凄いとしか言いようがないです。
また、人は感動します。それはどういう時か、観察して見てください。そこにヒントが隠されていると僕は思います。

理屈でわかるということはどういうことでしょうか?理屈でわかったと思ったことは実はわかりきったことではないと思います。この神秘に満ちた世界を論理で捉えようと科学が進歩してきたわけですが、しかしアカデミックに体系化して枠に収めてわかったと思っても、実際この世界はわからないことだらけです。自分すら何かわからないのが人間です。だからこそ生き続けることができるわけですが、つまり、わかったと思った時点で、わかってない証拠なんです。例えれば、悟ったと思ってそこで安住してしまうことで、悟りきれていないということです。自分で自分のことをわかったつもりでも、それは自己満足です。

>今自分は自分らしくないと思ってます。
キツイこと言いますが、このように思っているのもlifeishellさんらしさですよ。そもそも自分らしさとは何でしょう?自分探しが流行しましたが、そのように探している自分をほっといて何が自分なんでしょう。そのように探している自分こそが自分だ。僕はそう思います。つまり、ありのままの自分が今認識する自分です。
自分の存在をわかったつもりでいても、それはわかっていないと僕は思います。知らない自分は多いに隠されていますよ。誰かと出会えば恋に落ちるかもしれないし、そこで知らない自分がいるでしょう。恋に限らず仕事でも新しいことにチャレンジしたあとの自分は想像ができません。なので今の僕は、自分らしくある必要なんかないと思ってます。今自分が思いこんでいる自分を壊していく。壊すなんてイメージが悪いかもしれませんが、つまり変化して成長し続けていくという意味です。この世界が無常と感じているのなら、自分を決め付けることは自然に反します。常なんか無だ。つまり変わり続けていくのも自分なんです。

もし、僕が思う愛について興味がありましたら、
「質問:本当の恋愛」(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1189005)で僕が思う愛について述べています。よろしければご覧下さい。または、
「質問:愛について」(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1168343)にも意見をよせています。

人間的人間であればあるほど、問題がつきません。それは自分を知ろうと深く掘り下げていくのもひとつの要因だと思います。人間自体問題的存在だと思う意見もあるぐらい、問題の塊なんです。(笑)繰り返しますが、僕は幸せを望みません。問題に気がつかないほど鈍感にならない限り無理な話です。

今回は、ちょっと哲学っぽく難しいと思われるかもしれません。解らないところは質問して下さい。僕の考えを、僕なりの哲学を主張したいと思います。
僕は決して、この世やあの世やそれらの関係、またはその仕組み、つまりシステム化した理屈を言いたいわけではないことをここに主張します。ただ一人の人間として、経験から感じたことをそのまま、できる範囲で言葉にしているだけです。愛を言葉で伝えることはできないと思います。つまり、初めから理解してもらおうと思って書いているわけではありません。言葉ではない、何かを感じてもらえたら幸いです。
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この回答へのお礼

>>つまり知ることではなく、感じることなんです。

愛って言葉は、一文字だけど複雑で、人によってイメージが違うと思います。神とかもそうですけど。
だから、1つの考えとして捕らえさせてもらいます。

>>~愛を追い求めていてはいけません。

わかります。それは他の事でも言える事ですね。
何ごとも無理に追い求めると本質を見失なってしまう事がありますしね。

>>多くの人は非科学的なことは見ないフリをする。それが現代人の空しさの産みの親になっていると僕は思います。

科学は、全人類の探究心や進化の欲求に欲する最大の偉業と言えますから、それに依存するのは仕方のない事だと思います。ただ、愛みたいな素晴らしい気持ちのような、「価値」という概念は、科学の視点で捕らえると瞬く間に消滅します。
全ては利己的なもの、進化のシステムの一貫だと、
考えることができてしまうからです。
それによってこれから人は、おっしゃる「現代人の空しさ」ニヒリズムに陥っていくと思います。ただ、ニヒリズムの後には何か新しいものが生まれる法則があるので、この歩みは間違っていないと思います。
何に向かっているかはわかりません。知りたいです。
ちなみに僕はいつの間にかニヒリストになってました。哲学をくり返すうちに・・。

>>愛を感じることができないと思っていては一生できないと僕は思います。

最近は感じるようにしてます。でも幼年期のトラウマというのはとてもでかいですよ。実際に体験しないと僕の辛さは誰にもわからないと思います。深層心理の無意識の所にも、変な思考が深く植え付けられてしまうので、人に言われても治らない事が多いんです。

vagabond_0710さんの文は全て僕なりに解釈させてもらいました。ありがとうございました!

