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僕は今、日本のミュージシャンが作る音楽に感動できません。
やはりそれは商業的な要素が強いのと、他に気になるところは何かのパクリ的な要素がかなり大きいからではないかと踏んでいます。

パクリ的な要素というのは、海外でできた新しいジャンルや型などをそのまま形式だけコピーするような音楽、日本で独自の音楽を築いたがそれの延長でずっと進展なしの保守派、ひどいのはパクリのパクリみたいなもの。

しかし、僕の日本の音楽に対しての考察が正しいのかわかりません。

そこで、日本の少し前(大体1990年代くらい)から現在に至るまでの音楽形成は何が作用して現在に至ったのか詳しくわかる方にお答え頂きたいのです。

これはその時代の社会的な雰囲気も音楽に関係しているような気がしますので、これはできればですが当時の社会的な問題と関連付けてお答えください。

その時代にヒットした日本のアーティストや音楽と海外でヒットしたアーティストや音楽に関連はあるかなどもできる方は説明お願いします。

それと、モードというのは当然いつの時代も起こるものなんですが、それが一部の人間によって商業目的のために作られたモードとミュージシャン自らが苦しんでいきついた境地で作られた音楽のモードでは感動もだいぶ違うと思うのです。

商業目的というのは、大衆が好むような時代の気分に合わせた音楽で、つまりはこれがJ-POPというのでしょうか。
ウィキペディアでJ-POPについての記事は見ましたが拾い読みなので違ってたらすみません。

あと、日本の音楽には感動できないといいましたがもちろん全てがダメというわけではなくて感動できないけど好きなアーティストはいます。

最後にもう一度お願い申しあげますが、そのような微妙な事情に詳しい方の回答お待ちしておりますのでよろしくお願いします。

A 回答 (10件)

J-POPを考える前にその全身である「歌謡曲」について研究すべきです。


http://www.amazon.co.jp/%E9%B3%B4%E3%82%8A%E9%9F …
高いですけど、日本のポップスについて研究している学者は多いですよ。テーマはジェンダーですが、とても興味深い研究をされています。

50年代は都会を賛美するような歌謡が多かったですね。曲名は忘れましたが「昔懐かし銀座の柳」なんてのもありました。戦後の復興期で、庶民を力づけようとする楽曲が多かったようです。60年代は演歌というジャンルが突出してきます。いわゆる日本の伝統的民謡を西洋の和声理論に組み込み、こぶしなどの装飾音が特徴的な歌謡曲です。それと平行し、フォークソングというジャンルも台頭してきます。70年代には「アイドル」歌謡が席巻し、新御三家、中三トリオなどは耳に新しいところでしょう。また、フォークソングに替わり、アコーステックサウンドに拘らないニューミュージックと呼ばれる自ら曲を作り、歌う歌手が増えていきます。80年代は松田聖子、おニャン子クラブ、シブがき隊、などのアイドルの全盛時代となります。90年代頃からJ-POPと呼ばれるポピュラー音楽が出現します。黒夢、GLAYなどのバンド系、さらには宇多田ヒカルなどの女性シンガー、いずれも自ら曲を作り歌うのですが、彼らは自らを「ミユージシャン」「アーティスト」と呼び、「歌手」という言葉はほとんど使われなくなりました。

以前、「誰でもピカソ」という番組に船村徹さんが出演したとき、ちあきなおみの「喝采」を「ドラマチック歌謡」の先駆けだった、と語りました。「喝采」を聴いてみればわかると思いますが、まるで短いドラマを観ているような錯覚に陥ってしまうのです。このようなドラマチック歌謡はフォークソングにも影響を与えました。かぐや姫の曲に多く、例えば「赤ちょうちん」や「神田川」などは具体的な映像を聴く者に与え、実際、ドラマ化されたり映画化もされています。なぜこのようなドラマチック歌謡が隆盛を極めたのでしょうか。

私の考えですが、日本人は自然などの景色の中に人間の感情を見て詩を書いてきたからだと思うのです。万葉集から芭蕉の句まで、自然を観てそこに人間の感情を織り込むのが得意だったのです。

たとえば石川さゆりの「津軽海峡冬景色」などは、最初は主人公の一人語りですが、次第に視点がずれていき、女性と人々、冬の景色を客観するような視点に移動していきます。これはドラマを観る視点で描かれている歌詞なのです。私たちはこういう曲に非常に感動するのです。

