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 § 1 不在と非在

 たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。

 けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。

 すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。

 ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?


 § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる

 在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。

 さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。

 では 《非在》とは 何のことか?
 感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?

 
 § 3 《非在》とは 想定である

 《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。

 世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。

 この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。

 あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。

 《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。



 § 4 《非在》という想定が 神のことである

 《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?

 ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。

 ここにもあれば 同時にあそこにもある。

 という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。


 § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。

 非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。

 この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。

 出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。

 それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。


 § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。

 この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。

 ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。

 だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。

 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。
 すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。

 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。


 § 7  信仰とシュウキョウ

 《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。

 § 8 この神をどうして理解できないのか?

A 回答 (14件中1~10件)

(返答をする前に一通り読んで欲しいのですが)


私も含めて理解できないわけではないが、限定的にしか定義を共有していないので、話の膨らまし方に多様性がでる。
もっと言えば、話の多様性を維持したいので、ここで提出された定義を限定的にしか使用しない、と言う意図が働いているのではないだろうか。
想定とは、その自由度はほぼ無限であるから、非在の神も、その無限の現れの一つの形容に過ぎない。むしろ主体は想定という能力を持った人類の方にあって、客体として想定された神は常に受動的であるのではないだろうか。神と言うのは名称に過ぎず、その本質は、想定し得た人類の能力そのものにあるのではないか。
即ち神を知ることとは、自身の能動的作為、あるいは想定してしまうと言う習性を知ることなのではないだろうか。
これを短絡すれば、神を知るとは自身を知ること、と言えるかもしれない。
私は余り神と言う名称は使わない。
例えば魚を魚と呼ばず、海を生きる者、と呼ぶ様なもので、神を論じるならば無限を論じたりする方を好む。
神を論じる時に問題となるのは、その人格の有無であると個人的には思う。一神教の神は、人格神として語られることが多い。それが私個人的には、神は一つの人類の理想として編纂された姿なのではと推測する要因ともなっている。(今はあくまで一般の神概念について語っており、非在の神は脇に置いている)だから神には人格があり、人としての正しい生き方を示唆したりするのも道理かと思われる。
一方で、この世を超えてこの世を司る法としての神像というものが有り得、そっちの方が非在の神に近いのではないかと思われる。これはXとしての神であり、科学が進んでも、常に存在する謎としての神である。
しかしながら私はここでも疑問を持っている。それは、果たしてその謎を神と呼ぶ必要はあるのだろうかという疑問である。謎は謎と呼べばよい。そう、思う。
であるから、神とは何かと問われれば、私は、人類の想定した、理想の人類の型式の一つ、と答えたりすると思う。

この回答への補足

 想像力ないし想像したことが ひとの自然本性――つまり経験的なもの――におさまることと その想像(想定)した《非在》なるナゾが 自然本性(経験存在)ではなくそれを超えることとは 両立します。

 この問題を――あしさい888さんとともに――提起してくれました。

補足日時:2014/11/07 10:05
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 私も含めて理解できないわけではないが
 ☆ まづ ここからの出発です。たしかに。


 ★ 限定的にしか定義を共有していない
 ☆ うんぬんは ひとまづ措いておきまして 次のくだりは わたしの考えでは基本的なアヤマチだと思いますので 反論します。:

 ★ むしろ主体は想定という能力を持った人類の方にあって、客体として想定された神は常に受動的であるのではないだろうか。神と言うのは名称に過ぎず、その本質は、想定し得た人類の能力そのものにあるのではないか。
 ☆ 《想定する》あるいは《その想定したもの――すなわち非在なる神――を受け容れる》というのは 人間の側の意志行為です。
 
 つまり 意志行為であり合理性において検証しうるところの経験行為であるかぎりで その人間が 《主体》です。このことにマチガイはありません。

 問題は 想定したものが 経験行為なる世界を超えているというかたちだということにあります。

 経験事象としての《存在》と そして経験事象を超えている《非在〔としての存在 という言い方もされています〕》とを今度は 照らし合わせるわけです。

 つまりは 経験行為の主体たる人間の想定したものが 経験行為を超えておりそこにはたらく経験則によっても縛られない自由な場だというとき どのようにこの《人間と神》とを照らし合わせるか?

