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忠臣蔵で悪役となってますが地元・愛知では名君としての評価を受け、逆に浅野内匠頭は短気で世間の疎い殿様という一説がありますが地元愛知や赤穂の人たちの評価はどんなものでしょうか、またそのあたりに詳しい人、赤穂浪士は脚色されたものなのか、それとも事実に忠実に基づいたものだったのでしょうか?

A 回答 (6件)

現在に伝わる赤穂浪士の話、「忠臣蔵」とは人形浄瑠璃の話として創作された「仮名手本忠臣蔵」を元に、その後歌舞伎の題材としてズ~と伝わったものであり、その話の中のかなりの部分は創作された話が多いようです。



事実としては浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「江戸城 松の廊下での刃傷事件」とその翌年に起きた赤穂浪士達による「吉良邸討ち入り事件」という衝撃的な事件は事実のようですが、そこに至る間の様々な小さな事件等はかなりフィクションが多いようです。

さて、質問の吉良上野介の地元の評判ですが、土木工事を積極的行なう等々、評判は非常に良く名君といわれていたようです。
今でも地元の人は上野介のことは悪く言わないようです。
逆に浅野内匠頭はさほど評判が良い人ではなかったようです。

この二人が何故あのような事件を起こすことになったのか?
原因として塩の製法を教えなかったためだとか、浅野の奥方に対して吉良が横恋慕しただとか様々言われていますが、実際にはこの原因さえもはっきりしたことが解っていないのが現実です。

後世の我々は事実を元にした創作物語である「仮名手本忠臣蔵」があまりにも有名だったために、この中の話があたかも全て史実であるかのように思い込んでいる状態です。
しかしながら、「仮名手本忠臣蔵」は当時の徳川幕府に対して正面から批判的な物語を上演することが不可能であった為に、時代設定を徳川時代よりずっと前の足利時代としてさらに登場人物も例えば大石内蔵助⇒「大星由良助」として全く違う名前で上演されています。
しかもこの「仮名手本忠臣蔵」が人形浄瑠璃として最初に上演されたのは実際の討ち入り事件から約50年後のことであり、下手をするとお上から上演中止になってしまう状況でしたので、物語としては非常に面白くできているのですが、反面史実としてどうなのかとなるとかなりの部分が脚色されていると判断されます。

現代の歴史小説でも宮本武蔵には「お通」という女性が必ず登場しますが、史実としては武蔵の回りにこのような女性の存在は無かったといわれており、「お通」は作家である吉川栄治の創作だということは有名ですね。
作家は単に史実を記録するだけでは小説としては全く面白く無いものになってしまう為に史実を元にある程度フィクションを混ぜていくものです。
ましてや幕府にお咎めを受けずに上演するために忠臣蔵の話は細心の注意を払って完成したもののようですので、今更事実がどうだといわれても誰にも本当のことは解らないですね。

将来的には水戸黄門が助さん・格さんをお供にして日本全国を漫遊していたという話も一般に信じられるようになっているかもしれないですね。
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この回答へのお礼

mn214様、回答有り難うございます。

この三百有余年の間に話があっちいったりこっちいったりして今に至ってるのですね、吉川栄治も司馬遼太郎も主人公もさることながら脇を固める人間達が魅力的ではまりますね、現実に色付けすることでも忠臣蔵も人気を得たのですね!

お礼日時:2005/04/19 12:47

http://www.town.kira.lg.jp/toppage/index.html

吉良町という町は実在しており、尾崎士郎の同名の小説を下敷きにして作られた「人生劇場(作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男 唄:楠木繁夫)」で有名な「吉良の仁吉」の故郷でもあります。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-sen …
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この回答へのお礼

98Kinさん、勉強なるHPご紹介有り難うございました。
ちゃぁんと吉良町のHPでは立派な名君として紹介してありますね。
赤穂市と姉妹都市というのは救われた思いがします(笑)。

吉良の仁吉の吉良なんですね、蒲郡の近くでしたか。

お礼日時:2005/04/20 21:51

井沢元彦の小説「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」を読みました。

あくまでも小説ですが、氏の圧倒的に豊富な資料を「これでもか」と言うぐらい畳み掛ける推理展開に「そうだったのか!?」と思わせる素晴らしい作品でした。
小説なので内容をあまり詳しくは述べられませんが
●浅野の勅旨接待饗応役は2回目であり、浅野が礼儀作法を知らない訳が無い
●勅旨を迎えるのに将軍は当日朝に風呂に入って身を清める事までしている。迎えるのに落ち度があれば浅野一人に責任を被せるだけでなく教育係の吉良も同罪であるのは明白。よって浅野に対する嫌がらせは完全にフィクションである
●刃傷事件で、なぜ浅野は切腹、吉良はお咎めなしの、片手落ちの裁きなのか
●なぜ、ろくな取り調べもせずその日のうちに、大名ともあろうものが庭先で(建物内ではなく)切腹させられると言う軽い扱いを受けなければならなかったのか
●仮名手本忠臣蔵に隠された深い意味。ストーリーの中にある事実が隠されている