AIさんの「STORY」という曲を例に取ると、これに比べ非常に独りよがりでひたすら自分の気持ちを吐露している曲のように思えます。それは背景が一切分からないからです。どうして守りたいのか、どういう関係なのかまったく分からないのです。AIさんを批判するつもりはありません。彼女は帰国子女らしく、そういう曲を作るのが自然だと思うのです。例えばサイモン&ガーファンクルの名曲「明日に架ける橋」は同様の内容で、語っている人間や守りたい相手の背景など一切わかりません。キリスト教圏では賛美歌のようにひたすら神を賛美するように、歌詞においてはひたすら気持ちを伝えるのが重要なのでしょう。

日本人は自然や環境とともに人の心を歌うことに感動します。だからドラマチック歌謡もヒットします。北川純子さんの「鳴り響く性」でジェンダー交差歌謡が存在するのは日本だけだと指摘しています。男性が女性が主人公の歌を歌い、女性が男性が主人公の歌を歌う、これは日本だけの特徴だそうです。こういう歌謡曲が成立できるのはやはり、視点のズレがあるからだと思うのです。作詞者の感情、主人公の感情、自然や景色、環境などすべて包み込むような視点での詩、こういう日本人が感動する視点を見失ってしまったのが今の日本のポップスだろうと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、takiyan123さん。

なるほど~、歌謡曲ですか。美空ひばりさんなどですね。
確かにドラマ的な要素も含めて、歌謡曲というのは特殊性を感じますね。

やっぱり現在の音楽を知る上で重要なのは戦後音楽史のようですね。

戦後は右をみても左を見ても何もなかった時代、そして間もない50年代は庶民を力づけるような楽曲、社会的な目的が音楽にはあったということですね。

戦後から生産性を求め頑張りに頑張った結果、先進国になった日本。
しかし、人のシステム化による虚無感が今日では大きな問題となっています。

物質がない虚無感、システム化による虚無感、おそらく大きく違うものだと思います。

なんというか社会との関連が非常に気になります。

国家や地域などの境界を越えて複数の社会とその構成要素の間での結びつきが強くなった1970年代、グローバル化ですね。

その辺りから徐々に、特に90年代はその影響がとても強く音楽にも見られるような気がします。

ロックというのも輸入されたものなわけですし。
書籍もおもしろそうですね、参考にさせていただきます。

それから日本の詩の面、これも興味深い。
言葉遊びとしての感情の比ゆは本当に昔からありましたものね。

>日本人は自然や環境とともに人の心を歌うことに感動します。

ここなんですが、実は僕はそうでもないんですよ。確かにきれいだなとは思うのですが、そこまででストップしてしまい、記憶に残らないことが多いです。

20歳ぐらいなんですが、これもグローバル化の影響なんですかね?

AIさんの話もそうですが、最近は大学生、帰国子女など若いアーティストの外国の影響というか、そういうのよく聞きます。

日本というのは昔から封建的で、それがいきなり崩れていろんな文化輸入をしたわけで、本当に特殊な民族です。ジェンダーも特殊のようですね。

しかし、これでかなり興味が膨らみました。非常に参考になりました。

お礼日時:2008/08/26 23:32

私は、パクリとかそういう考えには興味なく、聞いてて気持ちいいかそうでないか?それと詩がこの人考えて作ってるなとか そういうので選びます。



私が嫌なのはファンの人には申し訳ないが、最近本当多い
ラップかなんかジャンルはわからんが、ダラダラした音楽に語りかけるような歌い方、詩の中身は
たとえば最近よくかかる「愛してる~愛してる ただそれだけ、ずっと一緒にいたい」とか「私はあなたのそばにいる」とか 誰でも考えられるような陳腐な詩 ってのが退屈ですし聞いていて眠くなる。
歌が声量があるのならまだしも、こういうの歌う人って歌い方もダラダラしてて声量も盛り上がりもあまりない。

サザンのような奇抜な詩にのれる音楽、それでいてバラードも泣ける詩(愛してるとか 守るとか 一緒にいるよ 一緒にいたいとか誰でも考えるような詩ではなく サザンの詩だと 「砂に書いた名前消して波はどこに帰るのか♪」とかといった普通の人が考えられないような詩のこと このフレーズは本当泣けました)
そういう詩を書ける人がいいです。