 少なくとも 非在なる神を――想定が成ったあとでは―― 《客体》とは言えない。人間が主体であることが消えるというのではなく 主体的な意志行為によって想定されたそのものが(ここまででは まだ《客体》ですが) この世界における経験的な行為や事象を超えているというからには もはや《客体》ではあり得ません。客体であるなら 《感じるや考える》の対象に成り得るということです。成り得ない場として想定したのです。


 こういうカラクリをも持ちつつまたわきまえつつ人類は 神なる非在〔としての絶対存在〕を想定して来たわけになります。







 ですから
 ★ 神と言うのは名称に過ぎず、その本質は、想定し得た人類の能力そのものにあるのではないか。
 ☆ という前提のままには留まらないわけです。ここでは ミイラ取りがミイラに成ったのです。

 ミイラだと思っていたものが それを捉えようとして非在を《想定し得た人類の能力》をも超えているということになった。わけです。

 ひとは このようにおのれの能力ないし自然本性が有限なのであると知ることが出来たほどには かしこい。
 自分が想定し言わばこしらえたのだから その《産物》たる神よりは 人たるおのれのほうが すぐれている。とは見なかった。昔の人はそうは見なかった。いまの人間も よく考えるなら 同じなはずなのです。

 これが きよらかなおそれ としての非思考の庭(信仰なる動態)です。ものごころが着く前には これは聖なるあまえとしてありました。あまえは 手放しでは できなくなったので――つまり ものごころが着いて小賢しくなったので―― 畏れが生じました。

 この畏れがむしろ――《社会自然》なる状態にあってその生活の中ですでに人びとにおいて覚えられ持たれていたので―― 非在としての神を想定させたとも考えられます。単純に 神という言葉を持ち得たのだと。という順序で捉えるほうが 人間の自然本性にかなっている。とさえ思われるところです。

 この世についてのナゾが 何ものかへの――初めは あまえとしてそしてそれが やがて――おそれとして持たれていたという現実 これが先だと考えられます。つまり或る日ふと人間は 何かお遊びとしてのごとく《神》を想定しようとしたというものではないでしょう。





 ★ (今はあくまで一般の神概念について語っており、非在の神は脇に置いている)
 ☆ これが 順序がぎゃくなのです。《非在》なる神が 一般概念なのです。

 そこから 一神教なり多神教なり汎神論なり あるいは 人格神なり自然神なりさらには無神論なりが 出て来ているというだけのことです。

 非在なる特別の存在が 一般概念であるならば 神は《ひとつ》です。そのひとつの神が さまざまな《依り代(または 補助線)》として多神に成り得ます。汎神論も同じくです。

 人間や経験世界としての自然をも超えている神を 何とか仮りの表現で説明しようと思えば 擬人化して人格神として描いたり あるいは 自然のチカラに類似性を見てそのように描くというのは あとで生じたそれぞれの神学なのです。

 神と言えば 《非在》として想定された神しかありません。(英雄なる人間を神格化したりあるいは 自然のおそろしさをやはり神格したりすることもあり得ますが この場合こそが 人間という主体によって語られた客体としての神々の物語だとなります)。

 非在よりほかに非在は ないのです。そのまま絶対という概念をふくむものなのです。(《非知》というのも同じですが 今回は 非在という概念による説明です)。





 ★ だから神には人格があり、人としての正しい生き方を示唆したりするのも道理かと思われる。
 ☆ 神に人格を着せてその物語をつくる。これは あくまでも人間の作り話です。人為であり作為です。ただしその前に 神が想定されたこと これは 想定されるべく想定されました。非合理の場を想定したのですが その非合理(つまり 非在)をみとめることのほうが 総合的に合理的なのです。


 神は その作り話としては この上ない善であり正義であり慈愛であり全知全能だうんぬんとその属性が付与されますが またそうしてそこから《人としての正しい生き方を示唆したりする》とも言われていますが これらは 人間の願いであったり希望であったりするものです。つまりは 人為であり作為です。