この本は処分してしまい手元に無いので思いつくままにあげてみましたが、これを読めば忠臣蔵の謎が一挙に解決できます。
小説の形体を取っていますが氏の歴史物は資料に基づいて書かれていて充分事実であろうと納得出来る物です。
私も中身をここで書いてしまおうかと迷ったのですが、マナー違反なので詳しくは本を御覧になってください。
中途半端な回答ですみません
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この回答へのお礼

tabisukeさん、回答有り難うございます。
聞いてみるものですね、勉強なりますわ。

どうやらどちらが良い悪いよりも幕府の裁き方に問題あったようですね。

>詳しくは本を御覧になってください。
ハイ!興味津々です。

お礼日時:2005/04/20 21:29

時々吉良に遊びに行きますが、地元では今でも評判のよい殿様です。


地元のお酒などにも彼を慕って「吉良の赤馬」という名前のものがあり、ローカル局ではコマーシャルも流れるほどです。
この赤馬の由来は、赤い馬に乗って領内の治水事業を見て回ったことにあり、名君の証でもあります。
他の方も書いてますが、吉良にとっては運の悪い事件で、勅使の接待は吉良家のような高家(由緒ある旗本)が指導して行うことになります。
お茶やお花の師匠さん同様、幕府からいただく俸給以外に掛になった諸大名からお礼をいただくのが普通で、失敗すれば連帯責任になり、吉良家が指導不行き届きで叱責を受けますので、ワザト失敗させて恥をかかせるということは考えられません。
また浅野内匠頭自身2度目の役ですから、何も判らない田舎大名でもなく、浅野家側が礼を失した態度をしたので、吉良がいらついたということかと。
また彼の伯父さんの内藤和泉守忠勝も増上寺刃傷事件での加害者ですから、ちょっとしたことでかっとなって切りつけるのは血筋とも言われてます。
いずれにせよ吉良では同情論のみで、悪く言う人間はいません。
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この回答へのお礼

98Kin様、地元に近い人の回答有り難うございます。

>時々吉良に遊びに行きますが、
えっ!「吉良」という地名あるのですか?吉良上野介から来てる地名なんですか?無知なのでそれは知りませんでした。

忠臣蔵もまた何百年か経って世の中の考え方が変わると違う評価になるのでしょうね、戦時中楠木正成が皇国の象徴とされていたように。

お礼日時:2005/04/19 12:55

私は池波正太郎のファンなのですが、彼は忠臣蔵にはかなりの興味を持っていて、いろいろ調べた史実を元に幾つかの作品を書いています。


ダイジェストでお伝えしますと、

・浅野内匠頭は、ケチで、自分の取り巻きを大事にするような凡庸な殿様であった。(大石のような人物を重用していなかったような)
・性格はときに癇癪を起こしたようで、男色家であった。(妻の実家では嫁いだことが不幸であった、との記録が残っている)
・火消しが大好きで、陣頭指揮を取ったり、演習も良くやっていた。

・吉良上野介は、地元では自愛に満ちた名君として誉れが高かった。
・政治力にも優れ、実施を上杉家の殿様として送り込んでいる。
・物事ははっきり言うところがあった。

池波氏の解釈では、理由は癇癪であって、問題となったのは幕府が不公平な采配を下したことにあった。
お家再興を果たすことででそれを認めなかったために、大石は世に喧嘩両成敗を問うために討ち入りをすることになった、といった感じです。

吉良はいい迷惑だったようです。
何か文句言われたからといって、それで殿様ともあろうものがカーっとなって刃傷沙汰では、軽率の謗りは免れない。
喧嘩両成敗で済めばまだ被害が少なかったと言えたかも。
(両者切腹までは行かなかっただろう、と私は思います)

幕府の裁定が間違っていたことが原因なのに、面白おかしく勧善懲悪になってしまったようですね。
まあ大衆向けの劇なのだからしょうがないでしょうか。
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この回答へのお礼

mori_izou様、回答有り難うございます!

…私の想像以上に浅野内匠頭はしょっぱいお方だったのですね、男色家だったのですか!!彼が存命中は内蔵助以下、側近部下は苦労してたのでしょうかね?新たに疑問湧いたりします。

お礼日時:2005/04/19 12:39

>赤穂浪士は脚色されたものなのか、それとも事実に忠実に基づいたものだったのでしょうか


赤穂の浪人による吉良邸討ち入り自体は、史実にある出来事ですが、一般的に演じられている忠臣蔵の中に出て来る話は、脚色されたことが沢山含まれてれています。
これは江戸時代に発表された、仮名手本忠臣蔵が広く一般に知れ渡ったために、そちらの方が物語性がある事もあり多く知られるようになったようです。
映画やドラマの忠臣蔵を見ていても、
吉良邸討ち入り前に、浪士全員が蕎麦屋?の二階に討ち入り道具を携えて集まり、身支度を整えて出かけているが、50人近くが道具を持ち寄れる広間がある店が合ったのか?
吉良邸討ち入り時に陣太鼓を叩いているが、闇討ちを仕掛けるのに"戦場で指揮をするために使う"陣太鼓を叩くのか?
など疑問に思うシーンが定番で描かれています。
また、討ち入る前に三次浅野家下屋敷を大石が訪れ、瑤泉院に別れを告げるシーンも良く描かれているけど、史実ではそれが確認されていないし・・・(従って、討ち入りの血判書を吉良の間者が狙う事も怪しい・・・)、大名家にお預けになった浪士の刀を調べたら、錆びていて抜けない物も合ったとされているが、討ち入り時の浪士の格好はそれ程貧しそうに見えない・・・等々、実際に史実と伝えられている事と合わない描写も多くあるようです。
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この回答へのお礼

kuma56さま、回答有り難うございます、
どうしても芝居仕立てにするならデフォルメ利かさないと面白くなりませんものね、

>闇討ちを仕掛けるのに"戦場で指揮をするために使う"陣太鼓を叩くのか?
笑ってしまいました、叩くと起きてしまう(笑)。

お礼日時:2005/04/19 12:34

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