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私は現在大学一年生、女性です。自分の生き方、人との関わりについて質問させてください。

私はとても虚栄心の強い身勝手な人間です。普段は表面的には穏やかで、親しみやすい人を演じています。けれども私が自分で気づかないだけで、誰かを傷つけたり、うわべだけの感謝が相手を踏みにじっていることがきっと多かろうと思います。自分を守ろう、守ろう、とう意識からくる見かけだけのやさしさだからです。

私は自分に無い”無償の愛”というものに強い憧れがあります。読書経験は浅いのですが、灰谷健次郎さんの「兎の眼」のような、人間の優しさ、揺らがない芯の強さを描いた作品が好きです。

が、私自身はいつも自分が他人にどう見られているかが最大の関心事になっています。それは自分の弱さのせいだとおもいます。人に優しくすることよりも、自分を演出したい、尊敬されたい、かわいがられたい、という承認欲求が先行してしまいます。

そういう自己顕示欲を逆に武器にし、技能を磨いて一芸に秀でた人間になるという手もあります。ただ、自分が、自分が、という心の飢餓感を生きる原動力にするのは考えるだけでも虚しいです。と同時に、その虚しさが、いつか自分の能力が評価されたときの突き抜けるような快感を彩るため欠かせないのかもしれないです。

(個性を発揮して生きている方がエゴイストだと考えている訳ではありません。純粋にその分野に魅せられ、身を捧げている方は大勢いらっしゃいますし、そのこと自体は大変尊いことだと思います。ただ自意識過剰な自分に置き換えると、虚栄心からくる向上心になってしまい虚しいのです。)

自分が評価されることを念頭に置いてしまったら、同じ道を志す人は皆自分の存在を脅かす敵に見えてしまうのです。ライバル関係と友人関係を両立できる人もいますが、私は自分と同じような自己顕示欲に飢えている人と円満な関係を築くことができません。利害の衝突が怖いからです。名誉とか賞賛とかに無頓着な人であれば、どんなに高い能力を持っている人であっても嫉妬せずに付き合えることができるのですが。

自意識とは無縁の人もいます。高校時代の友達で、文武両道、周りに流されず凛としていて、公平無私で分け隔てのないとても尊敬できる人がいました。また、別の友達で、その子は周りからは天然、天然と言われてましたが、裏表がなく絶対相手に見返りを求めない献身的な人柄で、その子に会えただけでその学校に入ってよかった、と思えるような子がいました。私はひねくれ物ですが、彼女たちには心を開くことができました。人間の価値について考えるきっかけをくれました。

一生をかけてなにかするなら、誰にも負けない”一芸”を身に着けて人々の脚光を浴びる、そういう輝かしい人生に凄く憧れます。それは、高校時代美術部で絵を描いていたときにものづくりの楽しさに目覚めてから、なにか人には負けない特技が欲しいとずっと大事にしている感覚です。

また、人のために何ができるかだけを考え、人のために何ができるかを常に追い求めるのも美しい生き方だな、と思うのです。過去に出会った友人との交流や、本などで感じた人間のやさしさ、あたたかさ、心の清らかさは何にも代え難いもののようにも思えます。

前者は個人として輝いている生き方で、後者は人のかかわりの中でかけがえの無い存在になる生き方だと思うのです。

まったく次元の違う話なので比べるのが難しいです。

言いたいことがまとまっていなくて申し訳ありません。世の中のことをわかっておらず曖昧で雲を掴むような問いだと思います。

どのような観点でもいいので、皆様のご意見を伺いたいです。よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

>私は自分に無い”無償の愛”というものに強い憧れがあります



これはあなたが「子を持つ親」になれば経験できると思います

>承認欲求が先行してしまいます

自分に自信がないという事でしょうか?