 おのづから神は 人間の考える義と不義とを超えています。善悪の彼岸として想定されています。中立だとも言えるし 善人にも悪人にもひとしく慈愛深いとも あるいは エコヒイキするともそれぞれ人によっては見られたり言われたりするものです。要するに 人間とその世界を超えているという想定内容です。






 ★ 一方で、この世を超えてこの世を司る法としての神像というものが有り得、そっちの方が非在の神に近いのではないかと思われる。これは X としての神であり、科学が進んでも、常に存在する謎としての神である。
 ☆ 《 X としての神であり、科学が進んでも、常に存在する謎としての神》は たしかに非在としての神のことです。ただし げんみつには《この世を超えてこの世を司る法としての神像というものが有り得》るという見方は 中立の神本体から われわれ人間が考え出した神の属性としての物語です。

 そういうふうに人間は 仮りの説明として人それぞれにさまざまな《補助線》を引きます。それによって神に親しみたいということではないでしょうか。それも 信仰なる動態だと考えます。《非思考》ですが 仮りの説明としては 思考を大いにはたらかせているようです。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかしながら私はここでも疑問を持っている。それは、果たしてその謎を神と呼ぶ必要はあるのだろうかという疑問である。謎は謎と呼べばよい。そう、思う。
 であるから、神とは何かと問われれば、私は、人類の想定した、理想の人類の型式の一つ、と答えたりすると思う。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これにつきましては おっしゃることと同じような中身のやり取りをすでにしました。:

 ◆ (回答No.2) ~~~~~~~~~~~~~

 仮に「アンダースタンド」と、言ったら。

 ☆☆ (そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~

 そうなれば このような合理的で妥当性のある定義にもとづく議論が 神や信仰をめぐっておこなわれて行きます。

 そして マチガイであるシュウキョウは 徹底的に批判されます。自己解体にまで持ち込みます。


 ふつうの信仰がふつうにおこなわれるようになれば そのときには人びとはもはや いちいち神がどうのこうのといった神学の議論は必要がなくなります。


 現実の生活上の課題にみなで力を合わせて 集中して取り組んで行くようになります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おそらく数あるブディストの内に一人だけ 親鸞がこれをめざしました。ブディズムから自由な地点のことです。(蓮如が これをまた ほかの宗派のブディストたちと同じ平板なつまらない次元に落としました)。

お礼日時:2014/10/31 11:23

「質問趣旨に反論」←反論も何も・・・書いてる意味すら判りません・・



あなたが現在の状況が 復帰歴史の最終段階だって事を知らないのなら あなたの事なんか興味無いから 質問自体読んでません・・


じゃ( ´・ω・`)ノ~バイバイ
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この回答へのお礼

 そうですか。

 それを世間では 何と言うか 知っていますか?


 けれど 世間で何と言おうと われ関知せずでしょうか。


 まぁ 《独りよがり》と言うんですけれど。



 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/11/05 18:31

何が言いたいのか解からないが とにかく 今は あなたが神を信じていようが信じて無かろうが 神は そんな事 どうでも良い時期なので・・



復帰歴史成功に向けて 神も それに仕える人達も忙しいのです・・・
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この回答へのお礼

 ご随意にどうぞ。


 

 あるいは この質問は 神にかんすることなら扱う範囲に入りますから もっときちんと述べてください。

 ひととおりまとまったかたちで 述べて 質問趣旨に反論してください。

 そこから話に入りましょう。





 ご回答をありがとうございます。



 あぁ。あなたがたの描くようなシナリオは 神はあまり好きではないですよ。とはすでに述べてあります。

お礼日時:2014/11/04 13:11

>「人間の理性では」



矛盾をはらむ表現と思います。
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この回答へのお礼

 どのようにでしょう?

