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山椒魚は岩屋から出られなくなり、泳ぎ回っている蛙が羨ましくなって岩屋に閉じ込めてしまします。岩屋の中で山椒魚と蛙は喧嘩していますが、2年の月日が経ち、蛙の具合が悪くなり、最後に蛙は「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」と言っています。これって山椒魚が可哀想だと思って怒ってないといったのでしょうか。それとも、友達になったのでしょうか。

A 回答 (7件)

補足について。



文学作品にひとつの明快な答を期待するのは無理でしょう。
カエルが『今でも・・・』と言っているのは二年前も怒ってはいなかったという意味でしょうが、カエル自身が本当にそう思っているなら、この物語はなりたたないでしょう。対立や苦悩がなければ単なる童話になってしまうと思います。あの時も『今でも怒ってはいない・・』という妥協のシグナルを送ることによって、実りのない二年間の対立関係に終止符を打とうとしたと理解するのは無理がありますかね。

この回答への補足

明らかに悪いのは山椒魚ですからね。カエルは山椒魚のことを大人気ないとでも思っていたのでしょうか。カエルの方が山椒魚より大人なのかもしれません。カエルはいい子なのかも。そして、最後もいい子で終わるのでしょうね。ありがとうございました。でも、カエルも無念だったでしょうね。

補足日時:2002/12/16 20:17
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この回答へのお礼

話の流れから考えると2年目は静かになっていたので、最後の言葉で終止符。その通りの気がします。ありがとうございました。

お礼日時:2002/12/18 20:44

さだまさしさんの本の絶対温度の中に、そのお話がちょっと載っていました。


井伏鱒二さん、御年91歳の時。

さださんが聞きます「なぜ山椒魚に筆を入れるなんて事をなさったのですか?」
(ですから、No.6の方の言っておられる、記述がない方の話ですね)
井伏鱒二さんの答えです。
「あれはねえ、もし許されるのなら、全部書き直したいんですよ」
さださんは聞きます。「どうしてですか?」
井伏さんは「だってあれじゃぁ、出られないもの。これじゃどうしようも
ないもの。出られないもの」と何度も何度もおっしゃったそうです。
最後にはさださんに「だって、あなた、どうやって出すの?」と。

さださんは「出ることができない山椒魚に、僕らはいろんな事を教わって
きましたよ」と言いましたら、「そうかねぇ、あれは出られなくても
いいのかねぇ」と言ってくださったそうです。

回答になっていなくってごめんなさい。
けれど、そうやってkonnyakuさんのように色々と考えてみる
ための言葉なのかもしれませんね。

私の個人的な気持ちだけで答えたら、この蛙の事は怖いですね。
そんな事、うそでも、ましてや本気だったらなおの事、
私にはいえないと思うから。

この回答への補足

私はこの山椒魚は全く怖い話だとは思いませんでした。主人公が山椒魚だということで、なんか面白く感じてしまうのですね。井伏鱒二さんは山椒魚を外に出してあげたいと思ったみたいですけれども、私は外に出られないほうが山椒魚らしい気がします。カエルの言葉も本音と建前と考えれば、そんなに怖く感じません。きついとも感じません。山椒魚がカエルの言葉を聞いて涙することがあるでしょうか?私の感覚だとお友達になってしまった気がします。カエルの方は嘆息を漏らした後、山椒魚が「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」と聞いています。それに対しカエルは遠慮がちに「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」と言っています。???山椒魚はカエルが嘆息を漏らしたとき友情を瞳にこめてカエルに話しかけています。とはいえ、カエルは友情感じるわけないですかね。カエルはよく鳴くから喧嘩好きの感じがします。喧嘩友達なんてね。

補足日時:2002/12/17 20:45
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この回答へのお礼

私って蛙に近い人間かもしれません。もし傍にいたら怖がられるかしら?この本を読んで山椒魚と喧嘩をしているカエルは「ゲロゲロッ」って鳴いていて、嘆息を漏らしたときは本文で「ああああ」だったので「グワアッ~」って鳴いているのかなと思いました。その泣き声を考えると友達という風に思ったんです。面白い話、ありがとうございました。

お礼日時:2002/12/18 20:52

1985年に井伏鱒二81才の時に改変されており、この部分の記述はなくなっています。

(井伏鱒二自薦全集)
「更に一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。けれど彼等は、今年の夏はお互いに黙り込んで、そしてお互いに相手に聞えないように注意していたのである。」で終わっており、ご質問の文章は削除されているのです。

