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趣味で江戸時代の大名家のもろもろを調べている者ですが、困っ
ており、また不思議に思っていることがひとつあります。それは、
個々の家(家系)としての大名家を何と呼ぶか、特に、同姓の分家
や別家などをどう識別して個々の「家」を表現していたかという
ことです。
現在では、一般的には「加賀藩前田家」のような「地名や藩名+
○○家」で表現されているようですが、例えば松平家をはじめ、
本多家、酒井家などの譜代大名の場合、同姓の分家別家が多い上
に頻繁に転封もあり、同姓の他家が別の時期に同じ藩を領有する
ようなこともあり、個々の大名家の識別をする場合に、単純に
「藩名+○○家」だけでは上手くゆきません。
また、当時は「酒井雅楽頭」のような、「姓名+官名?」での表
現も広く行われ、それが半ば家名として定着しているような例も
あるにはあります。しかし、制度としては同姓での同官名は禁止
するなど、類似家名による混乱回避をしていた程度だったようで、
必ずしも「家」の「名乗り」を幕府が承認し、それを代々継承す
る制度という訳でも無かったようです。

という訳で、個々の家(家系)としての大名家を何と呼んで識別す
るかは、家の「格」が世襲であった江戸の当時こそ、大きな問題
であったはずだと私は思うのですが‥ どうもそれらしきものが
見当たりません。まさか、藩主一代ごとに格付を決めて、家格の
概念が無かったというような筈もないし‥
(ちなみに、明治以後は爵位での区別が付けられます。宗家は○
○伯爵家、分家は○○子爵家とか。本人たちがそう名乗ったかど
うかは別にして)

皆さん、どう思われますか。

A 回答 (3件)

 お礼わざわざすみませんでした。


 氏姓、名字(苗字)については、詳しくありませんが・・・。
 大きな流れとして、最初はいわゆる本姓(源平藤橘・・・など)だけであったものが、分家などで住所地や所領地の地名を名字として名乗るようになって、名字がどんどん増えていった。そして名字のウェイトが増し固定化するようになり、明治になって庶民も名字を持つようになって、それを姓とし本姓がどっかへ行っちゃったということだろうと思います。
 その大きな流れの中で、中世は名字がどんどん増えている時期で、江戸時代になって固定化したと考えられます。
 大名家にも同じ名字の家老家があるなど、名字は一族意識や連帯意識、名誉の象徴のようになっていった気配が感じられます。
 まあ、徳川幕府はいろいろな手を使って、諸大名を統制、懐柔していたと思います。気配りや気遣いも細やかにして。
 島津さんなど外様の大大名は徳川氏の臣下だとは思っていないでしょう。将軍家といえども、元は同格だ、たまたま運よく政権を握っているだけだ、将軍から領地を拝領したわけではないわい・・・、内心はこんな感じだっただろうと思います。
 そして実際勢力も強いですから安易に手をつけるわけにはいきません。手をつけやすい手ごろな所をコチョコチョいじくって、大名の統制に利用したんだろうと思います。
 われわれ歴史好きの者は、つい徳川300年を縦から一気通貫で見てしまいがちになりますが、当時の人はその時代を横に見るわけですから、そんなにややこしくなかったと思います(NO.1さんのご見解と同じ)。
 
 爵位については、公文書の署名ではこうやって↓キチンとやります。
 明治憲法発布の詔書の副署
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F: …
 維新の元勲がずらりですね。
 終戦の詔書の副署
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/syuuseno …
 終戦時はもう華族さんの大臣はほとんどゼロ状態ですね。
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この回答へのお礼

重ねてご返答頂き、有難うございます。以下は、私の単なる感想です。

確かに、職務も世襲で昇進コースもほぼ固定、婚姻関係も決まった家
同士で固定的に繰り返されるのがけっこう多い時代ということで、人
間関係も今の我々以上に狭い範囲の、閉じた世界で暮らしていたと考
えるならば、感覚としては、社宅の奥さま連中が旦那全員の所属と昇
進経過を良く覚えている、と言うような程度のものだったのかもしれ
ませんね。
但し、人事を発令する側の特に事務方では、大名・旗本等の家系につ
いて事典的なものが無ければ実務に差し障りがあると思うので、どう
やって管理していたのかなと、しつこく考えてしまいます。
新井白石は藩翰譜を作る際に、何とも思わなかったのかな。暇になっ
たら「折りたく柴の記」でも読んでみて、白石の愚痴や弱音でも書い
ていないか探してみようと思います。(笑)

江戸時代に大名家の新姓分立が行われないのは、ご指摘の通り、一族
意識とかの関係だろうなと、私も思っております。豊臣「氏」の押付
けに始まり、徳川・松平「姓」の許可と使い分け、藤堂家などでは血
族でもない家老などにも藤堂を名乗ることを認めていた事例など。
個々の家の名乗りとして発生した家名(姓・苗字)が、かつての「氏」
のような「一族」の代表名に転化したような観がありますね。
また、徳川・松平や藤堂家内の藤堂姓などは「家格の標識」のような
ものにもなっていますね。
更に、関ヶ原以後に幕府からは独立大名とされた吉川家を、毛利家宗
家としてはあくまでも旧来のまま分家として扱ったような事例もあり、一族としてのこだわりが覗い知れます。
この家・氏・姓などは時代によっても用例が異なる為か、誤解誤認も
起こしやすく、いろいろと見解も分かれているようですので、深入り
は避けますが‥

お礼日時:2007/01/20 19:31

 幕府が交通整理(名乗りの承認)をしていたと思います。


 300諸侯もあってややこしくてたまらんですが、きめ細かく微妙に統制していたと思います。下のURLが参考になるかも知れません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …
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この回答へのお礼

URLの紹介、ありがとうございました。
基本的には各大名家で先祖代々とかの官名を名乗ったが、競合し
たり上下関係に問題が起こる場合に備えて、幕府でも交通整理の
ルールを定めた上で、その時々で許可したり変更させたりしてい
た、ということのようですね。
世襲制にもかかわらず、領地がころころ変わるだけでなく、家名
も固有のものがないということが、ますます不思議でなりません。
更に、武家でも公家でも、中世より「家」が成立する中で、新た
な家が分立する際には新たな家名(姓)を付けていたのに、何故江
戸時代の武家、それも大名家では新姓の創出がストップしたのか。
公家では戦前まで新姓創出が続いているし、公家から分立した旗
本家も新姓を名乗っているだけに、ますます不思議です。

お礼日時:2007/01/20 02:41

加賀藩前田家の場合公式には



松平加賀守
あるいは、その時その時の位階によって、松平中納言とか

となります。

現代の私たちからは、わからんじゃん。
と思えますが、同時代の人間にとって、○○会社 第一営業部長。と、言えば、間違えることはありません。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、確かに、会社+役職に似ているといえば似てますよね。
その会社も、頻繁に名称変更をしている、といったような状態で
すね。同時代の人にとってはそれが当たり前で、違和感を感じて
いなかったのかもしれませんね。

お礼日時:2007/01/20 01:38

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