お礼日時:2014/11/02 19:58

>「敬虔さは この男でも女でも やはり人間であることに先立ちません。





そうですね。人間ですね。
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この回答へのお礼

 そうですね。

お礼日時:2014/11/02 18:53

こんばんは。




>「★ 「合理的」と「理性的」について、説明して頂きたいと思います。
 ☆ たとえば《よい》という言葉は その人がそれをのぞましいと捉え さらにはそれを欲することを言います。

 初めには そのような感覚が起きて あぁ よさそうだと感じまた思うわけです。

 その《よさ》について 理性は その中身を吟味します。人権はよい。主張してもよい。というとき むやみに訴えてよいのか? と疑問を投げかけさらにくわしい思考をほどこします。

 言いかえると 一般的に妥当であるのかどうか。その内容に 普遍性があるか? これを検証します。」

・・・「その《よさ》について 理性は その中身を吟味します。」
・・・「言いかえると 一般的に妥当であるのかどうか。その内容に 普遍性があるか? これを検証します。」

ほほう。「理性が「普遍性」を検証する」、私は懐疑的ですねえ。



>「一般に 《 A は A である》つまり《 B でない A は B ではない》という排中律を侵していないなら その内容は 妥当であると考えます。あるいはつまり a の原因からは a-1 が結果するのであって b は生じないといった因果関係にかんする経験法則 これに合致していれば 妥当である。

 排中律や因果律などの経験法則が 経験合理性をその内容として得られた知識です。

 理性的であることは この合理性を問い求めることです。合理性にもとづき ものごとを認識しさらにその対処策をもそこから考えて行きます。」

へえ。?


>「このように合理性を追究する理性ですが ただしという場合もあります。
 というのも なにしろ合理性というのは 経験合理性であるしかないからです。人間の思考力によって得られる普遍性でしかありません。
 経験世界として捉えられるものごとの範囲で 合理的であろうとしているだけですから。
 言いかえると このように人間の知性が有限であることをわきまえているなら この合理性をとうとびそれにもとづく人権を考えて行っても だいじょうぶ。ということになるかと思います。」

キター!てか。
イスラムのオエライ方も、言っておられます。
「人間の法は、人間に都合がいいものだ」


>「合理性に反することがらは いただけませんが それを超えているという場合・すなわち非合理なことを持ち出す場合 この場合は 《非合理ゆえに われ信ず》ということも ひとつには 言えるようなのです。非合理というのは 《とんでもないバカげたこと( absurdus )》を言います。

 すなわち 《非合理》の部分をもそれとしてみとめ含めた上での《綜合的な合理性》が 人間のふつうの知性である。という考え方が出来るのではないでしょうか。



へえ。
《非合理ゆえに われ信ず》ですか。

再び、言いますか。
「敬虔な女性の前では、どんな神父もタジタジである」
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 神父であることは 人間であることに先立つことはありません。


 その人間は 男と女とで出来ています。


 敬虔さは この男でも女でも やはり人間であることに先立ちません。

お礼日時:2014/11/01 08:51

この質問の《非在》は


~~~~~~~
非存在

《(ギリシャ)mē on》ギリシャ哲学の存在論で用いられる概念。存在しないこと、存在しないもの、あるものの欠如、思考の対象にならないものなど、存在のとらえ方に応じて種々の意味をもつ。非有(ひう)。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/184996/m0u/
~~~~~~~
ですよね。

ですから、
 ☆ § 3 《非在》とは 想定である
というのは、たぶん正しいんですよ。


ですが、《非在》みたいなことを言うと、
 「存在しないものが存在する」

 「存在でないものが存在する」
というパラドキシカルなことになってしまう。
《非在》を扱うためには、少なくとも
英語ですと《存在(existence)》ではなく《存在する(exist)》の意味を拡張しないとだめなんでしょう。
あるいは、《存在する》か否かを判断する外延を拡張するかしないとダメなんじゃないか。

