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ウィキペディアには次のように記述されています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB% …

大槻玄沢門下の稲村三伯が蘭和辞典の必要性を痛感し、編纂活動を開始した。稲村三伯は、長崎通詞で西善三郎の遺志を継いで編纂事業に当たっていた石井恒右衛門を紹介され、フランス人フランソワ・ハルマ(François Halma)の「蘭仏辞書」(1729年)の日本語訳を作る要領で蘭日辞典編纂に取り組んだ。この事で膨大なオランダ語の単語をABC順に並べる手間が、そっくり回避できたのである。稲村三伯の他、同じ大槻玄沢門下の宇田川玄随、岡田甫説が参加した。

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この文章から判断すると、日本人研究者は、日仏辞典をもとに、日蘭辞典を作成したことになります。

質問1.

すると、当時、すでに日仏辞典は出来上がっており、フランス語も話せる学者が多かったということではないでしょうか。

質問2.

「蘭」という言葉は、国の名前では、「和蘭」と「仏蘭西」と両方の省略と考えられます。当時、あえてこのような紛らわしい略称を使うのは奇妙に思えます。

明確に区別するなら、まだ、「和蘭」学としたほうがすっきりしたと思います。

当時、「蘭学」は、この両方の国の学問を総称して「蘭学」と言ったということは考えられませんか。

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よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

・なぜフランス語を話せる学者がひとりもいないのに、『蘭仏辞書』が日本にあったのですか。

なぜ『蘭仏辞書』だったのかについて、明確な回答をお願いします

 例えば、(おそらく日本人の使用した最初のフランス語辞典)前野良沢は、長崎留学時にマリン仏蘭辞書を入手しました。彼は勿論、フランス語などできない。ただ、蘭語に蘭語で詳しい注釈がついていた。そこで、蘭蘭辞書として利用することにした。蘭語「日暮れ」を引くと、蘭語で、「一日の終わりの部分なり」と注釈がつく具合であった。

 フランス語は、現在の英語以上に外交通商には不可欠な言語なので、当然、出島のオランダ商館員も、蘭仏辞典・仏蘭辞典用いていました。蘭学者たちは、商館員や出入り商人から、それらを購入しました。
鎖国されていて、海外の科学技術者とはシーボルトなど例外的にしか接触できない当時、オランダ商館から購入する洋書は、辞書に限らず大変貴重なもので、長崎でも江戸でも、高価で稀有なものでした。

 フランス語部分は、ほとんど解読できないけど、
オランダ語の見出し、a から最後まで書き出して、日本語訳見つけたら
vooruitsteekende のところに うず高い  と記して
蘭和辞典を作成したのです。

No2様、はは、確かに蘭学者や蘭癖の人は、仏蘭西は、知っているでしょうね。普通の庶民が蘭学や蘭を見て、和蘭の蘭か仏蘭西の蘭か迷うようなことは、ないでしょうということでした、ゴメン!(^^)!

※的外れな回答ごめんなさいね。家にある「蘭学事始」と「風雲児たち」だけでは、ご不満なようなので、昨日、図書館言ってきたけど、同じ結果しかでませんでした。ゴメンネ(@^^)/~~~



私は、英語を話します。英仏辞書を使ってオランダ語を和訳することはなんとかできます。第二外国語から第三外国語を学ぶ者は通常この手順で語学の領域を広げます。

なぜ『蘭仏辞書』だったのかについて、明確な回答をお願いします
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1)同じウィキペディアの別項

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5% …
「辞典の作成方法は『ハルマ和解』と同じく、『蘭仏辞書』(Nieuw Woordenboek der Nederduitsche en Freansche Taalen. Dictionnaire Nouveau Flamand & François, 第2版、1729年出版)のフランス語部分を無視し、アルファベット順に並んだオランダ語にひとつずつ日本語の対訳をつけることで効率良く辞書の体裁を整えた」
との記述があります。遺憾ながら指摘は的はずれの一言に尽きます。
「ウィキペディアの解説は必要ありません。日本語は十分理解できます」ねぇ。

2)考えられません。「蘭」は、「仏」「独」「伯」「墨」同様、ある国を指す語として使われています。
例えば「日蘭和親条約」とか、「蘭印」とか。
#フランスの存在を当時の蘭学関係者が知らないとは思いませんが
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問1.



すると、当時、すでに日仏辞典は出来上がっており、フランス語も話せる学者が多かったということではないでしょうか

日本におけるフランス語教育のパイオニアである最初のフランス語学者は、幕末 ・ 明治前期に活躍した村上英俊です。もともと蘭学者であった村上英俊は、佐久間象山のすすめでフランス語を習得しはじめたと言われています。彼は、当時近代国家をめざしていた幕府や明治政府の政策に、フランス語研究と指導、フランス語翻訳、フランス語辞書編纂等に従事する形で大いに貢献しました。

ですから、村上の活躍する、はるか以前に「すでに日仏辞典は出来上がっており、フランス語も話せる学者が多かったということ」は、ありえません。

ウィキペディアには次のように記述されています。



作成方法は『蘭仏辞書』のフランス語部分を無視し、アルファベット順に並んだオランダ語にひとつずつ日本語の対訳をつけることで効率良く辞書の体裁を整えた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5% …

この事で膨大なオランダ語の単語をABC順に並べる手間が、そっくり回避できたのである。

※これは、蘭学史の本には、たいてい、出てきますよ。みなもと太郎の「風雲児たち」にも出てきた有名なエピソードです。
なんで、蘭和辞典よりさきに仏和辞典が完成していたということに、ばるんでしょう(@^^)/~~~

質問2.

「仏蘭西」と両方の省略と考えられます。

考えられません・・・「仏蘭西」は仏(佛)ですね。仏文学とかいうでしょう。
当時、阿蘭陀(和蘭)や蘭学という言葉知っている人でも、仏蘭西という国あること知っているのは、あまり、いなかったでしょうし(@^^)/~~~

この回答への補足

すみません。回答になっていません。

どなたか、的確な回答をお願いします。

どうして、日本人学者が『蘭仏辞書』をもっていたのですか。世界には、「中蘭辞書」「英蘭辞書」「独蘭辞書」・・・・など、あらゆる辞書があったはずです。なぜフランス語を話せる学者がひとりもいないのに、『蘭仏辞書』が日本にあったのですか。

私は、英語を話します。英仏辞書を使ってオランダ語を和訳することはなんとかできます。第二外国語から第三外国語を学ぶ者は通常この手順で語学の領域を広げます。

なぜ『蘭仏辞書』だったのかについて、明確な回答をお願いします。ウィキペディアの解説は必要ありません。日本語は十分理解できます。その上で質問しています。

的外れな回答はご遠慮ください。

補足日時:2009/05/04 23:47
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