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人間の脳はもっと記憶力があってもいい。
最近、そんなことを思います。
とるに足らない思考を忘れるのはまだいいですが、
ときには大切なことも忘れてしまいます。
そのため学習を反復しなければならないし、
同じ失敗を繰り返してしまうことになるのだと思います。

こんなことをいうのは傲慢だと自分でも思うのですが、
もし記憶力がもっとよければ
自分の人生の探求にもっと時間を使えると思います。


神様がいたとしたら、
なぜ人間に忘却というものをつくったのでしょうか?

つたない質問文でわかりにくいかもしれませんが、
ご解答よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

 全て覚えていたら、きっと気が狂ってしまうからだと思います。


 忘れることは大切なことです。

 いつだったか読んだ本の中で、
 「記憶はなくならない、忘れているのではなくて、思い出せないだけだ」
 という言葉があります。
 だからふとした瞬間にいろんなことが思い出されたりもするのだと思うんです。

 良いことも悪いことも、全て覚えていたら、人はきっと過去にしか生きられないから、だから少しずつ薄れていくようにしたんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

最終的に自分の中で、
「忘却とは今に生きるために必要なもので
忘れらない人間がいたら過去に縛られてしまう。」
そんな感じでまとまりました。

みなさん、ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/29 16:12

「過去世の記憶と永遠の生命」



イエスは言われています「死者に死者を葬らしめよ」この意味は棺を担いでいる人々も過去世の記憶を持っておらず、半分、死んでいるという意味です普通人の90%以上の人々は、自分の過去世の記憶を思い出すことが出来ません。この事は前世においても心と宇宙の意識(叡智、命、神、魂、潜在意識)との分離があって、心だけで生きていたからです。宇宙の意識は本人の過去世からの永続部分で過去世の記憶を保っているのです。

御自分の過去世からの数々の記憶を思い出し永遠の生命を得たいと思うなら心のエゴ(貪欲、利己主義、怒り、支配欲、憎悪等)を取り除き宇宙の意識と融合して宇宙の意識の過去世の記録の部屋のドアーを開けてもらわねば、なりません。そうしなければ前世の記憶を思い出すことは不可能です。永遠の生命を得るには宇宙的な過去世の記憶を培養する事が基本になります。イエスは「私はこの世にいるが、この世から出たものではない」

又、弟子達の事も「彼らもこの世の者ではない」と言われています。彼らは他の惑星からの教化の為の転生者で、あったのです。イエスは御自分の宇宙の意識と心を融合をされていましたので御自分の過去世の記憶を保持されておられたのですし、弟子達の過去世も過去世のの透視で見抜かれていたのです。私達も自己の宇宙の意識(神)に対する強い信頼と確信を持たねば、なりませんし生涯の伴侶として共に暮らさねば、なりません。

心のエゴ(不和、分裂、非難、貪欲、利己主義等)を捨て去り、心の意志を空しくして、御自分の宇宙の意識の意志や指示(直感、映像、警告、閃き、衝動、アイデアー等)に委ねるのです。そして宇宙の意識眼で見る事です。(注意、警戒感を持って見る事)そして心は宇宙の意識の完全な召使になり発達進化して行くのです。そうすれば過去世の記録の書が貴方の脳裡の映像として思い出されるでしょう。ある時は寝室でうつら々している時等に脳裡の映像として蘇るでしょう。

この事はイエスが言われた「自分の生命を失う物は永遠の生命を見出すであろう」の意味です。この事は永遠の生命を得ようとする時や過去世のの記憶を得る時に重要な事柄です。私達は今生で初対面の人と会った時に何故か親密に感じたりする事が、ありますが、これらの印象は過去世の生涯での親しい親族や友人や知人等である場合が多く、又、旅行等で初めて行かれた場所なのに何故か以前から知っているような場所や建物等の記憶は真実の

