
戦国武将織田信長にしても他の武将もそうですが一度戦に破れても無事逃げ帰れば再度挙兵してリベンジをします。
そこで質問ですが人間はロボットと違いますから死んだら生き返りません。
当然、子飼いの武将は消えていきます。
散々に一族郎党戦死してもまたしても兵を集め挙兵します。
そんなに簡単に兵隊を補充できるものでしょうか?
仮に農民を強制的に一兵卒にしても人口には限りがあります。
それらはどの様に理解したらよいのでしょうか?
それと織田家臣団を例えにしますが羽柴、柴田、前田、丹羽、明智等々の武将は馬に乗って敵雑兵と切り結んだのは事実なのでしょうか?
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
近世以降の軍事のように、はっきりしないで、ぽわーんとしていたからです。
近世以降ですと、一応、専業武士ですが、その前は武士なのか農民なのか・・・極端な話成人男子は全部可能性としては武士になれる状況。
で、室町期などで村同志の戦いの場合は成人男子全員が戦闘員となっています。近江は太閤検地で77万石とかだったので、江戸時代の感覚で言うと、2万人ほどの兵を出せます。もっとも兵を出す基準が高いときで、一万石で500人なので、四万人ほどが近江一国で可能。
77万石はだいたい77万人の人間がいたと推定されるので、成人男子をかき集めれば、20万人くらいになります。まぁ少なく見積もっても10万人。すべての生産活動を停止して、軍事活動すれば近江だけで10万となります。まず、数字の理解がこれになります。
実際には、農作業を完全停止できないので、兵員として集められるというのが、1万石(一万人)で最大500人、遠征時で250人とかになります。(小田原攻めの豊臣方の徴兵率がこの辺)
戦国時代がぽわーんとしているのは、大名がすべての武士というか人間を掌握していないことから来ています。一つには、在地領主を通じての間接支配であったこと。さらに在地も大名領国図のように、きれいに分かれていたわけでなく、どっちつかずであったり、両方に使えていたりしています。古文書で同時代に二つの領主に年貢を出しているところも発見されています。
また、実際の戦闘の殺傷率も、ご指摘の姉川の戦いで、大敗した浅井・朝倉で18千人が18百人。一割程度で、それほど高い殺傷率ではありません。
以上 一般論終わり
浅井・朝倉の例
姉川の戦い 1570年6月
18千人の動員で、敗北
志賀の陣 1570年 9月から
30千人の動員で 勝利
一つには、上で書いたように、一割程度しか殺傷されていなかったこと。
二つ目は、志賀の陣では、朝倉が前より多めに兵員を出したこと
三つ目は、二つ目とも絡みますが、農繁期が終わって事があります。冬の出稼ぎとして近江近在の農民が参加したことが考えられます。
回答を詳しく記載して頂きましてありがとうございます。
石高に応じた兵員数はおおよそ知っていましたがtanuki4u様が記載された様にわかり易く記載されますと本当に理解できます。
農繁期と農閑期を考えからすっかり抜け落ちていました。
目からウロコが落ちた気持ちです。
どうもありがとう。
No.6
- 回答日時:
テレビや歴史読み物 小説の影響でしょう
おわかりのように時代は今でなく 徒歩の世界です
簡単に補充できたのではなく 補充する感覚じゃないんですよ
大体直属の武士団(馬廻り小姓戦闘集団)を数多く持った大名は信長以外に見当たりません
戦はすべて位取りで数で押していきます 数で将棋でいえば歩を四筋に上げて自陣の巾を取るでしょう 相手に圧力を掛けます(同時に裏で調略) 軍構成は大体は盟主盟友(各地の大小の国人地侍)の集合関係ですから 篭城の場合は一時避難のために城に篭り 敵が撤退するまで待ち攻撃を受けた場合は それぞれの受け持ちで 勝手に戦います 今風の常識的な綿密な相互情報共有はなかったといえます
また他国への出兵は相互の利害関係が合えば協力します(飢饉災害 異常気象等で他国への略奪が目的ですから) ただし錬度の高い軍展開(鶴翼とか魚燐とか まったくのことです)は自国他国の戦いにかかわらずできませんし
下世話にいえば 盗賊夜盗働きですよ あんな命令通達なんてテレビの世界です 日本は公地公民制ですから 土地は朝廷将軍から預かるという形ですから 権威からの集合命令があれば(大儀名分)契約ですので 一応しぶ゜しぶあつまりますが
他国者同士ですので 連携プレーなんて蚊帳の外です
それでも頼朝の九州征伐のとき みんなでなんとか行ってますから
もとは武士ですから どう動けばいいかぐらいは わかったんでしょう
でも自軍がすこしでも押されだしますと すぐに崩れますよ
死傷者が一番発生するのは 相手が逃げ出すときなんです