いや、むしろ
「《非在》と《存在》とは階層が異なる」と考えた方がいいのかも知れませんね。


でも、これをやってしまうと、
万物や《有》を生み出す、中国の《無》や、インドの《非有・a-sat》みたいな話になってしまう可能性があります。
経験事象を越えており真偽を確かめる術がないので、どんなことでも言えてしまう。
まぁ、あまりに荒唐無稽な話、説は、説得力がないので、人々から顧みられることがないのでしょう。
したがって、生き残れるのは、必然的に、合理的なものになってゆくんでしょう。
「合理的」という語より、「説得力を有する」と言った方がいいのかも知れませんけれど。



☆ この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。
◇これについては、何とも言えませんね。
数学の虚数のように、《感じる》ことはできないけれど、自然界には存在しないけれど、これがどのようなものであるか定義すると───デッチ上げると言ってもいいです(笑い)───、アレコレ議論することができてしまう。
ですから、
人間は、五感で《感じられなく》ても、それを《考える》ことができちゃうんですよ。

実数はReal Numberで、虚数はImaginary Number。

実(げ)におそろしきImagine(想像)の力と言ったところでしょうか。
ですから、
観念としての神は、非常に強力に違いない(笑い)。



☆☆☆☆☆☆
《存在(exist)》は「○○は存在する」という動詞(述語)にはなれても、
これを名詞化し、《存在(existence)》として、
《存在(exsitence)》をあれこれ議論するのがそもそも間違いなのかもしれないですね。
あるいは、
主語なしで《存在》という語を使うことが諸悪の元凶なのかもしれない。
「存在とは何か」という哲学的問いがそもそもおかしいのかもしれない。

名前はど忘れしましたが、
確か
オーストリアかどこかの、エラい哲学者(?)・論理学者の誰かがこんなことを言っていたな。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 ですが、《非在》みたいなことを言うと、
  「存在しないものが存在する」
 や
  「存在でないものが存在する」
 というパラドキシカルなことになってしまう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いや これは そんなにむつかしいことではないと思います。

 つまり 有無や因果律にかかわる存在と そして非在としての存在とを区別すればよいわけです。

 仮りに後者を 《想定存在》とか《非経験存在》とか《ナゾの存在》とか《絶対存在》とか言い表わせば済むのではないでしょうか? あまり好きではないですが 《高次の存在》と言うと分かりやすいように思います。


 でも その場(チカラ)としての存在つまり神にあっては――有る無しを超えているからには―― その神とわれとの関係が具体的には有神論と無神論といった・しかも互いに同等の具体的な信仰の形態がみちびかれるというわけで そこまで言えば この存在は 経験存在とははっきりと別だと分かると思うのです。


 ◇ いや、むしろ / 「《非在》と《存在》とは階層が異なる」と考えた方がいいのかも知れませんね。
 ☆ あぁ これは先ほどの《高次の存在》と《ふつうの経験的な存在》との区別の仕方ですね。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 でも、これをやってしまうと、
 万物や《有》を生み出す、中国の《無》や、インドの《非有・a-sat》みたいな話になってしまう可能性があります。
 経験事象を越えており真偽を確かめる術がないので、どんなことでも言えてしまう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですけど これは必要悪でしょうね。《無 / 非有》は けっきょく《無い神》として捉えれば済みますし。

 擬人化された創造主といったおとぎ話が描かれるのは 仕方がないことだと思います。それほど害はないと思うのですけれど。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
   ☆ この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。
   ◇これについては、何とも言えませんね。
   数学の虚数のように、《感じる》ことはできないけれど、自然界には存在しないけれど、これがどのようなものであるか定義すると───デッチ上げると言ってもいいです(笑い)───、アレコレ議論することができてしまう。
   ですから、
   人間は、五感で《感じられなく》ても、それを《考える》ことができちゃうんですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては 案外分かりやすい説明が出来ると思います。

