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1. 神の摂理あるいは因果応報説は あくまで―― 一般理論ではなく――主観がみづからの内面においてのみ持ち得る神観である〔に過ぎない〕。

2. 因果律は ものごとの良し悪しを抜きにした現象の過程を言い――つまり科学的認識を言い―― それ以上に人間としての価値判断をまじえたおのおの主観による歴史過程の評価が 因果応報説である。

3. だから これは摂理としてただの神観だ。

4. それでよければ 世の不幸が起きているのは われわれのと言うべき自業自得だと直感される。

5. ――のではないだろうか?




6. なお 神観や神論からも自由に捉えた因果関係の推理としては 次のようであると思う。: 
【Q:すべてのヤマヒは ウソ・イツハリから――補論――】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12904012.html?msclk …
【Q:《やみ(〈自由〉の止み)から やまひ(病ひ)へ》考】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12876339.html?msclk …

A 回答 (6件)

ぜんぜん伸びませんね。

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この回答へのお礼

こんなもんです。

お礼日時:2022/04/21 18:36

たしかに気持ちは大事ですよね。

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この回答へのお礼

神経細胞に起きる変化ですよね。ヤマシサ反応は。

そして 気持ちないし感情としても生じ 

さらには理性における意識として恥ぢとしてもあらわれます。




生命性:ヒラメキ&良心
----↓----↓-----
感性 :直感& ヤマシサ反応
理性 :直観& 恥ぢ


☆ 世界の事象を全人格で受け留めたかたちであり そのときの・特にはヤマシサ反応に対して どのように振る舞ったか。このことによって・その真実かウソかによって その後の結果もおおむね決まって来る。


こういう推論です。

お礼日時:2022/04/21 15:15

その本能的なやましさ反応は、


原始時代のものもたくさん混ざっていて、現代では必要ないこともたくさんあるという話も、よくされることと思いました。

ただ何も良いことをする気がないとか、
積極的に新しいことを学ぶ気がないような人、表面だけ模倣したがるような人も含めて、そのやましさ反応に従う方が無難なことが多いのかもしれないような気もしました。
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この回答へのお礼

★ その本能的なやましさ反応は、
原始時代のものもたくさん混ざっていて、現代では必要ないこともたくさんあるという話も、よくされることと思いました。
☆ 違う見方を持ちます。

たしかに たとえばポーカーフェースという態度を採ることがあります。もうヤマシサ反応は 出ていない・そして要らないというようなふうに見えますが ところがどっこい だってヤマシサ反応が起きるからこそポーカーフェースをつくろう努力をするのですから。

原始時代も現代も 何ら変わっていないはずです。何しろ感性や理性の問題ではなく 生命性(また 良心)のハタラキなのだと思われるのですから。


★ 本能的なやましさ反応
☆ というふうに見えるかも知れないですが ヤマシサ反応にかかわってその反応が起きたからこそそのあとになって知性的な意識として芽生えるところの良心の呵責 これは 本能ではないはずです。

意志的に起こそうと思って生まれるものでもないので やはり生命性のハタラキではないかと。ハタラキのあと 知性はよく思考するようになります。



★ ただ何も良いことをする気がないとか、
積極的に新しいことを学ぶ気がないような人、表面だけ模倣したがるような人も含めて、そのやましさ反応に従う方が無難なことが多いのかもしれないような気もしました。
☆ それにも異論があります。

わたしがわたしであるといった自己還帰が成っていないひとが ヤマシサ反応を重んじるとは思えないんです。


★ 積極的に新しいことを学ぶ気がないような人、表面だけ模倣したがるような人
☆ は まだポーカーフェースに走る口ですよ。ウソがバレなければよいと考えているでしょう。

お礼日時:2022/04/21 13:20

なくて七癖とも言いますので、


知ってても悪いことをしてしまうというのは人間であればしかたなく、ある程度許容しないと潔癖症ということになるんじゃないかと思いました。

因果応報はほとんどの方がわかっていると思いますし、わかってなかったら、
今のような治安のよさは実現されないような気がしました。

善を善として行う、悪を悪として行うのは、
どちらもヨイショがいりますので、自然と良い行いができるよう日ごろから努力していく感じがちょうど良いんじゃないかと思いました。
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この回答へのお礼

★ なくて七癖とも言いますので、
知ってても悪いことをしてしまうというのは人間であればしかたなく、ある程度許容しないと潔癖症ということになるんじゃないかと思いました。
☆ それは 理論ではないですね。

哲学の理論は あくまでダメなことはダメだとする規定です。

その上で 人間はよわい・習慣の――あたかも慣性の法則が当てはまるかのごとく 変化・改良に対する抵抗の――チカラは 大きいものがある。という言い方になるかと思います。


理論と実践〔のギャップ〕というふうに捉えるのではなく もしきびしい態度は潔癖症だというのならそれは ただの怠惰癖でしょう。


★ 因果応報はほとんどの方がわかっていると思いますし、わかってなかったら、
今のような治安のよさは実現されないような気がしました。
☆ 科学的に認識し得た因果律と その過程にその認識以上に価値判断をまじえる因果応報説とは 別ですよ。