要するに、歌い方も、ダラダラと延々と同じようなテンポで声量も同じようなダラダラ調、言うことはずっと君だけ愛してるとか一緒にいたいとかそんなんばかり、そういうのが嫌です。

パクリとかそういうのは関係ないです。パクリでも声量がものすごくあって、のれる曲や泣ける曲を作る人は感動します。

ちなみにB’zとサザンとミスチルとヒッキーは支持してます。

パクリだったら世のアーティストは前世のアーティストに影響みなそれぞれうけてるので 誰もがパクリだと思います。
パクリじゃないっていったらビートルズとストーンズだけになると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、3792さん。

愛とか恋とかの歌は本当に多いですね。
愛とか恋とかの歌は別に問題ないと思うのですが、そういう歌は多いので斬新さがないとやはり、味気ないものになってしまいますね。

そして、どれほどの思いが入ってるかも気になりますね。

流行というのは作られる面と模倣される面とがありますが、似たようなのが多いのは行き詰っているということなんですかね。

音楽でも詩でも斬新さが大事ということですね。

お礼日時:2008/08/26 22:37

そこまで確信があるなら、貴方自身が音楽で「世間」を変えられるかどうかを実行してみれば良いんじゃないですか?



まぁー、歴史を見れば変えられない事が物語ってますけど、「今がその時だ」という確信があるなら、それに向かって動くまでですよね。

私は、自分なりに「世間」を理解した結果、音楽で変える事は出来ないし、いきなり行動する前にやるべき事が沢山あるという結論に至ってますので、それに向かうまでだと思ってます。

欧米との比較を持ち出すのであれば、「社会」と「世間」の違いも理解出来ないと”片手落ち”なんですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、t78abyrf9cさん。

そうですね、もっと突っ込んだところまで自分なりに調べてみようと思います。

お礼日時:2008/08/26 22:26

>しかし、古今東西、斬新な音はマイナーシーンから出てくるというのは必ずしもそうではないでしょう



勿論、そうですよ。
ただ、”全体論”として言ってるわけです。

貴方の言い分も「日本の音楽」という全体論なわけですから、私が全体論で返してはいけない理由は無いでしょう。

それこそ、個々の単位でみれば、メジャーでも突然変異的なものもある。
しかしながら、全体(相対)的にみれば、やはりマイナーシーンで熟成されたものが浸透してからでないと、メジャーシーンへの変化に繋がらないのが、ある意味”宿命”だと言えるでしょう。

で、「惰性的な雰囲気」というのは、音楽以外も含めた国全体の話として、私も長年感じてる部分はあるわけです。
ですが、それを音楽だけに限って論じる気は無いのです。
何故なら、個々人の音楽家に目を向ければ、その理論が通用しなくなってくるから。

音楽を通して国の問題的を考察するという意味合いでしたら、それはそれで有意義でしょうし、私自身もそのような形で物事を考える事もあります。
がしかし、それが(マイナーシーンも含めた)日本の音楽業界全体に対しての批判材料になるとは到底思えない。
むしろ、批判すべき対象は、業界に対してではなく、「惰性的な雰囲気」を良しとし続けている「世間」の側にあるはずだ、というのが私の考え方です。

その「惰性的な雰囲気」を音楽で変える力があるのか?と考えると、余り無いように思います。
それは即ち、音楽でいきなり世界全体が変わった事が無いという事にも比例するでしょう。

私は、90年代初頭、偶然ロンドンに旅行しました。
その当時、ロンドン及びイギリス全土は非常に不景気であり、現地の音楽業界も停滞気味で、ヨーロッパ周辺諸国から入ってきた音楽が幅を利かせていた時期だったのです。
その数年後、イギリスの景気が回復するのと比例して、音楽業界にも新たな活気が生まれてきたと感じてます。

日本も↑と似たような状況だと思ってます。
良し悪しは別として、景気が悪いと、その国の文化的な面も元気にならないケースが多い。
日本は、バブルが弾けて以降、景気が上向きになってませんので、結果的に文化面も刺激的な状況が生まれ難くなっているように感じてます。