野戦それも 大野戦なんてどこであったの? おもっています
野戦は双方が敵を策敵捕捉できない場合の遭遇戦なんですよ
通常はお互い向かい合って動きません 大怪我しますので
そんなに勇ましいことなかったと 私はみてます あなたはどうですか
乱戦なら生きるために死に物狂いでしょうけどね
信長の親父信秀の三河の小豆坂の合戦も この例です 敵将の大原も
ぜんぜん相手の位置がわからない 桶狭間もそうです 巷で言われるよな信長の強力な情報収集能力の勝利とかね ビジネス書に多くみられましたね まったくのこじつけです 時代は今でなくて 戦国ですよ 徒歩ですよ 村々は自衛団組織 よそ者がウロウロできませんし 間違いなくすぐ殺されますね
信長は津島神社の御師を組織していますので 津島信仰はわりあい各地伝わっていましたから その目的での諜報収集移動は可能で
その意味で多少信長は有利
信長公記にたびたび出てきますが 信長の供廻りの者7,8百なっています 親衛隊です トップダウン命令一発ですよ瞬時 ここが他の大名とくらべてダントツ 盟主盟友の関係では ここで時間がかかるわけです
相手かぐずぐすしているまに やっちゃうわけです
もちろん相手が大同団結しないようにして 各個に攻撃してつぶすには十分な兵をもっていたんですよ 信長はこの7,8百で村木攻めしてますし美濃の加勢は留守番です 国内戦はほとんどこれです
もちろん上洛戦のときは 将軍の権威を使って その他大勢(美濃近江衆)を集めて
最初にかきましたが 位で押しに押していきましたね でもここでもその他大勢には見学ですよ 数が後ろにあれば あいては戦わずに逃げます 戦いはほとんどこの方式 乱捕りさえなければ比較的平和的なんですよもともと
あなたのお考えのような疑問
兵の補充 そんなに死にません ので 人工減少問題なし
上のような直属戦闘集団7,8百戦術で 現実信長は勝ちあがっていったんですよ 信長公記 いちどよんでください
桶狭間がたんなる国境線の紛争戦だったこと 国境において信長の圧力が今川を圧倒しつつあったことが 義元が出ていかなければならなくなった経過で 上洛なんていったいどこから出てきたのですよ それでもお互い双方の所在をつかんでいなかったこと 奇襲とか迂回とか情報戦とか そうじなかったことがよくわかりますよ
以上を踏まえて 戦国の戦いを創造してください
信長の家来は親衛隊(武家の2,3男またはどこの馬の骨)を含み家来衆も 初期の国内戦では 結構乱戦経験者です
信長はいつも正面突破派ですから(国内戦も他国戦も戦いのすべて一環しています) 後ろでうろうろしていたら 信長に切られていますよ 歴史は正順でみてください まちがっても 平成から下っていきませんように
丁重な回答をありがとうございます。
TVドラマや映画は視聴者や客を飽きさせない為に面白おかしく作り上げますね。
その印象が心に残っていて勇ましい騎馬戦等々思い描いてしまうのでしょう。
信長公記の現代語訳を乱読はしましたが一度熟読をしてみます。
後方でウロウロしていたら信長に斬られるとのtasukarima様の例えは笑ってしまいました。
No.4
- 回答日時:
越前朝倉攻めは負けたから逃げたのではなく、浅井の裏切りを知り不利を察知したから撤退をしたのです。
秀吉らの働きで撤退戦にも成功しています。設楽ヶ原で不利を察知しても撤退しなかった武田勝頼とはたいへんな違いです。
不利な状況で戦って負ければ大損害を受けますが、不利を察知した段階で戦いを避けるようにすれば大損害は受けません。
戦いがうまい武将は、不利な戦いは逃げてでも避け、常に有利な状況で戦います。織田信長が不利な状況で戦ったのは、桶狭間の戦いだけでしょう。
No.3
- 回答日時:
まず、一族郎党がほとんどなくなってしまってから再起した例はほとんどないでしょう。
あったとしても、何年もかかって再起した場合でしょうね。しかし、一族郎党の何人かが戦死したとしても、被害が甚大でなければ再起することはできます。
あなたの思う武将が負けた戦いでどのくらいの武将が亡くなり、どのくらいの武将が生き残ったのか確認してみてください。
なお、ただの一兵卒は多くの場合惨敗と見たら分散して逃げてしまいます。勝ったほうの武将も、相手が名のある武将ならば手柄になるでしょうが、そうでなければ一兵卒まで全滅にするつもりはないでしょう。
お答えありがとうございます。
詳しい事はわかりませんが1570年6月に浅井朝倉両軍が織田徳川両軍に姉川の合戦で大敗を喫しています。
それが石山本願寺に呼応して本当かどうか兵員数3万で浅井朝倉両軍が近江坂本に出陣しています。
たった3ヶ月で大敗した軍団がこの様な事できるのでしょうか?