あたかも常識になっているかに思えるのは 単なる勧善懲悪ではないかとわたしは考えます。これは 哲学の定義をまだ経ていない恰好だと思われます。




★ 善を善として行う、悪を悪として行うのは、
どちらもヨイショがいりますので、自然と良い行いができるよう日ごろから努力していく感じがちょうど良いんじゃないかと思いました。
☆ 貶そうとは思いませんが 別の見方もあるかと思います。

いちいち《良いおこない》といった課題を持つのではなく 問題は やはりヤマシサ反応に忠実に成るかどうかだと思っています。

ヤマシサ反応を起こしているのは 良心であって――さらに言えば 生命体としてのヒトの存在にかかわっていて 言わば生命性の発露として起きるのだと思われ だとすると―― その反応には逆らわないなら おおむねよいことであり 逆らったなら よくないことにつながる。

・・・このように分かっているかと思うからです。

お礼日時:2022/04/21 10:00

人の世の幸不幸は、「因果応報、自業自得」等の三世の生命観に立脚しなければ説明が付かなくなります



仏教はそこから「縁」により定められた宿業(運命)を変える事ができる
と説きます。

あらゆるものごとが因と縁によって生ずることを説き。ものごとの生成に関する法理で、仏教の根幹をなすものです「縁起の法」

「縁起」 が、縁りて起こると書くように、人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、
すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。
すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。・・・この辺から始まりまる法理です。

軽々に(内面においてのみ持ち得る)??などと結論しない方がいいです
そんな浅いものではありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


それでは 縁起による因果応報の過程は 具体的にどうなのか?

つまりは間接的にしろ原因となる縁について どういった心のあり方や内容を持つときに どういった結果をもたらすのでしょう?


ブディズムを持ち出しておられるからには 善因楽果 悪因苦果といった応報だと思うのですが その善や悪の内容は どのように認識すればよいのでしょうか?


それとも:
★ (☆ 編集しました) 人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、縁りて起こる
☆ というとき 単独かどうか分かりませんが 個人個人の《個別性》としての心やその意志のあり方については たとえどんな場合にどのような内容であっても 世界は:
★ 関係性や相互依存性を根底としている
☆ ゆえに さほど重要なハタラキを持つことは ない――といった意味なのでしょうか?


〔世界はネットワークのつなぎたる関係性のみから成り 個人の主体性はないと説く構造主義に似ていますね。ですが つなぎ目=結節点も 関係構造にはあるのです。その節々が 自由意志の主体です〕。
  



★ 仏教の根幹をなす・・・「縁起の法」
☆ といった看板をかかげても なおまだ何か意味あることを言ったことにはなっていません。

苦からの解脱 無明からの目覚めうんぬんかんぬんと始まる膨大なオシへを説いても その中身は ついぞ明らかにされていないのです。

〔法華経・方便品で 弟子のシャーリプトラによる懇願をしりぞけて ゴータマ・ブッダは さとりの中身について説明しなかった。それを聞くと大衆が混乱を起こすからと言って。ペテン師の常套手段です。

悔しかったら きみも早くこの上なくとうとい智慧のさとりを得なさい。その中身は ブッダとブッダの間でしか 分からないものなんだよと。これは 詐欺師であることを超えて 自己欺瞞の極致たる不法行為です〕。


ブディズムのオシへは 家を建てるときの足場だけを立派に建てたに過ぎないでしょう。



世の不幸は ヤマシサ反応が出ているのにこれに逆らっておのれの欲するところによって強行突破したそのウソ・イツハリに そもそもの原因がある。みなもとは そこにしかない。

真実は シンプルであり:
★ そんな浅いもの
☆ なんです。

お礼日時:2022/04/21 07:21

物事に善悪はないとはいう人はいるけど、


良い結果になりがちだから良いことと定義され、悪い結果になりがちなことだから悪いことと世の中で定義されているわけなので、
良いことをする人は良い結果に恵まれ、悪いことをする人は悪い結果に陥りがちという、
考えてみたら当たり前の話のような気がしました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 物事に善悪はないとはいう人はいるけど、
☆ 善は悪 悪は善だなどとまで説く場合があるようですが おそらく――次にも触れておられますが――変だ・おかしいな・いやだなといった感覚を持つ場合があるからには 良し悪しは〔少なくとも おのおの主観の問題としては〕起きていると思われます。

わたしは その出発点は よからぬことを思ったり実行したりするときに感じられるヤマシサ反応に応じてさだめられると思っています。


★ 良い結果になりがちだから良いことと定義され、悪い結果になりがちなことだから悪いことと世の中で定義されているわけなので、
☆ それぞれの主観にかんするかぎり そういった評価をおこなっていると考えます。


★ 良いことをする人は良い結果に恵まれ、悪いことをする人は悪い結果に陥りがちという、
☆ そうですねぇ 定規で測ったように決まってはいないのでしょうが 善因善果 悪因悪果は 感覚的に合っているかに思われるでしょうね。



★ 考えてみたら当たり前の話のような気がしました。
☆ そうかも知れません。そして ただし 必ずしもこの説が 人びと一般にとって認められている常識のように位置づけされるかと言えば そうでもない・・・と推し測られますが どうでしょうかねぇ。

お礼日時:2022/04/20 22:04

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