No.5ベストアンサー
- 回答日時:
まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。
政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。
経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。
宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。
最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。
纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。
No.6
- 回答日時:
他の方が言われているとおり、一冊の本が出来るくらい難しい問題ですが、試みに幾つかの要因を簡単に挙げてみたいとおもいます。
1、政治的理由
古代ローマは、
王政→貴族制(共和政)→帝政→東西分裂→西ローマ滅亡→東ローマ滅亡
というのが、大きな流れとなります。
で、王政と共和政の時期に領土をどんどん拡大していきます。
そして、共和制の末期にユリウス・カエサル(英語名シーザー)が、これ以上帝国は大きくなる必要はなく、防衛線を確定した後は防衛に徹するべしという方針を打ち出します。
そして、アウグストゥスが初代皇帝となり帝政へと移行します。(ただし、彼自身は皇帝とは名乗っていません)
で、この方針が歴代皇帝へと受け継がれていくことになります。
しかし、帝政初期こそその政治制度は機能していたのですが、徐々に動脈硬化という形で機能を低下させていきます。
そして、ついには次々と皇帝が変る政変が当たり前の時代がやってきます。
当然、そんな内紛を繰り返していては外の敵を押し返すなんて出来ません。
(因みに外の敵の多くはゲルマン諸部族)
で、ついにテオドシウス1世が帝国を東西に分け、息子に分け与えてからは、再び一つに戻ることはありませんでした。
テオドシウス1世自身は、東西に分裂させる意図はなく先例に習ったに過ぎませんが、結局、権力争いから再び帝国が一つに戻ることはありませんでした。
西ローマは、弱体し続ける一方であり、ゲルマン民族が次々と侵入して定着し自分たちの国を建てたり滅ぼされたりしながら好き勝手やられるという感じで、自然消滅していきました。
まぁ、歴史上では一応476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルスが廃位されたのをもって滅亡となっています。
東ローマは、元々裕福な地方でしたので(古代世界は西ヨーロッパは未開、東ヨーロッパが先進国でした)皇帝の中央集権化が進み、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)として1453年4月にオスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世に滅ぼされるまで続くことになります。
つまり、政治的には時代にそぐわず、カエサルのようなそれ(時代性)に対する有効な手が打てなかったのが原因かとおもわれます。
2宗教的理由
ローマの宗教は、もともと多神教でした。ギリシアの宗教(神様)を取り入れるといった感じでしたし、また支配した民族の宗教もみとめていました。
しかし、ユダヤ教は一神教であり故にローマ人を邪教の徒として忌み嫌っていました。
そんな中に、イエス・キリストが現れます。
彼によって、ユダヤ教がユダヤ人以外にも布教されるという形でキリスト教が形成されていきます。(厳密には少し違いますが)
つまり、一神教がギリシア人やローマ人にも布教されていくのです。
一神教なのだから、ギリシア・ローマの神様を否定します。
その結果、キリスト教一色となってしまいます。
この事が、ローマ人からローマ人らしさを亡くした原因だとする人もいます。
また、ギリシア・ローマの神様は「救い」を全面に押し出しませんが、キリスト教の神様は「救い」を全面に押し出してきます。
この事が、混乱期にあったローマにキリスト教が広まった原因とも考えられます。
3経済
ローマは一部の富めるモノと多くの貧民に分かれていったという指摘もあります。
そして、富めるモノは堕落し貧民はそんな支配者階級に嫌気がさしていった。それが、後の皇帝交代劇の底に流れている。
結果、帝国が混乱・弱体化し、そこを移住を余儀なくされたゲルマン諸部族に付け入れられた原因となったようです。
と、まぁ簡単に書くとこんな感じでしょうか。
長文失礼しました。
tyr134さん
すべての項目を書いてくださってありがとうございます。
わかりやすいです。
こんなにも長くありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
こんばんは。
ローマ帝国が滅亡した理由は研究する人の数だけあるといわれています、よってその原因はひとつだけにまとめることはできないでしょう。僕の個人的な意見では、ローマのなかに共和制や帝政初期にあったローマらしさが失われたからだと思います。
歴史的に言えばゲルマン民族の侵入を食い止めることができなくなったから滅亡した、ということになります。ただ蛮族の侵入は帝政期以前の共和制時代にもありましたし、ピュロス王やハンニバルの軍隊に何度もローマは大敗を喫してきました。にもかかわらず、ローマ人は不屈の精神でそうした外敵を退け最後には勝利してきました。しかし帝政末期のローマ人にはそのような不屈の精神を感じることができません。社会構成もローマ初期には農業を営む健全な中産階級が存在し、軍事力を担っていましたが末期には中産階級は消滅し自由のない農奴になっていました。また指導者の元老院もハンニバルとの戦争では指揮官として最前線で戦い死んだものですが、やがてそうした質実剛健さも失われ、ただの既得権益を守る集団と化し、以前のようにローマの危機に応じて率先して危険に身をさらすこともなくなりました。帝政後期のローマには社会のほとんどの面で、同じローマでも共和制ローマの頃とは変質しており、そうした中で帝国は他民族の侵入や中央政府への反乱の繰り返しの中で次第に分裂していきました。
vlaskoさん
…ローマ帝国が滅亡した理由は研究する人の数だけある…
そうなんですか…
私は理解できそうにないですね。困りました。
回答ありがとうございます。
No.3
- 回答日時:
これは専門家が書くと、一冊の本になってしまう大問題です。
私の知識の限りで書きます。
ローマは共和制の小都市から、地中海全てを支配する国家となり、その間、共和制から帝政に移行しました。帝政時代には愚帝もいましたが、当初はおおむね国家は安定してました。しかし、巨大化した軍隊や官僚機構にコストがかかりすぎて、重税や貨幣の改鋳を行ったので、商業は衰えました。地方は事実上ローマから独立した地主層が、伝統的な奴隷制とは異なる形で小作農階層を作り出していきました。最後には、東西ローマの分裂後、西ローマは、ゲルマン人の侵入で滅びます。
東ローマは西ローマよりずっと長く生き延びました。ただし、ローマを名乗っていても東ローマの領内に、イタリアのあのローマの都市はなく、東ローマ帝国は実質的にギリシア帝国になっていきます。公用語がラテン語からギリシア語に変わったのが良い例です。東ローマはゲルマン人から奪われた土地を取り戻し、最盛期を迎えます。宗教的には、西のカトリックとは別に、東方正教会と呼ばれるキリスト教の別宗門が成立し、東欧などで大きな影響をふるいました。しかし、東ローマも、やがて、ゲルマン人、スラブ人などに土地を奪われ勢力を縮小、イスラム圏との戦争が始まると、西ローマの伝統を継ぐカトリック教会に援助を求め、十字軍が結成されるのですが、十字軍は行く先々で略奪行為等を行い、東ローマを守ることにはほとんど興味を持っていませんでした。最後には、東ローマの首都コンスタンチノープルはオスマントルコによって制圧され、イスタンブールと改名されます。これをもってローマ帝国の時代は終わるのですが、東方正教会は今でも、ギリシアや東欧諸国で大きな影響力を持っています。
harepandaさん
回答ありがとうございます。
本になるほどの大問題なんですか。。。
まとめてくださってありがとうございます。
No.2
- 回答日時:
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