 上のわたしの説明は まだ舌足らずでして ですから詳しくは 《神は 感じるや考えるを超えているので 感じたり考えたりすることは出来ない。つまり 非在であるからにはさらに詳しく言えば 神は人間が――その主観におけるかぎりで――神を感じたり考えたりすることをもゆるしている》。と。《超えている》とは そういう意味であると。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《存在(exist)》は「○○は存在する」という動詞(述語)にはなれても、
 これを名詞化し、《存在(existence)》として、
 《存在(exsitence)》をあれこれ議論するのがそもそも間違いなのかもしれないですね。
 あるいは、
 主語なしで《存在》という語を使うことが諸悪の元凶なのかもしれない。
 「存在とは何か」という哲学的問いがそもそもおかしいのかもしれない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 例の実存主義の問う問題だと思います。実存は本質に先立つのだと。

 本質( Wesen )は 存在のことですね。実存は けっきょく《主語・主体つまり わたし》のことだと見ます。ということで手を打っておくことができるのではないか。



 こんなところでしょうか。

 あ_ほなさん及びあしさい888さんから 非在は 《想像力》に属しているのではないか? いくら想定したとしても 想像の世界におさまっているのではないか? というツッコミをもらいました。記憶にのこる経験でした。

 概念(けっきょく シルシですね。神のシルシ)は 想像(感性や理性)の世界に属しており そのシルシが指し示す先は・つまり非在なる神は 想像を絶する場(ないし チカラ)であるというかたちで いまのところ答えています。

お礼日時:2014/10/31 21:09

>《経験則から自由な場を想像した》ときその想像物は~神の仮りの説明物であると捉えるわけです。



神の仮りの説明物であると捉えることでどうして脳細胞を超えたと言えるのですか?

>単純に言って むかしの日本人が《かみ》と言ったときには ~ 文末まで

この説明が非在の定義は自己矛盾しているという指摘に対してどういった解決を齎すのかわかりません
自己矛盾はしてないと言いたいのですか?それとも自己矛盾を内包したままでよいと言ってるのですか?
主張を明確にした上で、主張の根拠を答えてもらえると分かりやすいです
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 神の仮りの説明物であると捉えることでどうして脳細胞を超えたと言えるのですか?
 ☆ 脳を初めとする神経細胞において捉えた《非在・非知・無限・永遠・不可変性・普遍性・愛・慈悲・義・・・》は 一方でその概念としては――《考える》の対象ですから―― 脳細胞つまり経験事象を超えていません。同じ次元のものです。

 他方では この経験事象に入るところの《概念・ことば・あるいは観念》は 《非在》なら非在なる神そのものではないわけです。《考えると感じる》とを超えた場として想定したと言っているのですから その想定が指し示す先にあるものそのものは ナゾであり続けていて これらの概念や観念ではあり得ません。概念を超えています。

 それは 永遠や無限が この世には存在しないしそれとして認識しうるものではないというのと 同じことです。でも 言葉はあります。言葉じたいは 脳細胞に属します。

   ∞ ÷ 3 = ∞

 こういう事態は 経験現実にはありません。あっても人間は認識し得ません。しかもこの数式の内容じたいは それは観念として 認識し得ます。――という事態が 総合的に起こっている。ということで 説明できませんか?


 概念は 脳細胞を超えていません。その概念は しかしそれが指し示そうとしているもの(ナゾ)についての仮りの理解であって そのほんものの神の代理表現であるに過ぎないものである。だから その神本体は 脳細胞を超えています。そのように想定したのですから。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~

   >単純に言って むかしの日本人が《かみ》と言ったときには ~ 文末まで

 この説明が非在の定義は自己矛盾しているという指摘に対してどういった解決を齎すのかわかりません
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 自己矛盾はしていないと言おうとしています。


 たとえば 雷は 神鳴りのことです。

 それでは その稲光や轟音が――それらは 経験事象であり思考や感性において認識し得ますが―― 神であるか? と言えば それは 神本体ではないという説明です。神の仮象であるという説明です。

 
  非在(非知)なる神本体・・・・・・・・・・・・その仮象(補助線)
  _________________________
  想像や思考のチカラを超えている――非在なる概念

  非経験の場――――――――――――わが心なる非思考の庭

  霊――――――――――――――――ヒラメキ(霊感・直観)

  神――――――――――――――――雷(神鳴り)

