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いつもお世話になっております。

1.「日本は、満州鉄道を爆破(自作自演)→これを中国側のせいにして侵略をしていった」と解釈しているのですが、これは南満州鉄道株式会社のことですか?
そして、中国側はそんな無実の罪を着せられて、それを理由に攻められて、抵抗しなかったのですか?

2.満州国のトップに溥儀をおいたのはなぜですか?実質上の権限は溥儀にはなかったと言われています。ならば最初から日本人をトップに置くほうが得策なのでは、と思います。日本人ではなく溥儀を選出した理由が分かりません。

子どもたちにも説明できるよう、平易なことばで教えていただければ幸いです。

A 回答 (4件)

1.2.については皆様が説明しているのでその周辺情報に関して



まず、満州への進出は当時の国際社会にとって衝撃的でしたが、不景気にあえぐ当時の世界特に欧州は日本との貿易を途絶したくなかったので、日本との関係を保ちたかったわけです。
その結果考え出された手段が、リットン調査団を派遣するということです。
これは、事実上何もしないに近いくらいの、日本が犯した行為に対しては明らかに軽い措置でした。

そして、その報告内容も「満州国は日本の傀儡である」「日本の支配は法的正当性がない」とされながらも「日本が現状に不満を持つには相応の理由がある」ことを認め、「日本が自国の権益を保護する権利」もみとめているので、日本にとっては考えうる限り最大限の譲歩がなされていました。

日本は、調査団の報告を受け入れ名を捨て実を取れば、日本の国土より遥かに広い満州の事実上の権益を確保することができたと思います。
しかし、日本は名を捨てることができなかったため、国際連盟を脱退することになり、その後の日本の孤立が深まっていくわけです。

まあ、国内問題的に受け入れることが出来なかったのかもしれません。しかし、それでも太平洋戦争はこのような軍部の暴走と外交の失敗が繰り返された末に齎された戦争だということは覚えておくべきだと思います。


まあ当時の日本は、外交初心者だったので国民も政府も情勢を理解しうまく立ち回ることが出来なかったのだと思います。
ビスマルク後のドイツとかWW1後のアメリカとか、同じように急成長した国の外交は様々な失敗を繰り返してますからね。仕方ないことなのかもしれません。
それでも、アメリカもドイツもそれなりに成長しているというのに、日本は外交素人振りが今でも続いていることにはちょっと不満を覚えます。
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1.


満州の東三省を統治していた国民党の張学良は、無抵抗を貫くことで日本の侵略行為を鮮明にし、国際社会に日本の不当性を訴える考えでした。これは蒋介石の指示であったとも言われています。当時、張学良率いる奉天軍(30万人)は国民党の各軍閥の中で最も精強とされ、日本の関東軍もかなり警戒していましたが、主力である奉天軍がほぼ無抵抗(というか事件当時は奉天軍の主力は華北にいて不在)だったため、あっという間の占領になりました。
その後、満州事変を国民党の密使が国連へ提訴し、国連からリットン調査団が派遣され、結果として日本は国連を脱退することとなります。

2.
満州国の理念は、かつて孫文が提唱した「五族共和(中国の統一)」を踏襲したものです。満州在住の中国人が自発的に独立した、という建前を保つ為には元首が日本人であってはならないのです。
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1.南満州鉄道株式会社で間違いないと思います。


日本陸軍の満州侵攻に対して大きな抵抗が無かった理由について。
当時、中国は、蒋介石率いる中国国民党を支持基盤とした中華国民政府こそあったものの、周恩来の共産軍、そして満州を実質統治していた張学良の奉天軍閥などが互いに勢力争いをしており、国内の政情は極めて不安定でした。
つまり、それぞれの勢力が、独自で日本軍と武力衝突してしまった場合、自軍の勢力だけが弱まることを恐れていたため、国として一致した抗日体制を取ることが出来なかったと考えられます。
また、中華国民政府も、満州、さらには中国全土の支配を目論む日本軍の意図を見抜けず、蒋介石自身、日本軍の満州支配は一時的なもので、いずれ撤退すると考えていたようです。
しかし、当然、日本の軍事行動に対して反発する姿勢はあった訳で、中華国民政府はこの事態を国際連盟に訴え、国際世論を味方につける戦略を取ります。
2.満州国のトップに溥儀をおいた理由。
清朝(満州族によって1636年に建国)最後の皇帝である溥儀をトップにおくことで、満州国政府は満州族が統治する正当な政府であり、あくまで日本は政府樹立・維持に力を貸しているに過ぎないと主張するためです。
それによって、満州国内外の抗日闘争や、国際世論の反発を弱めようとしたのでしょう。
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>中国側はそんな無実の罪を着せられて、それを理由に攻められて、抵抗しなかったのですか?


 勿論、非難やテロなどは行われましたが、当時の中国は今のイラクよりも酷い混乱状態(殺された張作霖も元馬賊[馬の機動力を生かした武装盗賊])でしたから、実効性のある抵抗は出来ませんでした。(今のイラクもトルコ軍に北部を侵攻されてますけど、抵抗は…。)

>満州国のトップに溥儀をおいたのはなぜですか?
 満州国建国が正しい行為であったと主張したかったからです。

 日本人をトップに立てると、他の国から日本の侵略であると非難されます。

 しかし溥儀をトップに立てれば、彼は満州民族の出身であるので、建国の意義は、「漢民族の幽閉状態から逃れ、一族の出身地に、自分達の民族の国を作る」と言う行為の手助けを日本がしているだけだと主張できます。

 他国も軍の撤退を要求しましたが、日本を国際連盟で侵略国としての議決や除名は行われませんでした。

 イタリアはエチオピア侵攻で、侵略行為として経済制裁が議決されましたし、ソ連はフィンランド侵攻で侵略国として議決され、その後に連盟を除名され、武力制裁まで準備されました。(ドイツがフランスに攻め込まなければ…。)

 大義名分の有る無しは、同じ武力侵攻であっても、その後にこれ程の差が生まれます。(支那事変での対応はダメダメでしたが…。)
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