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一般に、目の前のリンゴは実際に「存在」していると考えられますが、三角形は実際に「存在」しているのではなく、概念として「存在」していると考えられていると思います。

では、分子は実際に「存在」しているのでしょうか、それとも、概念として「存在」しているのでしょうか? もし、分子が実際に「存在」していると考えるとすると、その根拠は何でしょうか? 三角形との違いは何なんでしょうか?

A 回答 (39件中11~20件)

人間の感覚で実在とするならばリンゴは実在するでしょう。


五感で感じ取れるものですから実在すると思われます。
分子の場合はフィルターを通してようやく視覚情報で
得ることのできる存在ですから実在するという意味で
リンゴと分子に違いがありますね。

五感で感じとったものを実在と定義するのなら
分子は実在ではない。
五感の中のどれかに一つでも感じ取れるものを実在
と定義するのなら実在している。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>五感で感じとったものを実在と定義するのなら分子は実在ではない。

何を以って「実在」と言うかという話だと思いますが、以下のように分けて考えられるように思います。

(1)自分か他人か?
 これは、自分が確認したのか、他人が確認したのかの違い。例えば、自分はブラジルに行ったことがないが、ブラジルに行ったことがある人はたくさんいるので、ブラジルは実在すると通常は判断する。というような意味です。私もこの判断に従っています。

(2)直接か間接か
 これは、自分であれ、他人であれ、五感で直接確認したのか、それとも、何らかの道具を使って間接的に確認したのかの違い。例えば、肉眼でリンゴを確認することに対して、顕微鏡で細菌を確認したような場合。細菌の場合は、直接見ることも、触ることもできません。それにも関わらず、通常、我々は、それが「実在」すると判断します。何故でしょうか? 多分、その細菌は我々が通常肉眼で見るような物質と基本的には同じような種類のもので、単に、大きさが小さいだけだと考えても特に論理的に矛盾がないからではないかと思います。私もそのように判断します。

ところで、分子や素粒子の場合はどうなんでしょう? この場合は、上述の基準で考えると、以下のように言えると思います。

「分子、あるいは、素粒子については、誰一人として、直接その存在を五感で確認したことがないばかりではなく、間接的にでも確認したことがない。」

ただし、分子や素粒子自身ではなく、分子や素粒子が引き起こしたとされる現象は、間接的に確認されていますが、これは、細菌が間接的に観察される場合とは、次元の違う話だと思います。というのは、細菌の場合は、たとえ間接的であれ、見ているのは細菌そのものですが、分子や素粒子の場合は、決して、それそのものを見ているわけではないからです。

従って、分子や素粒子の存在は、リンゴのような「実在」するとされるものとは、その存在の有り様がことなるのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか?

お礼日時:2007/07/19 21:13

うさぎさん いない




… … …


「…腹の足しにならん…」
とか、いいつつ喰っただろう


うぅぅ… … …
泣いてやるぅ~~
うさぎさん いない


涙があふれる…(T_T)

http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND4273/index.h …





うそだぴょん~♪(*^^*)v ニカッ=☆ギャンブラー


http://www.8107.net/akira/news_paper02.html



いかさまだぁー!

日月日月日月って、



間(火水木金土)がぬけてるやん、
アバウトにもほどがある
ひと月は何週あんねん?

もうちょい、丁寧に
『晦日』と、日毎日。


ん?日、毎日…ひと月は何日やったっけかな?



暦ちゃん



あれ?


喰っただろう うさぎさんを
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旧い見方として すべてのモノは 一般に 形相(イデア)と質料(ヒュレー)とから成ると言います。



設計図と素材とだと思われますが りんごは この見方で説明できます。

次に 設計図だけ あるいは 素材だけが それぞれ分離して 捉えられた場合が考えられます。

つまり 形相だけを取り出すなら これは いわゆる概念です。三角形は  オムスビでは 形相と質料とが合成されていますが 図形となると もはやほとんど形相(つまり概念)のみです。

素材だけを取り出すことができるとしたなら それはつまり 質料はあるが 形相は見当たらないというような場合になると考えられます。つまり 分子・原子・素粒子うんぬんと言っている問題ではないかと考えてみました。