>同じ道を志す人は皆自分の存在を脅かす敵に見えてしまうのです

同じ道を志す人は「最大の理解者」になれる人達である事を忘れずに

>一生をかけてなにかするなら、誰にも負けない”一芸”を身に着けて人々の脚光を浴びる、そういう輝かしい人生に凄く憧れます

人生は他人と比べるものではありませんから「ナンバー1」より「オンリー1」を目指した方がよいのでは?要するに「誰にも負けない」ではなく「誰にも真似出来ない」の方を
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この回答へのお礼

>これはあなたが「子を持つ親」になれば経験できると思います
はい。わたしは子を持つ親ではないので本当の意味で親心はわかりません。親の無償の愛によって自分も生かされている、ということをわかって感謝していないことが私の身勝手さの元なのかもしれないです。肝に銘じたいです。
>同じ道を志す人は「最大の理解者」になれる人達である事を忘れずに
ご指摘ありがとうございました。私にはない視点です。人と切磋琢磨するのが苦手で、どうしても方向性の違う人と付き合う、あるいは同じ方向性でも闘争心の無い人と付き合う傾向にあります。それが伸び悩みの原因の一つだと思います。ライバルはよき理解者なのですね。そう思える心の広さがほしいです。
大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2010/02/02 11:18

上から目線で話をしてしまったら、申し訳ありません。



pion628さんはこう仰っています。

「私はとても虚栄心の強い身勝手な人間です」、「それは自分の弱さ
のせいだとおもいます」、「自分が、自分が、という心の飢餓感を
生きる原動力にするのは考えるだけでも虚しいです。と同時に、
その虚しさが、いつか自分の能力が評価されたときの突き抜ける
ような快感を彩るため欠かせないのかもしれないです」

上記の認識は当たっていると私は思います。このような自己認識は
#2の方が仰るように、その年齢にして凄いと思います。

ただ、まだ足らないところがあると思います。pion628さんは「虚栄
芯が強く身勝手で弱い」ことや「自己顕示欲を原動力に生きること」
を「悪い」、「醜い」と価値判断されていると思います。そのような
価値判断をすることで現実を正確に認識できていないと思います。
そのことを自覚されているでしょうか。私の考えでは人間の混乱の
大きな原因の一つは価値判断にあると思います。

つまり、以下のように私は考えます。
たとえば、我々は大きな虚無感を抱いているのではないでしょうか。
その虚無感を埋めるために、地位や名誉を求めたり、有徳で無私に
なろうと修業したり、詩や絵を作ったりするのではないでしょうか。
それはある種の現実逃避ではないでしょうか。

我々は虚無感を本当に感じることができているでしょうか。虚無感を
きちんと感じる前に勝手に「悪い」と価値判断してしまい、その価値
判断が虚無感への恐怖を生み、未来の有徳で有名で芸術的才能のある
自分へ逃避してしまうのではないでしょうか。虚無感は、つまり、
現在の我々のありのままの現実は本当に悪いものでしょうか。
本当に「悪い」ことを確かめたことがあるのでしょうか。
「悪い」と判断し、必死に逃げ惑っているその虚無感こそが現実への
入り口であり、扉ではないでしょうか。

私は非常に難しいことを話していると思います。自分はこの年まで
上記のことに気付かなかったですし、気付いているなと思った人を
実際には一人しか見たことがないからです。自分自身もまだ十分には
全く自覚できていません。

繰り返しますが、「悪い」と価値判断すれば、恐怖が生まれ、逃避心
が生じ、現実を正確に認識できません。認識できないと、バーチャル
リアリティーを生きなければならず、決して心の平安は訪れないと
思います。

虚栄心があって身勝手な自分を「悪い」と判断すれば、虚栄心が
あって身勝手な自分への強烈な抑圧と激しい葛藤の人生が始まり
ます。しかし、虚栄心があって身勝手な自分が現実なのにその現実
を拒めば、より大きな虚栄心と身勝手が生じるのではないで
しょうか。もし仮に虚栄心と身勝手を克服したとしても「虚栄心が
なく身勝手でない自分」という自意識を持たねばならず、かつ、
再び虚栄心をもってしまうのではないかという恐れがつきまとって
しまうのではないでしょうか。