ただ、カエルのコメントは山椒魚にはかなりきついコメントだったような気がします。

この回答への補足

最後にカエルは嘆息をもらしてしまったので、最後の言葉はカエルの負けん気だったんですね。ありがとうございました。

補足日時:2002/12/17 07:38
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この回答へのお礼

後で最後の文は削られていたのですね。私は削られてないほうが好きです。ありがとうございました。

お礼日時:2002/12/18 20:46

どういう回答を期待されているんでしょうか。


「正解」が無いのは明らかですよね。
もう一度作品を最初から読んでみましょう。
最後の言葉に達した時、konnyakuさんは何を感じましたか?
ホッとしましたか?憤慨しましたか?
何を感じたとしても、そこにしか答えは無いと思います。
作者井伏鱒二の思いと違っていたとしてもです。

この回答への補足

お返事ありがとうございます。個人的考えを聞いています。人によってどのように受け取っているのか…。自分には分からないことでも、人の考えを聞いて、なるほどと思うことがあるもので、もしかしたら分からないことが分かるかなと考えて質問してみました。正解はこれだと、すぐ思いつく人もいるかなと思ったのですが…。作品を読み終えて経過はとても面白かったんですけれども、最後がはっきりせず、余韻を残すという意味では悪くはないのですけれども、他の人の感想も聞きたいと思いました。是非、また、読んでみてください。

補足日時:2002/12/16 18:49
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この回答へのお礼

読み終えて最後に感じたことは、内容を考えなければ、のんきな話しだと感じました。ありがとうございました。

お礼日時:2002/12/18 20:42

私はこう思います



山椒魚は外で自由に遊ぶ蛙に引き比べて自分の境遇を悲しみました
しかし、蛙は(途中いろいろ悩んだでしょうが)「何処に居ても、どんな身の上でも、するべき事はあるし、生きるに値する」という考えに達した
と言いたかったのではないでしょうか

人間至るところ青山あり
ですね

この回答への補足

ご返答ありがとうございます。『山椒魚』を読んで見ますと、下で山椒魚が悪党と化して見張っていたので、凹みに入った蛙は何もすることができなかったと思います。

補足日時:2002/12/16 17:45
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この回答へのお礼

「どんな身の上でもするべき事がある」そのように考えると山椒魚とカエルの喧嘩が当てはまるのかと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2002/12/18 20:39

『山椒魚』の有名なセリフですね。



山椒魚とカエルが仲良くなったという描写はないので、二年間の争いの末、どちらも疲れてしまい憎しみもなくなったということでしょう。つまり、凡人は自ら悟って和解することはなく、止むをえない状況になって初めて言動(考え方)を変える事が出来るということを示唆しているのかも・・・。神のように相手を理解し許すことはなかなか出来ないということでしょう。一見できるように見えてもそこには打算か、この物語のように諦めがあると言いたいのか・・・

この回答への補足

お返事ありがとうございました。一見、その通りだと思えたのですが、蛙は「今でも…」と言っているので、憎しみがなくなったわけではないと思います。

補足日時:2002/12/16 18:42
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この回答へのお礼

初めは諦めかと思ったのですが、よく考えたら友達になってしまいました。でも、2年目はお互い、大人しくなっていたので、やはり諦めでしょうね。諦めから芽生えた友情か?ありがとうございました。

お礼日時:2002/12/18 20:36

 これが問題集かなにかの設問だとしたら、模範解答が用意されてるんでしょうけどねぇ(^_^;



 しかし、俺は学生の時分から、この手の模範解答には懐疑的な見方をしていたので(そのせいかテストの点はいつも悪かったです(笑))、「蛙に訊かなきゃ分からん」というのが正解だと思います。
 実際、この質問文内には、蛙の感情を決定づける描写は何も描かれていません。
 よって、これだけでは蛙の感情を前者か後者か読みとることはできません。
 もしかしたらもっと別の感情があったのかもしれませんし(身体が健康でありさえすれば脱出できるルートを見つけた、あるいは怒る気力がもうすでにない、とか)。

 仮にこれがテストの問題だとすれば、出題した先生の顔色を見て答えるしかありません(笑)

この回答への補足

お返事ありがとうございます。国語のテストというものは、自分の考えを抑えて解答を書くことが、高得点に繋がるようで、国語というものは、書きたいことは書かない一種の忍耐力を養う学習なのかもしれません。確かにカエルに聞かないと分かりませんよね。

補足日時:2002/12/16 18:44
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この回答へのお礼

いろいろ考えましたが、カエルに聞かないと分からないみたいですね。ありがとうございました。

お礼日時:2002/12/18 20:31

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