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 § 1 不在と非在

 たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。

 けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。

 すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。

 ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?


 § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる

 在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。

 さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。

 では 《非在》とは 何のことか?
 感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?

 
 § 3 《非在》とは 想定である

 《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。

 世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。

 この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。

 あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。

 《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。



 § 4 《非在》という想定が 神のことである

 《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?

 ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。

 ここにもあれば 同時にあそこにもある。

 という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。


 § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。

 非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。

 この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。

 出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。

 それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。


 § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。

 この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。

 ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。

 だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。

 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。
 すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。

 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。


 § 7  信仰とシュウキョウ

 《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。

 § 8 この神をどうして理解できないのか?

A 回答 (14件中11~14件)

>「現実の生活上の課題にみなで力を合わせて 集中して取り組んで行くようになります」



なるほど。
「みな」と言ったら、約30億人、ということですか。




「合理的」と「理性的」について、説明して頂きたいと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 「みな」と言ったら、約30億人、ということですか。
 ☆ そうですね。たとえば50人の学級があったとします。(むかしは 一学級の生徒はこのくらいいました)。

 教師をもふくめて学級で何か行事をおこなうときに それは《みな》で決めるのですが これはおおむね《誰もが納得するような内容を――最善の策でなくても――えらぶようになる》ことを意味します。そういう意味での《みな》です。社会についても 同じくです。




 ★ 「合理的」と「理性的」について、説明して頂きたいと思います。
 ☆ たとえば《よい》という言葉は その人がそれをのぞましいと捉え さらにはそれを欲することを言います。

 初めには そのような感覚が起きて あぁ よさそうだと感じまた思うわけです。

 その《よさ》について 理性は その中身を吟味します。人権はよい。主張してもよい。というとき むやみに訴えてよいのか? と疑問を投げかけさらにくわしい思考をほどこします。

 言いかえると 一般的に妥当であるのかどうか。その内容に 普遍性があるか? これを検証します。



 一般に 《 A は A である》つまり《 B でない A は B ではない》という排中律を侵していないなら その内容は 妥当であると考えます。あるいはつまり a の原因からは a-1 が結果するのであって b は生じないといった因果関係にかんする経験法則 これに合致していれば 妥当である。

 排中律や因果律などの経験法則が 経験合理性をその内容として得られた知識です。

 理性的であることは この合理性を問い求めることです。合理性にもとづき ものごとを認識しさらにその対処策をもそこから考えて行きます。



 このように合理性を追究する理性ですが ただしという場合もあります。
 というのも なにしろ合理性というのは 経験合理性であるしかないからです。人間の思考力によって得られる普遍性でしかありません。

 経験世界として捉えられるものごとの範囲で 合理的であろうとしているだけですから。

 言いかえると このように人間の知性が有限であることをわきまえているなら この合理性をとうとびそれにもとづく人権を考えて行っても だいじょうぶ。ということになるかと思います。

 合理性に反することがらは いただけませんが それを超えているという場合・すなわち非合理なことを持ち出す場合 この場合は 《非合理ゆえに われ信ず》ということも ひとつには 言えるようなのです。非合理というのは 《とんでもないバカげたこと( absurdus )》を言います。

 すなわち 《非合理》の部分をもそれとしてみとめ含めた上での《綜合的な合理性》が 人間のふつうの知性である。という考え方が出来るのではないでしょうか。

お礼日時:2014/10/31 09:57

Bsama!

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この回答へのお礼

 Ksama !

お礼日時:2014/10/30 22:35

>「この神をどうして理解できないのか?」



仮に「アンダースタンド」と、言ったら。
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この回答へのお礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。


 そうなれば このような合理的で妥当性のある定義にもとづく議論が 神や信仰をめぐっておこなわれて行きます。

 そして マチガイであるシュウキョウは 徹底的に批判されます。自己解体にまで持ち込みます。


 ふつうの信仰がふつうにおこなわれるようになれば そのときには人びとはもはや いちいち神がどうのこうのといった神学の議論は必要がなくなります。


 現実の生活上の課題にみなで力を合わせて 集中して取り組んで行くようになります。

お礼日時:2014/10/30 22:34

B様、こんにちは。




>「ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。」

じゃあ、どうして、人間が表現し(得)たのか?


>「だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。

 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。
 すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。」

へえ。
それじゃあ、「教会」の立場は、どうなりますか?
(「矛盾だらけ」、だったのではないですか?)


>「《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。」

仮に、辞書を編んだとして、((1)~)、(8)くらいには、してもいいよ。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ じゃあ、どうして、人間が表現し(得)たのか?
 ☆ たとえば 《無限》という概念を人間は想定し得ました。二で割っても三で割っても その商がやはり無限であるという――そういうものは現実にはないはずですが――概念です。

 あるいは 人間は誰ひとりとして《永遠》に生き続ける者はいません。けれども この《永遠》という概念を想定し得て これなどは日常すでに何気なくしきりに用いています。

 神も同じことです。永遠も無限も 神の属性だという想定です。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 へえ。
 それじゃあ、「教会」の立場は、どうなりますか?
 (「矛盾だらけ」、だったのではないですか?)
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どういう立ち場ですか?

 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~
 § 7  信仰とシュウキョウ

 《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というときの《シュウキョウ》が 《教会の立ち場》でしょう。
 
 ★ 「矛盾だらけ」
 ☆ ですよ。いまも。




 ★ 仮に、辞書を編んだとして、((1)~)、(8)くらいには、してもいいよ。
 ☆ ん? では ぜんぶではないのですか?

お礼日時:2014/10/30 22:30

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