  --------------------------
  お化け――――――――――――――脳細胞・神経組織




 ちなみに 《かみ》という言葉も 仮りの説明物です。《かみ》という文字や発音やその意味内容(未詳ですが)が 神本体であるのではないわけです。ただ《かみ》という言葉で 神本体を指し示そうとしているだけです。

 脳細胞で説明物となっている概念は シルシです。神を指し示すシルシです。ここを通って行けば 神の国へ到りますよとでもいうようなシルシです。



 いま気が付きましたが 次の文章の中でひとつマチガイがあります。:
 ★★ (回答No.7) ~~~~~~~~~~~~~
 (2) 非在は想像力であり、かつ、想像力を超えたチカラだ という定義は自己矛盾してるため
 定義として成立しないと思うのですが、どうなんでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 《非在》は 人間の想像力ではありません。神をめぐって 人間の想像力がたどり着いた概念内容です。すなわち
 ★ 想像力を超えたチカラ
 ☆ です。ただし 厄介なのは(だから気づきませんでしたが) 《非在や非知や無限》といった概念そのものは 想像力という領域に属すものです。概念がシルシであり 指し示すものがあるというときの指し示されたものは 神のことです。(けっきょく概念によっては捉えられないのですが それがシルシとして指し示す先にあると想定された場です)。

お礼日時:2014/10/31 17:23

>と問うて そこまででは そのとおりである。

となります。
>ただし 後半の段階では 事情がガラリと変わって来ます。
>なぜなら 非在といったナゾを想定したところその内容は 《経験世界を超えている》というのですから。
>《感じるや考える能力としての脳細胞》をも超えているという想定だからです。
>人間の用いる想像のチカラで 《想像力を超えたチカラ》を想定してしまったわけです。

非在とは想像をする脳の領域であり想像力のことで、経験則から自由である
経験則から自由であることを経験世界を超えると表現するなら
この想像力(非在)は経験世界を超えているために脳細胞をも超えている
脳細胞を超えているのだから、想像力(非在)は想像力を超えたチカラだ

整理すると↑のような非在の定義が導けます
ここで疑問点が二つあります

(1)想像力は経験則から自由である想像をすることはできますが
それは脳細胞の働きであるため脳細胞を超えているとは言えないんじゃないですか?

(2)非在は想像力であり、かつ、想像力を超えたチカラだ という定義は自己矛盾してるため
定義として成立しないと思うのですが、どうなんでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



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 (1) 想像力は経験則から自由である想像をすることはできますが
 それは脳細胞の働きであるため脳細胞を超えているとは言えないんじゃないですか?
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 ☆ ええっとですね。

 そこは ずるがしこい人間のことです。ちゃんと抜け道を見つけました。

 すなわち 《経験則から自由な場を想像した》ときその想像物は――すなわちそれは 何らかの概念です(つまり 非知なら非知 非在なら非在という概念です)は―― 《非在》なる神本体ではなく 神の仮りの説明物であると捉えるわけです。


  非在(非知)なる神本体・・・・・・・・・・・・その仮象(補助線)
  _________________________
  想像や思考のチカラを超えている――非在なる概念

  非経験の場――――――――――――わが心なる非思考の庭

  霊――――――――――――――――ヒラメキ(霊感・直観)


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  お化け――――――――――――――脳細胞・神経組織





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 (2) 非在は想像力であり、かつ、想像力を超えたチカラだ という定義は自己矛盾してるため
 定義として成立しないと思うのですが、どうなんでしょうか?
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 ☆ だいたい 上の(1)のやり取りの中で触れ得たかと思います。

 単純に言って むかしの日本人が《かみ》と言ったときには 《人間ではない》という捉え方でした。

 (神が 《うつしおみ(現し臣)》の姿にあるとは思えなかった。ただしその後 《明つ神・アラヒトガミ(現人神)》という概念も造られました)。


 すなわち《伝統》としては 生きて神であるということはないと受け取られていた。

 すなわち 生きた経験的な想像力で 非経験の場(非在なるチカラ)を想定しました。


 たとえばこうです。
 《無限》という概念は 概念としてありますが――二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるという概念内容はありますが―― それは現実ではありません。経験世界には 無限はありません。