こんな感じで、思った以上に経済との関係性は無視出来ないと思うのです。
その辺も含めますと、単に音楽業界だけの問題として片付ける事が出来ない話だとも思ってます。

この回答への補足

>日本の世間となれ合っているような人たちから変えるというのは想像できないのは無理もないと思いますが。

人たちというのは芸術家ということです。

>なぜこのような雰囲気になったのかが一番知りたいところなんですが、この手の質問はやはり批判がつきものですね。

このような雰囲気というのは、社会全体としてではなく音楽業界のみです。

補足日時:2008/08/25 01:56
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この回答へのお礼

再びのご回答ありがとうございます、t78abyrf9cさん。

>批判すべき対象は、業界に対してではなく、「惰性的な雰囲気」を良しとし続けている「世間」の側にあるはずだ

これ僕もまさにそう思うのです。

質問には書いてませんが、狙いとしては惰性的な雰囲気を崩すには大衆性のある音楽が有効であり、そのためには惰性的な雰囲気が及んでしまっている今の日本の音楽を外側や内側から批判的な態度で、文脈や今の構造形成だったりを知るというものです。

t78abyrf9cさんは音楽にこの惰性的な雰囲気を変えるのはちょっと無理があるのではとおっしゃっていますが、僕は音楽こそだと思います。

音楽に限らず芸術全般なんですが、芸術の中で一番大衆性があるのは音楽でこれを知る必要があると思ったからです。

日本の世間となれ合っているような人たちから変えるというのは想像できないのは無理もないと思いますが。

なぜこのような雰囲気になったのかが一番知りたいところなんですが、この手の質問はやはり批判がつきものですね。

僕は音楽こそだと思っていますので、それに対しての批判がついてくると思いましたので音楽で変わるみたいなことは質問には書きませんでした、そこで議論となると味が悪いからです。

とはいえちょっと質問の書き方も適切でなかったのかもしれません。

芸術というのは案外社会的に大きく作用しているものです。
生活の装飾だと思っている人が多いようですが、僕は決してそうは思わないです。

真のアーティストは全人間的で社会の動向や問題にとても敏感だし、けっこう頭もキレます。価値を生み出す芸術家だからこそ時代に敏感で全人間的に問題にぶつかり、先をいかなければならないのです。

ここでこのような議論となるともう質問の意図がかわってくるのでこれ以上話がそれるのはちょっとまずいので、また音楽に絞りたいと思います。

お礼日時:2008/08/25 01:54

今の音楽には「しゃれ性」がなくなりましたよね。

一種の言葉遊び。その遊びと内容とのリンク。今はその余裕がないのです。というか、そういう「粋」な精神が死滅してしまったかのようです。

つまりは、それがプロの作るものと、偽の作るものとの差です。圧倒的な力量さがあるのだともいますよ。

典型的なのは、NO.5さんも上げているような、パロディー精神ですね。メタ構造といってもいいかもしれません(その曲そのものが表に出さないでも何かのオリジナルを想起させる)

ちょっと時代をさかのぼれば、タイトルだけで「やるなぁ」というやつが一杯出てくるでしょ?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、garcon2000さん。

確かにタイトルだけのありますね。
しかし、パロディ精神というのが構造になっているのは非常に問題だと思います。

やっぱりパロディは質が良くてもパロディでしかないのですね。

お礼日時:2008/08/25 00:30

60年代から洋楽ポップスファンで、ビートルズには特に影響されました。


アーチストが自分の音楽を追求し、ヒットして商業的に成功すると、商業的な成功が目的に変わっていくのは昔からあることです。
そこでレコード会社や周囲の思惑とずれが生じて、バンドを離れてソロ活動したりすることもありました。
エリック・クラプトンはヤードバーズでヒットしましたが、ブルースを追及したくてジョン・メイオールのバンドに入りました。
アーチストがどういう音楽をやりたいかは、彼ら自身の問題です。パクリか、商業的な成功狙いかについては、聴く側が勝手に「好き嫌い」を言っていればいいことです。感動するかどうかは、パクリや商業ベースとは別の問題です。

ラップが世に出て以降、音楽に新しいものが出ていないのは事実です。テレビがバラエティ番組ばかりになるのと同じ、映画がハリウッドものばかりになるのと同じで、「そこそこヒットすればよし」が目的の経済性重視がすべてのコンテンツをだめにしたと思います。
ビートルズが、キャッチーなラブソングから内面の表現へと転換した中期以降は、女性ファンが激減し男性ファンが増加しました。アルバムには、当時のポップスファンには受け入れがたいような難解な曲もあります。
ボブ・ディランが、弾き語り反戦フォークからロック色を前面に出したときは「裏切り者」とまで言われました。
アーチストには、新しいものをつくる気概がほしいです。商業ベースにのらないインディーズに期待しています。