お礼日時:2005/03/01 21:12

人間が生きる理由は死ぬのが恐いからで、神様が人間を死ぬように創造したのは寿命がないと充実した人生を送るのが難しいからではないでしょうか。

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>僕はたまに、どうして僕が人っていう種類の、この体に魂が宿ったんだろうと疑問を持ちます。



もしよければ、No.1214281に僕が書き込みましたものを
読んでもらえたら幸いです。
そして、ご自分でよく考えてみてください。
しかし、ものすごく簡略化して書いておりますので、
理解不能でしたら、再度疑問を投げかけてもらえましたら、
詳細に返答致したいと思います。

要するに、あなたは遠い過去に、
すでに原始生命体や植物や動物での体験をすませて、
人間の形態の今の位置にまで進化してきた魂なのです。
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この回答へのお礼

読ませてもらいました。
自分なりに理解しました。

>>すでに原始生命体や植物や動物での体験をすませて、人間の形態の今の位置にまで進化してきた魂なのです。

同じ魂なのにどうして少しも記憶が残らないのでしょうか。

回答ありがとうございました!!

お礼日時:2005/02/27 23:06

>自分は、見えないものは無いと否定してしまいます。


神、霊などがそうです。
全部自分の心が生み出すものだと、経験的に
感じました。人は自分の脳が作り出した世界の中で
生きています。そこには、いる可能性もあると思います。でも現実の世界はどうでしょう。
霊はどっちの世界にいるのでしょうか。

極端にいえば、
神の想像・創造(そうぞう)による原材料の物質を与えられて、
僕達地球人が協力して創造した現実の世界も、
あなたの想像(そうぞう)の世界も、

程度の差だけで、本質はおなじ想像・創造の世界です。
想像したことが一定時間経過して現象化し、創造となります。
少々意味合いが異なるかも知れませんが、
どちらの世界にも「霊」はいるといえます。

lifeishellさん自身も、この世での「霊」の一人です。
ただ、この世(物質世界)では肉体を着ている訳です。

証明はできませんが、
僕はあなたが「実在」することを確信します。
僕の実在も認めてもらえますか!?

「実在」とは諸々の生命のことをいいます。
これは生命波動ですから目には見えません。

さて、「神」は久遠の往古に「霊」が最高度に進化した存在です。
故に、「神」は実在するのです。

あなたも、とおい、とおい、とおい、とおい~~将来
「神」にまで進化する存在です。
生命は不滅です。

では、物質はどうでしょう?
実は、物質は実在とは言えないのです。
人間を進化させるために、神が想像し、創造された物です。
本質は「幻」と同じです。
このことは物質の根源の素粒子の
さらにその奥を知ることとなります。
僕達人間は、あまりにも物質が確かなものと思い込むため、
「幻」とは認識していない訳です。

物質は人間が自己の想念の結果の表出を
外界に知覚して認識を得て経験を積む為に
「神」から与えられた道具です。
この世で、物質を最高度に構成した道具が人間の肉体です。
物質は生成→成長→衰退→崩壊しますので、永遠ではありません。
物質は比較的固定化した「幻影」ともいえます。

現在の貴方の体や環境の姿形は
今までの貴方の心(想念)の集大成が、
この世である物質世界に表現されているのです。
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この回答へのお礼

>>lifeishellさん自身も、この世での「霊」の一人です。
ただ、この世(物質世界)では肉体を着ている訳です。証明はできませんが、
僕はあなたが「実在」することを確信します。
僕の実在も認めてもらえますか!?

良くわかりました。
僕はたまに、どうして僕が人っていう種類の、この体に魂が宿ったんだろうと疑問を持ちます。

>>では、物質はどうでしょう?
実は、物質は実在とは言えないのです。

それはなんとなくわかります。
小さい頃に、親にそれを説明したくて、
「物ってホントは無いんだよ!」
と言ってしまったため、何を言い出すんだこの子供はと、呆れられて悔しい思いをした記憶があります。


しかし、この質問の答えを探すのはなかなか
しんどいですね。最近は急速にこういう話しに関わってくるようになり、本も今まで読まなかったのに、
読み出したりして。これからは少しずつこの答えを探して行こうと思います。じゃないと、
一気に無常感や冷たい心に支配されそうな感じで、
怖いです。結局は楽しく生きたいという事です。^^;

回答ありがとうございました!! 