 《永遠》に生きた人などは ひとりもいません。つまり 《永遠》は 概念としては人間の想像力によって持ち得ていますが それは経験事実ではありません。人間には 理性によっても感性によっても 永遠を捉えることは出来ません。

 ただし 概念として・すなわち無限=永遠なる本体の仮りの説明物としては 人間のあいだにも共通して持たれています。

 つまりは 無限=永遠は 非在や非知と同じく 神を理解するための補助線です。

 定義における概念そのものが 神の本体ではないということ。ここが ミソです。

お礼日時:2014/10/31 15:33

>世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった


>因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。

自由な場というのは、想像が行われる脳の領域のことで、チカラというのは想像力のことを
言ってるんじゃないですか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ここに提出された疑問ないし哲学の主題につきましては ちょうど直前の回答No.5で やり取りをおこないました。

 あ_ほなさん曰く:
 ◆ (回答No.5) ~~~~~~~~~~~~~
 想定とは、その自由度はほぼ無限であるから、非在の神も、その無限の現れの一つの形容に過ぎない。むしろ主体は想定という能力を持った人類の方にあって、客体として想定された神は常に受動的であるのではないだろうか。神と言うのは名称に過ぎず、その本質は、想定し得た人類の能力そのものにあるのではないか。
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 ☆ これは なかなか複雑です。

 あらましは ふたつの段階に分かれます。初めに 神を想定する段階では 想定する意志行為の主体としてワタシ(人間)がいます。その結果も 概念や知識としては その主体的行為の生んだ客体です。つまり:
 ★ 〔* 想定されたところの〕自由な場というのは、想像が行われる脳の領域のことで、〔* 同じく非在として想定されたところの〕チカラというのは想像力のことを / 言ってるんじゃないですか?
 ☆ と問うて そこまででは そのとおりである。となります。

 ただし 後半の段階では 事情がガラリと変わって来ます。

 なぜなら 非在といったナゾを想定したところその内容は 《経験世界を超えている》というのですから。

 《感じるや考える能力としての脳細胞》をも超えているという想定だからです。

 人間の用いる想像のチカラで 《想像力を超えたチカラ》を想定してしまったわけです。

 人間の手のとどく対象としてのミイラを取ろうとして そのミイラ取りがミイラになった。わけです。



 これは なかなか複雑な主題です。問題です。

 どうなりましょうか?


 No.5でのわたしの返答を見ていただきたいのですが けっきょくはすでに人びとは 赤ん坊のときの聖なる甘えや そのあとの――ものごころが着いたあとの――きよらかなおそれを ナゾの何ものかに対して自然の内に持っていた。その現実から この非在としての神の想定をうながされた。のであって その想定のあとに この神が 人間の思考や想像の能力の内におさまるものだとは とうてい考えられなかった。そうは見なかった。のではないでしょうか?

 脳細胞も 神の依り代だとなります。のではありますまいか。(だから 人は誰もが アートマン(霊我)やブッダター(仏性)なる神の霊をやどすといった命題が持たれて来ます)。


 《感じる》という言葉では この神が 人間に近しいといった捉え方が あまり違和感を持たずにあり得ているようですが げんみつに考えるなら この《感じる》をもとうぜん超えているのが 神です。

 神は ひとの知覚を超えているゆえに ひとは自由にあるいは勝手に おれは神を見た・神の霊を感じるうんぬんといった発言をすることがあります。非在として遍在だと推測されるゆえに 《〔ひとの〕感じる神 ( le Dieu au coeur )》という捉え方が それは自然な感覚だと思われるかのように 提出されています。

 げんみつには それは 神なる本体ではなく その仮りの依り代(補助線)を感じたということなはずです。主観は 主観内におけるかぎりで 自由であり ゆるされます。





 じっさいの具体的な問題がさらに人によってさまざまに出て来るかと思われます。ですが この非在としての神の想定 ということが一般理論として有効であると考えています。

お礼日時:2014/10/31 11:51

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