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薩長は会津を攻め落とした後、京都での恨みからさまざまな嫌がらせをしたとされます。それなら新撰組は一番のうらまれ役だと思います。それなのになぜ斎藤一は薩長の政権下で警官になれたのでしょうか。確かに剣の腕はあったでしょうが、四民平等で武士が大量に失業したので腕のいい人ならたくさんいたと思うのですが?

A 回答 (3件)

当時の政府内の藩閥による勢力図はというと




薩摩→海軍

長州→陸軍

土佐&肥前→官僚・その他

となっています。さて彼が警部補になったのが明治10年。その頃には西郷隆盛が薩摩へと退去しており反乱がいつ起こっても不思議では無い時代でした。予算や政治的な理由で陸軍を増強出来ない上に既に士族反乱で最強にして最大。そして最後になるであろう戦い(実際に反乱扱いの「乱」ではなく戦役の「役」が使用されています。最近では西南戦争と表記されてます。)が約束されている状況です。

そこで政府は考えました。忠実で精強。実戦経験豊富で人数が確保可能な人材は居ないだろうか?とね。常識的に言ってそんな都合の良い事がある訳がありませんでしたが世の中って捨てる神居れば拾う神あり。10年前の戊辰戦争で敗れた旧会津藩士を始めとした旧奥羽列藩同盟の士族を登用することを思いついたのです。彼らの強さは直接戦った政府の当事者は熟知していますし人数的にも相当なものです。問題は忠誠心でしたがこれも問題ありませんでした。彼らは薩長に対しては確かに反抗的かもしれませんが政府(天皇)に対しては忠実であるからです。これは幕末までの朱子学の普及で尊王意識が高まっている事から分かります。更に会津は朝敵として汚名を被せられ名誉回復と差別待遇改善の為に働きたがっています。更に重要なのはそんな境遇に陥れた薩長(この場合は薩摩に公然と復習できる機会でした。)に一矢報いたいとさえ考えていますから旧会津藩士らの警察官登用に踏み切ったのです。

この場合警察官は陸軍の戦力を補完する意味で戦場に投入されました。実際に彼らの強さは凄まじく戦闘に慣れていなかった徴兵主体の陸軍部隊では困難な任務も遂行しています。会津藩は弱くて敗れたのでは無い。装備や政治情勢に敗れたのだと言うことを世間に知らしめたのです。
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1. 斎藤一は、戊辰戦争の過程で会津藩の一員となり、官軍への降伏、降人としての抑留、斗南への「集団流刑」に参加して「青森県士族・藤田五郎」となりました。

その資格で警視庁巡査に採用されたわけです。

2. 藤田五郎=斎藤一であることは、警視庁内では「知る人ぞ知る秘密」であったようです。
一方、新撰組に狙われた元「尊皇攘夷の志士」の生き残りは、明治10年位には最低でも県知事クラス、今の感じで言えば「年収1億円以上」の政府高官になっています。明治時代初期には、日本の産業は農業オンリーで、「民間の金持ち」は基本的にいません。今の北朝鮮のように、一番リッチな生活をできるのは「政府高官」で、その生活水準は一般庶民とは全く隔絶したものでした。

3. 現在でいう「月給20万円の巡査」クラスの藤田五郎のことなど気にも留めなかったでしょう。即ち「新撰組元幹部が警視庁の下っ端でいることは既にどうでも良いこと」だったのです。一斉に失業した武士の立場からすれば、「月給20万円の巡査や小学校教員」でも十分な職だったわけですが。

4. 明治の中ごろに、政府高官になった元「尊皇攘夷の志士」を、一介の警官である藤田五郎が直立不動で警護していたのを「お前は斎藤一ではないか?」と高官が問い掛けたというエピソードがあったと思います。
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その時代は会津藩士の藤田五郎では?


今の時代みたいに戸籍もしっかりしていないし、写真やそもそも情報伝達の方法もないから、名前を変えれば簡単に別人で通ったみたいだし。
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