パクリは「いかにもまねした」というのがわかるフレーズ、と考えられます。影響を受けたのとはあきらかに違っていて、ヒット曲のフレーズやパターンを「利用」して2匹目のどじょうを狙っています。
リン・アンダーソンの「ローズガーデン」がヒットした後、日本で南沙織が「潮風のメロディー」で歌った冒頭部分はパクリとしか思えません。ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」のパクリは近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」です。
今で言うJポップ(以前は歌謡曲・ニューミュージックなど)のファンは洋楽を聴かない人が多く、パクリがばれにくいことでなりたつことなのでしょう。

パクリと似ているものに「パロディ」があります。パフィーの「これが私の生きる道」があります。作者のビートルズ好きがわかるほど、ビートルズのセッセンスがふんだんです。「まね」を楽しめるまでに昇華しています。そのビートルズ「バック・イン・ザ・USSR」は、ビーチボーイズでヒットした「バック・イン・ザ・USA」のパロディですが、元曲をしのぐ音楽性でおおいに楽しめます。「感動的」ともいえます。

こういう話はヒットチャートに関する本にたくさん出ています。
「ビルボードナンバーワンヒット」(上・下)が参考になります。

この回答への補足

ビートルズの所、ロックにではなく音楽にということです。

補足日時:2008/08/25 00:33
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、showadoさん。

感動するのとパクリや商業ベースとは別の問題、確かにそうですね。
僕もそう思いますし、むしろ型がなければ新しいものを作るのは難しい気がします。

実のところ僕は音楽にはあまり詳しくありません、なのでこうして質問させて頂いているのですが。
音楽は芸術ですが絵画や彫刻、詩、演劇とは性質が大きく違うし、芸術の中では一番大衆性があるけど日本のは惰性的すぎるのではと思い質問をぶつけているわけです。

音楽のジャンルは本当にたくさんありますが、ジャンルを開拓した人というのは褒められたり、けなされたりいろいろだったとおもうのです。
ニルヴァーナも最初は酷評されたようでしたが、今ではロックシーンに旋風を巻き起こした代表的な存在です。
ビートルズも確かそうだったような…、違ってたらすみません。

基本的に流行を否定し新しいことをしたり、社会の慣習に対して風刺するというのは日本に限らず、音楽に限らず、骨の折れる行為です。

カート・コバーンは自殺しましたが、そういうジャンル自体を形成したり影響を及ぼしたり、本当に自分の思う素晴らしい作品を作ろうとしている人の苦悩というのははかり知れます。
芸術に限らずそういう人に自殺者が多いのは事実です。

そういう絞り出した作品というのは、そういう苦悩を知っていることを抜きにして非人情的に見ても素晴らしさを感じるというか。

あと、パクリとパロディ、この話はなかなか興味深いです。
表では微妙な、しかし内容は大きな違いが確かにありますね。

でもパクリとパロディだけではやはり新しいものは出てこないです。
パロディというのは必要であるにせよです。

流行というのはまだ浸透していない新しい型の模倣で作られるものです。
新しい型が出てこなければいっくら質のいいパロディを作ったとしてもいつかいき詰まります。

でも、パロディが必要であるとは強調します。

パロディというかもっと既存のものを否定して新しいものを作り出す姿勢、アヴァンギャルドがいてもいいと思います。そういう方が日本には少ないと思います。

というか日本の慣習が足をひっぱり潰しているかもしれないです。
日本ではこういう人に尊敬して何々しているというのが習慣的で評価を受けますから、型を破るのはやはり勇気がいりますね。

お礼日時:2008/08/25 00:26

済みませんが、貴方が書いたことは質問ではありませんので、回答のしようがありません。

誰が他人の感覚に回答出来ましょうか。
尚、坂本龍一氏は、「既存の音楽を自ら取り込むことで私の曲が構築されてきた。音楽に著作権が存在しうるとは思えない」と述べています。貴方の思索の参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、gengakushaさん。

「既存の音楽を自ら取り込むことで私の曲が構築されてきた。音楽に著作権が存在しうるとは思えない」

それは何にも最初から取り込むものがなければそうなんですが、取り込んだ上で、作る曲に新しさがなければ面白くないじゃないですか。

お礼日時:2008/08/24 23:18

何で日本の対象がメジャーで海外の比較対処がマイナーなんですか?