お礼日時:2005/02/25 18:22

lifeishellさん、しつこくてすみません。


lifeishellさんだけが悩んでいるわけではありません。僕自身悩んでます。(?)

>周りは男女間で付き合うのが当たりまえ
僕は女性が好きです。もちろん性欲もあるし、表現も微妙ですが、柔らかいし。(笑)また、自分と違う考えもしてるし、とにかく謎です。(笑)興味津々です。
だからといって、彼女がいるというわけではありません。自分で言うのもなんですが、結構モテます。でもドキッとするほど魅力的な人と出会ったことが滅多にないだけです。いろんな女性と付き合ったけど、でも熱くなったのは人生2度ぐらいです。17歳あたりだと、とにかく付き合うのが当たり前のように思いますが、しかし歳とればまた、違ってもきます。若いうちは、悪く言えば恋に恋してるんだと思います。
思春期だと、誰でも情緒不安定になります。みんなそういう道を歩んで大人になると思いますよ。

>家庭には愛情が一切ない為
家庭の事情は人それぞれで僕がとやかくいえることではありませんが、17歳だともう反抗期を迎えましたよね?親に反抗するということは、自立心が芽生えた証拠です。酷なことを言えば、親に頼らず自分こそが愛する人になってほしいです。言うのは簡単で実際は難しいですよね。無責任な発言お許し下さい。

>哲学って、世の中を難しく考え過ぎるから全てが無情なような気がして
僕も同じ意見です。哲学とは答えが出ないものです。そのことを忘れないで下さい。僕はそれが答えだと思ってます。つまり、人生自体には答えがない。よく陥りやすいパターンですが、人生に答えを求め続けて、それで一生を過ごす人がいます。そういう人は、人生に目的があると固定概念を持っているからだと思います。もちろんその逆もいえますが。

なぜ目的を持つのかを考えればいことです。目的とはもともと限られた生活の中で、自分を充実させるための動機に基づいて設定される意識です。それを、外側に捜し求めても、しかし現実は自分の生活なんだから、その中で努力しなければなりません。しかし遠い先に人生の目的を見ようとする人は、その限られた生活の中を疎かにしているからに過ぎません。本当に凄い人は、またマザーテレサが登場しますが(笑)、彼女は目の前の問題にひたすら取り組んだだけです。なのに愚かな人間は、目の前を無視して、遠い先ばかりをみようとする、卑劣な根性だと僕は思います。そういう人間に限って御利益、来世までよい目をみたいという、欲深い現実の自分を観察してほしいです。

「目的」について。自分の未来を考えるとそれは過去を振り返っていることになります。過去を「由来」として、未来を「可能性」として投げかけ、そして今ある自分に「動機」を見出す。そのように人間は「目的」を作り上げています。つまり「由来」と「可能性」の間に「今現在」があって、その「出会いを実現した」という「実感」が得られないから「空虚」になるんです。結局空虚な現在に存在することになって、空回りして、遠い先のことばかり考えるようになります。

人生を肯定するヒントは、「今ある自分をありのまま受け入れる」ことです。それが不幸感情を克服することになります。また、「人間をよく観察してください」。観察とは、ありのままを受け入れようとする行為です。ありのままの現実を受け入れる。そんな当たり前のことがなかなか人間は出来ていないようです。

>でも実は人生って苦しみが無いとつまらないものなのかもしれません。
まったく同意です。毎日が幸せだと幸せだと感じなくなります。不幸があるからこそ、幸せを幸せと感じることができる。毎日美味しい食事をしても、同じ料理ばかりだと飽きます。

>やっぱり人は幸せになる事が究極っぽいですね。
常識はずれなことを言いますが、僕はね、幸せを望まないんです。幸せとは何かと観察して下さい。僕が思うに、幸せとは自分の周りに波が立たなければいい、そういう「自分だけ」と思うエゴイストでなければなれません。本当に人間的人間であれば、そうなるのは不可能です。問題は常に周りにあります。そういうのに目をつぶって、自分が幸せな状態にあっても、しかし実は心の奥底から幸せだと思っているかと思えば微妙だと思います。変な話、麻薬か何かで現実逃避しない限り無理です。
僕はそうじゃない。幸せを望むから不幸になるだけであって、ありのままの現実をそのまま受けれいれればいい。宗教チックに言えば、それだけで存在自体が満たされます。