これだけなのですが。

ちなみに ひとつ気になっていることは――思い切って言うのですが(つまり詳しくないまま言うのですが)―― 例のエネルギーが質料に等しい( e = mc2〔二乗のつもり〕)というのであれば それは モノがコトであると言っていると思われます。ですから この理論にかんする限りでは コトが観察されたなら モノの存在が主張されうると言っているように思えるのですが。そのあたりは いかがお考えでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>素材だけを取り出すことができるとしたなら それはつまり 質料はあるが 形相は見当たらないというような場合になると考えられます。つまり 分子・原子・素粒子うんぬんと言っている問題ではないかと考えてみました。

済みません。日本語の読解力の問題で理解できなかったのですが、結局、分子・原子・素粒子は形相だとおっしゃっているのでしょうか、それとも、質料だとおっしゃっているのでしょうか? 私は、しいて言えば、形相だと思うのですが。”しいて”と断るのは、形相というものが本当にあるとは思えないからです。少なくとも、質料ではないと思います。と言っても、質料と言うことばが、また、大変、観念的で、リンゴをすりつぶした汁と言うわけではないので、判断が難しいですね。

>例のエネルギーが質料に等しい....

私は、エネルギーもコト、質量もコト、すなわち、 e = mc2は、コト<--->コト変換だと思っています。

お礼日時:2007/07/19 19:59

>「電子顕微鏡で見た原子」というのは、原子の何を見ているのでしょうか? 原子の輪郭ですか? もし、原子の輪郭だとしたら、その原子を構成している原子核、あるいは、その原子核を構成している素粒子は、どのように見えるのでしょうか? そもそも原子に輪郭があるのでしょうか?



輪郭の中身も見えていますよ。原子核なんかは更に小さく見えているでしょうね。
質問者さんの言い方だと
「リンゴは見えていますか?それはリンゴの輪郭ですか?リンゴを構成している原子はどのように見えていますか?そもそもリンゴに輪郭はあるんですか?」
といってることになります。
しかし質問者さんはリンゴの存在は認めている。でもリンゴの構成物質は概念であって見えないし触れないと言う。
ではどうやってリンゴに触れておられるんでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

リンゴの場合は、手で触れて、表面を撫でることで、「これが表面だ」とわかります。ところが、原子の場合、自分が原子と同じくらいの大きさになって、原子に接近できたと仮定しても、原子の表面を撫でて「これが原子の表面」だと言えるようなものがあるでしょうか? ないと思うのですが。

お礼日時:2007/07/18 21:26

kairara1です。

私自身記号論の初心者ですので結果的にいい加減なことを書いていることをお詫びいたします。ただ大変興味を感じている問題なので続けさせていただきます。分子のイメージは実は分子模型というものの方が化学記号よりもっと記号に即して理解できるように思っています。つまりわれわれは分子を眼に見えないものとしてかんがえているつもりですがそれにもかかわらず眼に見えるものとして考えているわけです(盲人の方は分子模型に触って分子のことを考えますがやはり眼に見えるくらい大きなものとして考えています)。分子よりさらに小さい素粒子やクオークの極限は紐のようなものとして考えられています。紐は眼で見えるものです。素粒子論で言う紐は大変小さいものです。しかしこの「ひも」はやはり眼に見えるくらい大きなものとして考えないわけにはいきません。又この紐は分子と同じようにあらゆる眼で見える物体を記号化したものと言えると思います。すなわち記号はあなたがおっしゃる概念として存在していると言えます。ところが概念は考えるときには眼に見える字であったり音に聞こえる発語だったりするわけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

記号とおっしゃっているのは、通常の言語(下記(1))以外に、指し示す対象物と何らかの意味で「似ている」もの((2)、(3))も含むということでしょうか?

(1)「分子」という文字
 「分子」という文字は、線の集合体ですが、その線の集合体と「実際の分子」とは”似てもに似つかない”ものです。でも、日本語では、「分子」という文字は「実際の分子」を表すという取り決めになっていますから、「分子」は「実際の分子」を指し示します。

(2)分子模型
 分子模型は、「実際の分子」と大きく異なりますが、でも、「実際の分子」の特徴とよく似ています。似ているが故に、分子模型は、「実際の分子」を指し示します。