過去世(宇宙的)の記憶です。それは貴方の魂や潜在意識(宇宙の意識)がその事を記憶しているからです。又、世界の民族音楽や衣装、建物等でも前世の記憶の映像の断片を思い出すことがあります。私は個人的に自分の過去世の生涯を約20回ほど、記憶を思い出しました。
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それはですね。



人間は其処まで強くないから。
生きてから死ぬまでその何十年何千日という毎日の記憶をしっかりと留めておくことは、確かに便利かもしれません。

しかし、それは嬉しいことだけじゃない。
悲しいことも苦しいことも辛いことも全部纏めて脳内に残る。
それを一生抱えるのってキツイですよー?
人は小さいですから、もしかしたらその重みに耐えきれず自分で死ぬ人もいるかもしれない。

忘れるというのは神様が人間にくれた最後のプレゼント。
生きるためのプレゼント。

以上主観で失礼しました。
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人は時間に逆らうことは出来ませんよ。

良くも悪くも記憶を洗い流してくれるありがたいものです。もしも忘れるのに支障があることがあるならノートとかに書き込んでしまえばあとは心のタンスの引き出しを空にしてもいっこうに構わないのではないでしょうか?荷物は持っていてもしょうがないですよ。人は生きていますから必ず変化していきます。新しいことを取り入れるためにも古いものは風化していくのは自然ではないでしょうか?
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人間にはこれ以上記憶量はひつようありません。


もっとも重要なのは、理解すること。認識することです。
そのためには、記憶も少し必要となります。

記憶には
長期記憶と短期記憶があります。
記憶が長期記憶に移行するとなかなかわすれません。
しかし、短期記憶はどんどん忘れていきます。
そうしないと、次の記憶が入らないからです。
忘れても良いほど重要ではないからです。
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こんにちは。


「忘却」といいますのは、これは与えられた機能ではなく、現時点では「記憶の限界」と解釈する以外にないと思います。
「海馬」の機能が発見されてから百年が経ち、「学習」の研究というのはたいへん進みましたが、未だ「忘却」に就きましては全くと言って良いほど解明されていません。このため、「忘却の生物学的意義」というものが定義できない以上、残念ながらそれが「必要な機能」であるのか「必然的な現象」であるのかに結論を出すのはちょっと無理です。
ですから、神様が我々に忘却を与えたかどうかというのは分りません。ですが、ひとつだけはっきりとしていますのは、この世の全ての創造物には必ずや「限界」というものがあり、それを決めたのは神様であるということです。

人類に与えられた脳は約1400グラム、当然、学習能力には物理的な限界があります。これに対しまして、「忘却」といいますのは「機能的限界」に当たります。
記憶というのは思い出せないだけなのか、あるいは時間が経てば消えてしまうものなのか、この辺りもまだはっきり分っていませんが、ですが、何れにしましても、それは必ず再生できるというわけではありませんので、我々の脳にはコンピューターとは違い、「記憶情報の運用に機能的な限界がある」というのは紛れもない事実です。そして、また最もややこしいのは、我々は自分の脳でありながら、この記憶機能というものを思い通りに操ることができないということです。

例えば、学校で習ったことはいとも容易く忘れてしまうのですが、先生に叱られたことは何年経っても憶えています。もちろん、我々にとっては授業で習った情報の方が重要なのですが、記憶というのが自分の思い通りならないものであるというのは多くの経験上明らかです。
これは、我々の脳内で「記憶に残されるべき情報」というのは自分の希望や人間の価値観によって選別されるものではなく、「恐怖」や「報酬」といった生物学的利益に基づく情動判定によって無意識に決定されるものであるからです。
覚えたいことを憶え、忘れたいことを忘れる、これが自分の意志で自在にできるならば脳の記憶容量が足りないなどと言うひとはまずいないと思いますし、有用な情報だけを選別して蓄積することができるならば極めて効率的な運用が可能となります。ですが、神様は我々にそれを許しませんでした。どうしてでしょうか。

