秘密基地、どこに作った?

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織田信長が天下をとることができた理由はなんなのでしょうか??今川義元を桶狭間で倒したことで、どのように信長は力をつけたんでしょうか??(具体的に) あと、国力=兵力?=徴兵?となるとどの国にも天下をとるチャンスはあったとおもうんですが・・・なぜ浅井や斉藤家などは簡単に倒されたんでしょうか?
信長の野望なんかをしていると、今川家を倒したことで領土を得られますが、実際は家康が独立しただけで領土は得ていないように思うんですが・・・・。
あまり詳しくなく、色々質問してしまいましたが気になったので詳しい方教えてください。。

A 回答 (7件)

>今川義元を桶狭間で倒したことで、どのように信長は力をつけたんでしょうか??



桶狭間の戦いの結果と、信長が天下を取ったことに、直接の因果関係はないと思います。
義元を討ち取ったのが信長の勢力増大の足がかりとなったことは、他の回答者の方も言っているように否定はしませんが、桶狭間で勝ったがためだけに信長が天下を取れたわけではないです。

歴史にIFは禁物といわれますが、あえて仮定の話をしてみると、もし信長が天下を取っていなかったなら、桶狭間の戦いは今のように有名にはならなかったでしょう。歴史の教科書には載っていないか、載っていても非常に小さな扱いになっていると思います。
また、あの時点で義元が上洛せず信長に討ち取られなかったとしても、結局は信長が天下を取っていたかもしれません。
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桶狭間の勝利で信長は力をつけたわけではありませんよ。


桶狭間の勝利が無ければ滅ぼされていたわけですから、この勝利でまず
ゼロに戻したわけです。ただし東側に松平を置くことで東国武将との
戦闘を気にせず西側に進出できるようになったことは大きなプラスに
なります。信長は非常に苦労しながらも最終的には美濃の国を手にします。
美濃は陸の交通の要衝、尾張は海上運輸の拠点。この2つの地域を
支配下に置くことで商業を振興し、経済的に国力を伸張しました。
このことが信長が力をつけた最大の要因だと思います。
美濃の斎藤氏との戦いに勢力を傾けることができたのは東に松平という
防波堤を築いたからで、そういう意味では桶狭間の成果ではあるかもしれません。
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たいがいの場合 自国は盟主と盟友の関係でなりたっています ですから 場合によってはその関係を切って 他に関係をもつ そうして自家の存続を保ちます 盟主たるものの力がすべてです つまり勝手にいくぞとは いえない相互互助関係 動きがにぶい 野心の鈍さに等しい


信長は親父と違うのは この盟主と盟友の関係をトップダウンに変えるべくそれなりの思索をしたことでしょう ですから自国の掴握にずいぶん手がかかりました その間 今川に尾張の併合があれば つぶされていたと思われますね まだ武田北条との不可侵条約が出来ていませんので 動けなかった 三河は家康を人質に取られて今川の植民地になっていましたね
その植民地の三河が織田に侵略されないがぎり 早急な戦闘状態にならなかったようです
ある意味運がよかった もちろん信長は北条との遠近外交をやって
今川を牽制するのをわすれていません
今川を運よく倒しましたがまだ 東には武田北条の強国がありますので
それの盾として家康との同盟はこの時最善の策でしょう
美濃進攻は道三がいませんので 遠慮なく親父の悲願でもあった東へ矛を向けたようです
天下は取れていませんが いいとこまでいきましたね
親父とその親父がすごかったようで 津島や熱田に目をつけ その湊からの運上金がを財政基盤になったことと 湊はいろんな交易によって火薬等 武具の入手に有利にあったこと 物の動きから感覚的に商人的な目が養われたのでしょうか 銭で兵を補充する 少数でも いつでも好きなときにわりあいスピードをもって戦える あいては嫌ですよ 
いってみれば いままでの戦の慣習無視 
戦法として青田刈り 焼き払いして いやがらせ
次の年 その国のちからはずいぶん落ちますよね 農業中心だと この手でやられるのが いちばんつらい 完全な兵農分離とはいえないですが(秀吉の刀狩が完全なもの)銭で雇った傭兵の割合はおおかったとおもいます相手より少しでも多いように(こんな兵は極端に弱いでしょう) それでも相手の生産基盤を脅かしつつ 自国の生産力は落とすことないように 戦略した点ですかね 家来の一所懸命の宿性を 清洲 小牧山
安土とかえることによって 強制移住で 消し去ったこと
方面軍の編成とそれを遂行できる家来を選別配置できたこと
手に入れた土地の実質経営は直接管理したこと
他の何者にも既得権益を認めず 自由に商売住民管理をしたこと

余談ですが 家康だって 親父が健在で人質などならなかったら 人生重き荷物を背負いていくが如し なんて忍の性格にもならず 海のある三河ですから わかりませんですよね     
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『あなたに付いていきます』


という武士達の意志の集合体が戦国大名です。
で、この武士というのも、江戸時代(あるいは、信長の野望のゲームの中)のような、ハッキリしたものではなく、数十人のの親分だったり、数百人、数千人の村の村長みたいなものです。農民のようで武士のようで。