(3)鳩
 鳩の外観は、平和とは似ても似つきません。でも、鳩の生活態度が平和を願う人の態度と似ています。似ているが故に、鳩は平和を指し示します。

お礼日時:2007/07/18 21:17

こんばんは、kobareroさん。





お弁当箱の中からうさぎさんが、、、ぴょんと飛び出した


(^O^)/ども、リンゴ追分、うさぎおいし、と、ウサギさんをおっかけて来たら道に迷っちゃった。ちょいとおじゃまします。うーん、三角形は存在してるよ。うん、お弁当箱の中に。ほら、うさぎさん。それは、リンゴじゃ。うんうん、そだけどうさぎさんなの。なんでじゃ?お空に浮かぶお月さん、たまーに三日月になる。三日月のお月さんとお弁当箱の中のうさぎさん同じ形。でもって、三日月の「三」と同じ形の「形」をアバウトにみて三角形と呼んでみたり。一個のリンゴを皮むいて包丁でザク、ザク、ザク、ザク。ちっちゃくなったリンゴをひとつ、これ分子。ほら、うさぎさんぴょん。ほでも、切ったリンゴをバラバラにしないで固めて元のリンゴのように合わせて置いておくと。うさぎさんどこ行ったの?うさぎさんいなぁーいのと泣き入る。


ひとつのものを呼ぶのにもいくつもの呼び方(名)がある。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

リンゴ追剥ぎ? そりゃ、おっかねぇーだ。うさぎおいしいお弁当? ウサギを食っちゃ気の毒だ。三日月お月さんは明明明、ウサギもびっくり、赤目も眩む。赤目のウサギは三口で、一度に三日月食っちゃった。お腹こわして2個吐いた。3個の2個は3分の2。分子は2だけど、存在するの? 存在するけど、食えねぇーなぁ。やっぱり、分子じゃ腹の足しにならん。ウサギは怒って行っちゃった。とさ。

お礼日時:2007/07/18 20:53

観測された現象の説明において原子(分子)モデルを用いて説明するのが今のところ辻褄があっているということだと思います。

以前電子は原子の周りを周回していると捉えられていたが現在は軌道上に確率的に存在していると捉えられているし。

>仮想的に考え出された炭素原子モデルの「効果」が観察されているだ>けではないかと思うのです。すなわち、炭素原子モデルは実体ではな>く、自然の規則ではないかということです。
そうですね。
固定的な3角形の概念と違って分子モデルは規定されない不確定性が含まれているといえるかもしれない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/18 20:30

>例えば、鉛筆か何かで紙の上に描いた三角形のことですか?



定規も使ってですけどね
基本的に三角形は直線の概念があり
三つの直線が交わるという現象を起
せば良いわけです。
それを我々は三角形と定義づけてい
るのですから概念から存在へ変化し
た訳です。
分子の場合は実在が前提ですから存
在が曖昧なので実在化しても曖昧な
ままです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/18 20:29

平面は幅を持たないという意味のおいて3角形は存在しない。


概念として存在させた三角形はそのものを現実に存在させることはできない。
現実に存在して見える3角形はそのものを概念化できない。

りんごは実際に存在することを了解するとする。
同じように例えば
炭も存在することを了解するとすれば
分子はその性質を失わない最小単位とすると炭素の分子は存在するといえるのではないか。
分子をその性質を失わない最小単位とするとりんごの性質を失わない最小単位としての分子はりんごであるといわなければららない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございいました。

炭はそれを見たり触ったりできます。しかし、炭素原子は誰もそれを見たり触ったりした人がいません。にもかかわらず、炭素原子が存在すると言うのは、実は、炭素原子そのものが存在しているのではなく、仮想的に考え出された炭素原子モデルの「効果」が観察されているだけではないかと思うのです。すなわち、炭素原子モデルは実体ではなく、自然の規則ではないかということです。

お礼日時:2007/07/17 22:55

たびたびお邪魔します。


マクロ的とミクロ的な違いだけ説明させていただきます。
今回のマクロ的というは曖昧性ということです
ミクロ的は確実性という意味です
この曖昧性と確実性は我々の眼に飛び込んでくる実在
を基準としています。今回はどうも光で捉えた存在と
いう意味で存在するのか?と聞かれているように感じ
ますので曖昧性と確実性は今回は光捉えた場合という
ことにさせていただきます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

曖昧性ということから考えてみると、「分子」の形を正確に描けるのかという疑問が沸いてきます。

科学の言っていることが正しいとすれば、それは原理的に描けないことになると思います。それは、小さすぎて見えないからという理由ではなく、そのそも「分子」には形という概念はないのだと思います。それは、曖昧性というよりも、数学的正確性によって導かれた結論ではないかと思います。

お礼日時:2007/07/17 22:40

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