学習の生物学的意義というものを考えますと、神様が我々に与えたのは、それは人生を探求するための機能ではありません。我々に与えられたのは「生後環境に適応し、生物学的利益を実現するための機能」です。
そもそも目的が違うのですから、人生を十分に探求するために記憶能力が足りないと言いましても、これは仕方がありません。学習といいますのは、人間が動物として生きてゆくための飽くまで補助機能なのですから、それ以外の欲求を達成させるため、例え人類がそこに膨大な知識を必要としなければならないとしましても、これは神様の責任ではないと思います。

何処の国へ行きましても、「全知全能」を与えてくれる神様というのは見当たりません。人間を万能にしてしまったら神様の立場がないからです。
我々には記憶を自在に操る能力は与えられていませんし、忘却は古くから人々の向学心を悩ませてきました。活字の発明と共に書籍や図書館といった「外部記憶」が生み出されたのはこのためです。これにより、人類は忘却を克服しただけではなく、「広域情報伝達」や「世代間情報伝達」を可能にし、全世界及び子々孫々に渡る確実な「記憶の共有」を実現しました。
この、身に付けて有り余る膨大な知識を前に苛立ちを覚える質問者さんのお気持ちは良く分りますが、こればかりは焦っても仕方がありません。結局、人間そのものは万能ではありませんから、ここは一つひとつ地道にゆくしかないです。
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記憶力はもっとあっても、単位時間あたりの処理能力には限界があります。


分厚い百科事典で調べるのと、コンパクトな辞書で調べるのと、どちらが実用的でしょう?
不要な知識を忘れて、有用な情報だけの中で処理する方が、より大きな成果が得られるのです。
若いうちは感受性が強くてアンバランスな過激な行動をとりがちなので、
数学や物理学などの学究的な分野に秀でるのに対し、歳をとると使わない記憶は
どんどん忘れる代わり、バランス感覚が優れてきて、政治や経営に向いてくるようなものです。
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世の中には異常なほどの記憶力の持ち主がいて,その記録が残されています。


彼らの人生がいかに困難なものであるかを知れば「忘却力」の重要性がわかるかもしれませんよ。

■忘れられない脳/記憶の檻に閉じ込められた私
 ジル・プライス,バート・デービス(著),橋本碩也(訳)
 ランダムハウス講談社

「超記憶症候群」と名づけられた最近の症例。
私もこれから読んでみます。

■ルリヤ/偉大な記憶力の物語/ある記憶術者の精神生活
 アレクサンドル・R・ルリヤ(著)
 文一総合出版

こちらは心理学史上の古典。残念ながら絶版です。
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人間の脳は進化して今の形になっています。

その結果物事を忘れることが多々あることは、忘れてしまっても生きていくことは十分できるということです。もし人間が全ての物事を記憶していかないと生きていけないようなら、脳がそういうふうになっていたでしょう。
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不必要な記憶とか害のある記憶もあるから、徐々に薄れていかないと脳の中が散らかったままになりますよね。


知識を一方的にガシガシ詰め込むと、一時的に判断能力が落ちるんですけどそういう経験はないですか?
知識はそのままでは役に立たなくて、経験に裏づけされた強弱とか優先順位とか統合があって始めて役に立ちます。
もし知識が沢山あれば優れているのであれば、コンピューターや本 (図書館?) はあなたより能力が高いことになります。

で、知識を覚えているべきか忘れたほうがいいのかは意識しない学習機能として繰り返しがあるわけですね。これはこれで合理的な仕組みなわけです。しかし、それよりも感情と連動した知識の吸収度合いのコントロールがあったほうが高い能力を発揮できるわけです。これが海馬の仕組みですね。失敗したら記憶がいい訳です。そのときの失敗の捉え方が大きければ大きいほど効果が高いわけですね。

さらに人間の場合、前頭葉で意思を持つことによって記憶をコントロールできるわけです。それに加えて自ら「勉強する」という行動によってより洗練された学習が可能になるわけです。

ところで、失敗の捉え方そのものが間違ってることはありますので、失敗して一回で記憶されてしまうと不都合なこともあります。PTSDなんてのはその一例ですね。
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