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ルイ14世の侵略戦争で、基本的なことは理解できるのですが、細かい対立構造の変化が、いまいち掴み取れません。スウェーデンの立場や、南ネーデルラント継承戦争ではオランダについていたイギリスが、次のオランダ侵略戦争ではフランス側についていたりするのが分かりません。この問題に長い間苦しんでおります。どなたか、教えて下さい(涙)

A 回答 (1件)

こういう問題について、単純な理解は難しいです。

例えば、今、米国はイラクに対して圧力をかけていますが、同盟国であるヨーロッパや日本が無条件にこれを支持している訳ではないし、中国やロシアの立場も微妙ですよね。当初は、片一方の側についていても、やりすぎだと思えば反対側につくこともあるだろうし・・

というような余談はさておいて、
オランダ侵略戦争(1672~78年)の時のイングランド王はチャールズ2世です。この王は、ピューリタン革命の時に亡命し、1660年にブレダ宣言を行って王政復古に成功します。この後、絶対王制を確立しようとして議会と対立します(これが基本的な背景です)。

さて、1670年ルイ14世とチャールズ2世はドーバーで密かに会見し、「ドーバー密約」を結びます。この内容はルイ14世が15万ポンドの金を提供し、チャールズはフランスへの軍事援助と旧教への改宗を約束するもので、これを背景として第3次英蘭戦争がオランダ侵略戦争と機を一にして起こります。当初、イングランドの議会は海上覇権をめぐっての戦争と理解していましたが、やがてドーバー密約の存在が知られ、チャールズ2世とフランスへの反発の方が強くなって、王権を押さえ込み、74年にウェストミンスター条約でオランダと講和してオランダ側について戦うことになります。

また当時のヨーロッパにおいてはルイ14世の軍備強化は周辺国家に脅威をもたらしました。自国のみでフランスの脅威に対抗できる国はなく(その意味でオランダはよく耐えましたけれど)その中で、前述のドーバー密約のようにルイ14世の外交方策によって一時的にフランス側につく国もあるわけです。ただ、フランス一国のみを強大国とはしたくないというような意識がある程度共有されていたと思います。
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この回答へのお礼

分かりやすい御回答ありがとうございました。英欄戦争との関係など大変参考にななりました。本当に感謝してます★

お礼日時:2002/10/02 17:49

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