No.26で僕は、宗教はこの混沌とした捉えようのない世界を「論理的」に捉える術を得ている。だから宗教は、どうしても人知を超えた存在を設定しなければならない。
と書きました。
そうやって、人知を超えたシステムを作り上げ、合理的に満足しようとしているんです。実証科学主義ベースの合理的思考がそうさせていると思います。しかし、これも人間の一つの知恵です。それで満足できるなら。僕は無理だけど。
もちろん、宗教や神秘など否定はしません。ただ、神はいる、いやいないと討論したがる人がいますが、それこそ不毛です。その二元論的思考の落とし穴に落ちているだけのことです。いると同時にいない、いないと同時にいるだけです。そもそも信じているのなら、他人に承諾を得ないでもいいと思うし。そんな僕に言わせれば、死んだ先の世界なんか知らない。未知だからこそ知りたい欲求は生まれますが。

僕はこの混沌とした世界、即ち人間をそのまま、ありのまま受け入れ、その矛盾に引き裂かれながらも苦悩し、また歓喜していく。それが人生だと思ってます。僕が愛といっていることはそういうことです。
生きるのは大変だ~。だからといってマイナスにとらえる必要はないです。みんなそれぞれ自分の運命を背負って孤独に闘っていくのでしょうが、しかしそれこそ人生。闘って笑うのも、また嘆くのも自分次第です。

このように、自分の哲学?宗教?信念?を持つのも人生の楽しみのひとつだと思います。それは人生がそれぞれ異なるように人によって異なると思います。その面白さを奪う宗教は僕は嫌いです。僕にとって個性喪失、生きることを放棄したことだと思います。
異なるからこそ、こうやって人とコミュニケーションをするのが楽しいのだし有意義になると思います。そうやって、自分の人生を有意義にとらえていけば、世の中みんなハッピーになると思います。人生に無駄なんてありません。それはその人がそう思っているだけに過ぎません。どんな人生からだって多くを学べます。あまり難しく考えず、自分が好きなように、素直に生きればいいだけですよ。
悩みや疑問があれば、なんでも相談に乗りますよ。
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この回答へのお礼

今は高校中退の身で、辛い事ばかりですが、
僕も高校にいた頃はなぜかモテました。
それは自分にとってストレスにしかなりませんでした。どんなに可愛い子が来ようとも、友達になろうとしか言えませんから。

>>僕はそうじゃない。幸せを望むから不幸になるだけであって、ありのままの現実をそのまま受けれいれればいい。

この言葉、かなり響きました。これから僕に良い影響を与えてくれそうな気がします。

昨日マザーテレサの本と、、
哲学の難しい本を買って、一気に読破したのですが、
マザーテレサの本を読んだ後は優しい気持ちになれました。でも、難しい哲学の本を読んだ後は、
なんか世の中の全てを理論的に説明しようとしている所から、少し冷たさを感じました。
本のせいにしたくはありませんが、
物事を難しく解釈する癖がついてしまったような
感覚を覚えました。
でも、物事を難しく解釈しつつ、自分をしっかり持ちたいものです。今自分は崩れつつあります。
愛というものが怖いです。違う言い方すると、
愛に物凄く飢えています。
マザーテレサは、道端にいる瀕死の老女に一杯の御飯
を、お食べなさいと言ってわたしました。
もし僕がその老女だったら、
そのマザーテレサの愛が本物だと信じようとしないで、全てを拒否してしまい、発狂してしまうと思います。こんなに愛に溢れた人間がいるなんて、幻を見ているに違いないと思ってしまうと思います。

>>どんな人生からだって多くを学べます。あまり難しく考えず、自分が好きなように、素直に生きればいいだけですよ。

今自分は自分らしくないと思ってます。
今まで自分らしかった事はあったのですが、
何回か転落していて、今も転落しています。
少しずつ自分らしさを取り戻して行きたいです。

僕が書いたお礼や、質問文から、心の闇みたいなのを感じ取ってくれて、こんな風に質問の主題と少し外れて、相談に乗ってくれて本当に感謝の気持ちで一杯です。他の人ももちろんそうです。

何度も回答ありがとうございます。
しつこいなんて微塵も思ってません!
感謝の気持ちだけです。

お礼日時:2005/02/25 18:02
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