私の回答は、どちらもメジャーに限っての事ですよ。
マイナーも含めれば話が変わってきます。
日本にだって、殻を破ろうとしている音が沢山あります。
「つまらない」と平気で言い放つ人は、敏感どころかメジャーシーンしか聴こうとしない鈍感な人だとしか思えないです。
真の意味で敏感な人は、「つまらない」なんて言ってるヒマも無く、常に斬新な音を探し続けてますよ。

それに、古今東西、斬新な音はマイナーシーンから出てくるものです。
本当に斬新な音が、いきなりメジャーでヒットするわけがない。
ある程度浸透してからメジャーに出てくるのが常でしょう。

音楽以外も含めた国全体の姿勢という意味であれば、多少納得出来る部分もありますが、事音楽に限って、個々の音楽家単位で見ていけば、国の違いを全く感じません。

それこそ、ネットがあるんですから、ネット配信などを通じて、もっと日本のマイナーシーンにも耳を傾けて良いんじゃないですか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、t78abyrf9cさん。

質問の内容が日本の対象がメジャーで海外の比較対処がマイナー、確かにそう受け取られてもおかしくないような内容でした、すみません。

しかし、古今東西、斬新な音はマイナーシーンから出てくるというのは必ずしもそうではないでしょう、日本の場合はそれが強いように感じますが。

僕はどうしても日本の音楽というのはアイドル性というか人気者性を重視していて音楽性は二の次のような気がしてならないのです。
作品とそういうものは無関係のはずです。

感じるのはインディーズから出てきてメジャーになればというかメジャーに限らず売れれば型にはまる、そういう気がしてならないのです。

インディーズにも目を向ける、大事だと思います。
しかし、やはり構造的な問題を感じずにはいられないし惰性的な雰囲気がそこにあります。

お礼日時:2008/08/24 23:11

こういう質問は時々見かけますし、#1さんの言うように聞き手の変化もあると思います。

メディアへの露出の多い音楽、今の言い方で言えばJ-POPがどうしても若年層をターゲットにするのは仕方ないでしょう。しかしその「若年層」が(実際の年齢ではなく)幼くなっている、または大人っぽいものではなく子供っぽいものを好むのをよしとする傾向があるように思えてなりません。ちょうどTVで昭和歌謡の番組をやっているのですが「なつメロ」とされる曲も発表当時は若い歌手が若い層に向けて歌ったものでヒットチャートの上位を占めていたのです。昔の曲を年齢の高い人が「懐かしんで聞く」という面も当然ありますが、「昔の若者向けの曲(今は年寄りの人向けという意味ではありません。当時若者向けに作られた曲という意味です)」は今の若者には大人っぽ過ぎて好みに合わないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございますtrgovecさん。

大人っぽ過ぎて好みに合わないというか、やはりそれは流行が去ったということだと思うのです。
もちろん好きな方もいらっしゃると思いますが、発表当時と今は大分違います。

僕もその時代にいたら新鮮味を感じ、多くの人と新しい型として受け入れたと思います。
今はというとやはり時代とともに音楽も進んでしまったので、ちょっと受け入れるのは難しいです。

新鮮味というのは本当に今までの普通とは打って変わって独特なものに感じます。

なんというか音楽家のキャラクターなどは独特な方も多くいらっしゃったりしてとても面白いのですが、その音楽家が面白いのとその人が作る音楽は別物で、音楽となるとやはり真の独自性というかあまりそれが見られないような気がするのです。

お礼日時:2008/08/24 22:34

質問文を拝見しますと、「自分は普遍なのに、周囲(音楽)は変化している」という前提が強いように感じるのですが、見当違いでしょうか?