昔の記録ですから勝者に都合のよい事が列挙されたとは思いますが・・・
No.2
- 回答日時:
その通りです。
しかも農繁期には徴兵が出来ないなど一般の戦国大名は頻繁に軍事行動をすることが出来ませんでした。一方織田信長は初めて傭兵にちかいものを導入しました。その結果、何回も戦争を行うことが出来たのです。もちろん、お金で雇う傭兵軍団は志気が低く、軍としては弱いのですが、他国の農繁期に攻められるなどメリットも多かったようです。そのため、織田信長は安土を中心として、経済を発展させ、財政力をつけなければ軍事において勝てませんでしたがw
No.1
- 回答日時:
だから残党を集めて再挙兵しても、
ほとんど失敗しているわけです。
成功例はほとんど皆無と言っていいでしょう。
南北朝時代にいくつかある程度。
しかもそれは在地の荘園が残っているからで
被官の家臣筋が、頭領の血統を尊び、それを擁いていったからですが
戦国時代に実力主義の下克上が始まると、
当主が力を失ったとたん、在地被官は独立をするか、
身の安全のために近隣のより強い大名の配下にはいるので
もはや再度挙兵する余地もなくなります。
領国の経営の方法も、南北時代と戦国時代では全く違う。
戦国時代にも遺児や遺臣が挙兵した例はありますが
ほとんど皆殺しになっています。
武田家の末路なんかが典型的。
後ろ盾がある場合も、傀儡として扱われるので
用が済んだらポイ捨てで、歴史から消えていく。大友、大内あたりがそう。
ま、ゲームなどではイベントとして単純化されているだけで
現実の世界のそれではありません。
別の質問でしょうが、
集団戦では、それぞれ役割がある。
実際に戦うのは侍大将クラス程度で、それ以上の部隊長は
指揮する役割で、実際に槍働きは滅多にしません。
羽柴、明智、柴田、丹羽、佐久間あたりも、
若い頃は槍働きをしていますが、出世をしてからは
そんな仕事は部下のすることになっています。
ま、指揮官の役割は指揮統制ではありますが、
状況によって、例えば、身の危険がある場合などは当然武器も使います。
あたりまえに。
早々にご丁寧な回答をありがとうございました。
caesar-x2様のように詳しくはないものでTVや映画の中の日本史しか知らない者です。
不思議に思う事例の中で1570年6月に浅井・朝倉両軍が織田徳川両軍に姉川の合戦で大敗を喫しました。
それがその年の9月に石山本願寺に呼応して本当かどうか兵員数3万余で浅井・朝倉両軍が近江坂本に出陣しています。
そして織田信治・森可成など織田方が討ち死にしています。
これがたった3ヶ月前大敗した軍隊に出来る事でしょうか?
不思議です。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
-
56歳独身男性です。 オナニーが...
-
「づつ」と「ずつ」はどちらの...
-
課題の反対語
-
歴史的仮名遣いでの小文字表記...
-
「わいうえを」とか「やいゆえ...
-
「いずれか」と「いづれか」ど...
-
中国人の脚の長さ が、気になり...
-
過近代的って?
-
「幼少」ということば
-
人名で「かほり」で「かおり」...
-
平安時代の寝殿造り.....冬はど...
-
「1に何々、2に何々、34が無く...
-
歴史的仮名遣いの「む」
-
夜着に使っていた白い着物の名称
-
歴史上の人物で誰が好きですか
-
戦後教育でなぜカタカナから平...
-
行って見たい、は正しいですか?
-
睾丸を利用した拷問
-
地方の言語でしょうか?
-
好きな人が神社、お寺巡りが好...
おすすめ情報