そして、『あなたに付いていきます』と思わせる実績を作ったものが大名となります。
国人階層の集合体(一揆)の親分が戦国大名と言うことになります。
前者の例としては、北条家の例が研究されています。後から見ると、北条家は五代にわたって継承されている戦国時代でも希有な事例ですが、先代が早めに形だけ隠居して息子である当主が実戦で功績を挙げることで継承が正当化されています。武家の棟梁原理とも言われているものです。
後者では、毛利元就がかなり後期になるまで「唐傘連判状」を作り、安芸の国の国人層と対等な立場であったことから分かります。

信長は桶狭間で今川義元を倒すことで、『この人に付いていって大丈夫みたい』と思わせることに成功したわけです。
織田勢力と今川勢は天文年間から20年以上戦っていたわけで、信長の功績はすごいわけです。

浅井や斉藤が簡単に敗北しなかったことはNo1の方のご指摘の通り。
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織田氏。


てんで話しになりません。
まるでお家の格が違うのですわ。^_^;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D% …

武田家ですら今川から正室を迎えるなどは夢のようでしたがようやく実現しました。

敵ではありますが、ある程度は婚姻などは
家柄、出世の証明となるなどの意識もありました。

中には今川こそ天下を治めるべき人と思う方もいたでしょう。
各国とも討ち死にの報を聞いて大慌てしたでしょう。
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まず、当時の大名は土地に縛られ、支配地から年貢を取り立てて生活をしていました。


家臣も小豪族の集合体であり、この殿様なら味方するとメリットがあると思えば従う、利害に反すると思えば裏切るという関係で、江戸期のような厳格な主従関係はありません。
織田信長は1代で天下を取ったように思われますが、体制を整えたのは父親の信秀で、彼は尾張西部の津島の支配権を握り、この港町からもたらされる富によって力を蓄えました。
他の大名は土地に縛られますから、農繁期には戦が出来ませんが、織田家は商業大名ですから農業に関係なく戦が出来、家臣を金で縛ることで、絶対的な主従関係を築くことに成功、信長の代になると、領地を簡単に捨てて、尾張清洲城から小牧を経て、岐阜城に移ったように、土地に縛られない領国経営が出来た。
他の大名、例えば武田信玄は甲斐の豪族たちの意向を無視すれば、信玄の父親のように追放され(事実、嫡男の義信との対立はこれが原因という説も)、支配権は盤石ではなく、豪族たちは領地に固執するので、天下取りは無理。
まず質問の浅井家は、信長を裏切ったのは朝倉家への義理と言われていますけど、ここで信長を倒せば、ひょっとすると信長に代わって天下人になれるという野望が無かったとは言い切れません。
斉藤家は、元々織田家とは仲が悪く、2代目の義龍はよく防いだというか、なかなかの名君と言っても良い人物で、3代目の龍興は信長によって家臣を凋落され、美濃を追われ、最後は朝倉の客将として、刀禰坂の戦いで奮戦して亡くなります。

>今川家を倒したことで領土を得られますが、実際は家康が独立しただけで領土は得ていないように

これはドイツのヒトラーにも言われることですが、ヒトラーの失策はポーランドを併呑したことにあると言われています。
独立国家にしておけば、ソ連(ロシア)の盾になりますが、併呑したことでドイツはソ連と直接対峙することになる。
信長も三河の松平氏を残したことで、東の盾が出来たわけで、十分メリットがあります。
早い話が、領土を得ない代わりに、西に対して全力を注ぐことが可能になったわけで、もし信長に天下取りの野望が無く、領土を広げるだけの目的なら、三河を隷属させたと思う。
今川氏を滅ぼさなかったのも、武田や北条、松平などの大名が喰っている間に西に向かい、中央部を獲るという考えだったのでしょう。
なお、今川義元は軟弱武士という印象ですけど、実際は兄弟間の内乱を生き抜き、周辺大名も手が出ない最強の武将であり、並の武士ではないです。
桶狭間は、上洛の為という説は薄いですけど、恐らく三河を完全に支配下に置いて、尾張東部を勢力下にするための前哨戦だったと思う。
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端的にいうと、同盟国を作りながら勢力拡大⇒上洛したからでは。



まず、桶狭間の後に、今川配下から独立した徳川と同盟を結ぶ。

その頃、織田は、美濃の斉藤家とも断続的に戦っていて
このときに、浅井と同盟を組んで、プレッシャーを掛けた。
その後、斉藤家をつぶして、織田は、美濃を手に入れた。
ちなみに、斉藤家が負けた一因として、自国内で内紛が発生。
自分からグダグダになった。

織田は、この後、上洛を目指す。
そして、いろいろ戦いがありつつも、足利義昭を将軍として擁立した
信長による政権が誕上。支配力を高めたという感じ。

ちなみに「簡単に負けた」という浅井は、上にも書いたように同盟関係にあった。
敵対した決定的な理由は、同盟国だった、朝倉に信長が攻め入ったこと。
そのときに、浅井軍は、信長軍の背後を突いて、あと一歩というところまで追い詰めた。
その後も、一揆集や本願寺や延暦寺といった僧侶を仲間につけて
信長包囲網を形成して、いいところまで追い詰めている。
負けそうになった信長は、当時の天皇に勅命を仰ぎ、長政に和睦を迫った。
天皇の命令では、浅井はそれを受けるしかなく、優位だった戦いを止めるしかなかった。
結局、信長は浅井と敵対してから、滅亡させるまで3年掛かっている。
とても、簡単に勝てたとはいえないでしょう。
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