そもそも、その前提が違うのだと思うのです。

つまり、以前から変化しているのは自分であり、周囲は普遍なのです。
この辺の詳しい事は、養老孟司さん著の「バカの壁」をお読みになって頂ければ、分かるかと思います。
http://blog.livedoor.jp/taezaki160925/archives/2 …

で、この手の質問を度々見るのですが、往々にして質問者の意識は、「自分は、まだ若い」という感覚が強いようにも感じるのです。

まぁー、歳を取ったのを認めたくないのは分からないでもないですが、多感だった頃のままで年齢だけ重ねるのは不可能な事ですから、周囲や業界の問題云々ではなくて、自分自身の意識の変化が一番重要だと感じてます。

「感動できないけど好きなアーティスト」
↑は、若かった頃に聴いた時は素直に感動出来て、今では新曲を出しても感動しないという意味でしょうか?

私なんかは、サザンなどが↑の意味に相当するのですが、日本の中だけで活動している人ですと、大なり小なり若年層を意識せざるを得ないと思いますので、コッチが歳を取ると向こうが活動し続けていても新鮮味が無くなって当然だろうと感じてます。

その証拠に、元YMOの人たちは、今でも日本以外での活動も行っており、その影響か新曲も刺激的に感じるので、作り手自身が何処まで日本以外の事を意識するのか?という事も関係してくるのではないかと思います。

いずれにせよ、「自分が歳を取った(と、同時に変化した)」という意識を含めないと、この問題は明確な答えが出ないのではないでしょうか。
http://oshiete.homes.jp/qa3197367.html
http://oshiete.homes.jp/qa3669962.html

この回答への補足

「返答が長くて枠におさまらなかったので補足欄に書き足しました、返答を読んで下さる場合下につづけてお読みください」↓↓↓↓↓

日本では宇多田ヒカルさんなど新しいことへの挑戦的な精神が伺え、曲にあらわれている人がいてそれは素晴らしいと思うのです。

最近ではエモ、スクリーモといった日本ではみられないジャンルを聞いています。
emotional,screamの略でボーカルや演奏する人が、感情的だったり、叫んだりして演奏し、歌うアーティストたちのことです。

向こうの方でもまだ完全にメジャーに浸透していないような、SaosinやCirca surviveなどはとても新鮮味があります。

僕は日本の音楽なんてもう駄目だとか、洋楽の方が日本の音楽よりも最高といいたいわけではなくて、新たな価値を開拓しようとせず、ただ他の物のかさを着ているだけで日本はいいのだろうか?と思っているわけなんです。

これは決して自分の独りよがりの価値を他人に分かってもらいたいというような質問ではなくて客観性を含んだ質問ですので誤解を招いたようなので申し訳ありませんでした。

補足日時:2008/08/23 20:42
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この回答へのお礼

回答ありがとうございますt78abyrf9cさん。

バカの壁について読みました。
情報は変わらないし、人間は変わるというのも正しいと思うのですが、変わるというのは時間がたつのが前提です。

だから時代が移りそれに即して新たな価値が生まれるのが普通のはずです。
ということは情報は変わらないが、新たな情報が生まれることも考えなくてはなりません。

<周囲(音楽)は変化している

ここなんですが、逆で惰性的と思われる日本の音楽に対して疑問を持つ人の方がはるかに変わる時代の流れに敏感で、周囲が変化していないのでは?ということです。

この手の質問を度々見るというのは、時代の価値の流れに敏感な人がいるからだと思うんです。
つまり、この質問は日本の社会的な価値の移り変わりがおかしいのではないかということでもあります。

重要なのは価値の変化です、今はインターネットが世界的に普及して文化の壁は壊れました。今日、時代というのは世界規模で前進するものだと思います。

>元YMOの人たちは、今でも日本以外での活動も行っており、その影響か…(略)。

これまさにそうなんですが、もし向こうでできた新たな価値を土台に音楽を作り日本に持ってくるということになればです、これこそ輸入音楽、パクリみたいなものですよ。

実際にそうなのかはわからないですが。

こういう輸入音楽はネットなどを用い、できた時からその手の洋楽を聞いていた人にはやはり新鮮味が感じられないと思うのは当然ではないでしょうか?

それだけの理由ではありません、基本音楽家は売れれば地位が出来上がり、音楽ではなく音楽家に対してのファンが出来上がります。

新しいことをする必要はない、自分という型にはまり作る音楽は惰性的なものに変わってしまいます。なんか中身がないのです。

中身がないものというのはわかる人にはわかってしまうし、それで感動できるかと言われれば無理があります。

お礼日時:2008/08/23 20:41

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