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鎌倉幕府が成立したあとは六波羅探題とかが京の警護をしてたみたいですが、その前は朝廷が自前でやってたわけですよね?
いろいろと役職があるようで、よく分かりません。教えてください。
それと、外国人で組織されていた部門があったと聞いたのですが、それは何というものですか?

A 回答 (3件)

奈良時代の700年代の頃は、前の回答者の方が回答なされているように五衛府がありました。

後に、授刀衛、中衛府、外衛府などができ、その後、組織が改変され、800年代には六衛府(左右・近衛府、左右・衛門府、左右・兵衛府)になっています。
この他にも、組織の改変や任務・管轄の変更等は度々あったようですし、時代によって他にも色々な別組織があったようです。

大雑把な役目で言えば、五衛府の場合、衛門府が宮城外郭、門の警備、通行人の検察をし、衛士府が市内の警備、兵衛府が天皇、内裏の警護等をしていたようです。

外衛府の外人部隊というのは、秦や漢から日本に移り住んできて帰化人となった人達で構成された部隊です。
また、中衛府は東国人で編成されたと言われていますが、その東国人というのは蝦夷の事ではないかという説もあります。

こうした外人部隊は結構、昔からあったようです。
雄略天皇(418年-479年)の時代には、九州の隼人で編成された久米部という部隊や、東国の蝦夷で編成された佐伯部という部隊が、宮門を守っていたと言われます。

こうした外国人の部隊が編成され守りに使われたのは、一般的に天皇や国の威光を示す為だと言われています。異国の者でさえ、兵として忠実に働いているという事は、天皇やこの国の徳が高く、素晴らしい国である事の証しであり、それは誇りであるという事を、民衆に示す為だという事だそうです。
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この回答へのお礼

詳細な回答、ありがとうございました。
それにしても秦や漢の人々というと、やはり外国人は厳重に分けられていたということですね。
東国人というと、当時の感覚では関東以北の人間ですかね?

お礼日時:2007/06/16 18:30

 律令制では五衛府といわれるものが宮城の警備を担当していたようです。

衛門府、左右衛士府、左右兵衛府のことです。治安はおそらく市の司と呼ばれる官職が担っていたと思われますが、ちょっとわかりません。
 武士の名前で多い○○衛門というのはこの役職の私唱なので、後世でも武士の名誉の仕事と考えられていたのでしょう。

 外人部隊の話は聞きませんが、一説によると平家は渡来人の一族であったという説もあるのでそれが混同して伝わったか、八瀬童子「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%80%AC% …」のような話が何かと混同したのではないでスカね。

この回答への補足

回答ありがとうございます。外人部隊については引き続き調べてみようと思います。

補足日時:2007/06/15 20:35
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この回答へのお礼

補足の所にお礼を書き加えてしまいました。すいません。

お礼日時:2007/06/15 20:38

京全体か、御所だけか、によっても話が違ってくるとは思いますが、すぐに思いついたのは後鳥羽上皇が始めた(と思う)北面の武士ですね。

御所の北に配置してたからその名がついたとか。ここから平氏が対等するんですよね。
それまでは飛び道具(弓矢)もなにも配置していなかったようです。

平安時代以前は軍事を司る役所は検非違使でしょうね。鎌倉時代にもありました。

大和政権では(すみません、京ではありません。でも京の郊外の政権もありましたので。天皇一代で遷都しましたから)大連を長官とする部署が警備を担当していたのではないでしょうか。

外国人で組織されていた部門とは初耳です。

この回答への補足

調べてみたところ、一時期だけ主に中国の人が勤務していた「外衛府」という役所があったようです。

今度はこれについての詳細をお願いします。

補足日時:2007/06/15 20:39
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