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当時14,5歳だったんですよね
簾の奥に座らされてどんな気持ちで会議を聞いていたのでしょう
岩倉、山内、大久保などが激しい論戦を繰り広げたんですよね
怒号に近い大声も飛び交ったでしょう
わけもわからず最高位の席で大人たちの論争を聞いていて
恐くなったりしなかったんでしょうか

A 回答 (3件)

そのときの天皇(まだ即位されていません)のご発言やご様子についての記録がないと思いますので想像するしかないですね。


幸い、西欧諸国の外交官の回想録で、その会議後2ヶ月余り経った頃の天皇のご様子を知ることができます。

天皇が3カ国の公使を謁見することとなり、謁見前日の1868年3月22日(慶応4年2月29日)、伊達宗城、後藤象二郎がイギリス人宿舎を訪れ、謁見の詳細を打ち合わせています。
打ち合わせに出たアーネスト・サトウの回想によれば、
伊達ら二人は、「ミカドはこれまで皇居内の人びとのほかにはだれとも話をされたことがないし、わずか十日前に初めて諸大名に謁見を許されたような次第なので、公使たちに言葉をかけられるのは、いくぶん困難ではなかろうか」と、心配していたと書いています。

そして、予定より遅れて3月26日、イギリス公使パークスを謁見されています。
謁見の様子を陪席した公使館員・ミットフォードの回想によれば、
「そのときの天皇は、輝くような眼光と明晰な表情をたたえた立派な少年だった」
そして「まだきわめて年少でもあり、ようやく禁裏の女官らの殿舎からはなれたばかりの境遇だけあって、天皇はややはにかんでいるように見えた。ほとんど小声でささやくように話されたので、右側に控えた皇族が勅語を声高に繰り返し、伊藤俊輔がその通訳をした」と、書いています。
さらに、このとき天皇は、頬には紅をさし、唇は赤く塗られ、お歯黒で染められていたと書いています。

「禁裏の女官らの殿舎からはなれたばかりの境遇」と書いていますね。
この情報をどこから仕入れたのか知りませんが、当時の宮中が、公家と公家出身の女官によって支配されていたという事実を、外国人でも知りえたということですね。

「薄化粧をして結髪姿で女官に囲まれている天皇」のイメージが強いです。
そこで、1871年8月、薩摩出身で戊辰戦争を戦い抜いてきた吉井友実が宮内大丞として送り込まれ、宮中の改革例えば公家勢力の排除を断行しています。
このような状況から、小御所会議での天皇のご様子を想像していただけませんか。

参考図書
朝日新聞社刊・中山和芳著『ミカドの外交儀礼』
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>わけもわからず最高位の席で大人たちの論争を聞いていて恐くなったりしなかったんでしょうか



昨日まで健康そのものだった父・孝明天皇が逝去(暗殺説も多い)、急遽即位。直後に「王政復古」「倒幕」となりました。
孝明天皇と岩倉・三条の考え方は、180度異なっていましたから・・・。
当時の明治天皇は、全く政治に興味がなかったようですね。
#1の回答どおり、一度読んでください。

なお、明治天皇と徳川慶喜の会見時の記録も、回答に参考になると思いますよ。この会見後、慶喜は公爵となります。
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今手元にないので確認できないのですが、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)で彼が明治天皇について書いてあった事が参考になると思います。

戦前の人が聞いたらびっくりした事が書いて在りました。私が間違いでなかったら、戦前に出版された本ではその部分が消されていたはずです。
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