何が言いたいかといいますと、ありのままのpion628さんは本当に
「悪い」のかということです。我々は大概、歴史上、現在もこれ
からも苦しみを「悪い」と勝手に判断し、快楽を「よい」と判断し
苦しみということを正確に知らないまま、最後まで現実逃避を
繰り返してしまう悲しく弱く哀れな生き物だと思います。

「苦しみ」は「悪い」と価値判断しなければ、恐ろしいものでは
ないと思います。苦しいときや悲しいとき、また、虚無感に
満ちているとき、冷静になって勇気を持って静かな心で苦しみを
ただ感じてみて欲しいと思います。そうすれば、苦しみは自分を
脅かすものではないことが分かると思います。そのとき、現実を
正確に認識するスタート地点に立てると思うのです。

「一芸に卓越した」未来、「無私で無償の愛を持った」未来は時代と
文化に規定された知識と経験を理想化して未来に投影した現実逃避の
材料にすぎないのではないでしょうか。そういう自分に「なる」まで
pion628さんは満たされないのでしょうか。そうなるまで葛藤と恐怖
と抑圧は続くのでしょうか。「果てしない探究」「向上心」「渇望」
「エロース」という「言葉」で、人生を根拠もなく美化し、ごまかし
続けるのでしょうか。

自分は一つの観点を表す言葉を記し、その意味でお伝えできたと
思います。一言でいえば、(当然、私は違いますが)「一芸に
卓越し、無私な自分」は目的ではなく、結果だと思われるという
ことです。「今」だけが重要ではないかということです。

かなり抽象的なことを話してしまいましたが、参考になれば、幸い
です。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。とても重要なことを教えて頂いたように思います。難しいですが徐々に理解していきたいです。理解仕切れないことがあったので差し支えなければ教えてください。”虚無感への恐怖”が誰の心のなかにもある、とすると、虚無感に押しつぶされる自分を想像し、苦しみというものが自分を破滅させると決め付けてしまう、ということでしょうか。虚無感を極端に恐れるあまり人は何か意義があると思うようなことに走り、頭の中の安全地帯のようなところに逃げる。でもそれは妄想なので本当に自分を守ってくれるわけではなく、どんなに高尚なことをしても虚無感への恐怖が無くなる事はない。そう考えると思い切って虚無感を直視する必要があるように思いました。があまりに観念的過ぎてどのようにしたらよいか分かりません。自分の醜いと思う部分、私の場合身勝手さ、虚栄心その他コンプレックスをあきらめる、ということなのでしょうか。頭が混乱していますがどうかお導きください。

お礼日時:2010/02/03 18:39

凄い、あなたの若さでそこまで考えているとは・・


私など、あなたの年頃の時には、その様な事など全く考えた事もなかった。

>>一生をかけてなにかするなら、誰にも負けない”一芸”を身に着けて人々の脚光を浴びる、

その様に思った時もあったかなあ~
しかし、今の私なら違う答えがある・・かも。
誰にも負けない・・誰にもの誰は誰なの?
人と競争も、ある時には刺激になったり、発憤の材料にはなるが、それが誰にも負けない・・に通じるかは疑問。

第一、一生をかける程のものがそうそう転がっているとも思えない。

とまあ、反発・反論覚悟でジャブを打って見ました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。確かに誰にも負けない・・は私の表現が大げさかもしれないです。そう思うかどうかも自分の主観でしか判断できないですね。
>第一、一生をかける程のものがそうそう転がっているとも思えない。
そうですよね。そんな楽に手に入れたものが生きがいになるとは到底思えません。
全ての疑問や葛藤が解決するのは無理だとは思いますが、いつまでも同じ疑問をぐるぐる繰返すより、新しい視点が欲しいと思い、質問させていただきました。

お礼日時:2010/02/02 10:51

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