【あるあるbot連動企画】あるあるbotに投稿したけど採用されなかったあるある募集

「幸せ」って何でしょう?

人によって色々な価値観があると思います。
「やりがいのある仕事をしたい。」「幸せな結婚生活がおくりたい。」「大金持ちになって自由気ままに生きたい」など人によって様々だと思います。

でも普遍的な幸せの定義ってあるのでしょうか?または多くの人がのぞみそうな幸せな人間像でもかまいません。

そんなものがあったら投稿してみてください。

A 回答 (17件中1~10件)

普遍的な幸せの定義といったら、「安定」ではないでしょうか。


だれしも安定したいがために、生きているようにも思えます。
中には、破滅的な人生に価値観を見出す人もいるかと思いますが、多くの
人の幸せは「安定」の中にあるかと思います。

屋根がある家で寝食ができて、毎日贅沢できないまでも不都合のない給与があり、
信頼できる伴侶がいて、趣味に没頭できる時間も作れる、子宝にも恵まれる。
これが皆さんが描いている安定かな、って思います。

もうちょっと個人に焦点をあてると、辛いことも悲しいこともひっくるめて、今生きてて
楽しいなぁ。って心底思えたらそれが幸せでしょう。
たとえ、ホームレスで身寄りもなく、仕事もなく、余命1ヶ月だとしても、「いやぁ~
いろいろあったけど、俺の人生面白かったわ」と心底思えたら、幸せでしょう。
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色々な意見・回答が提出されていて、とても興味深いです。


結局、普遍的な「幸せ」というものは定義できなくて、「幸せと感じる」ことは各人の心の持ちように大きく依存するようですね。

西洋の諺に「幸福は充足(満足)の中に宿る」というような意味のものがあったと記憶しています。各人の「満足度」が「幸せを感じる」大きな要因だということなのでしょう。

自己の「充足」の基準が低ければ、そこから「自己満足」(他人からは幸せとは思えない)という状態にもなりえますし、基準が高ければ「崇高な境地」(多くの人達から尊敬される)に達する場合もありえます。

しかし、「幸せな状態」を認識するには「不幸せな状態」を前提としているわけで、そうすると、やはり「幸せ」は常に(自己のなかでも、他人との関係においても)相対的なもの、ということになりそうです。・・・絶対的な「幸せ」の定義は無理なようです・・・。
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宜しくお願いします。


私は自分の喜びが他人の喜びにまで高まった時、自他一体感を感じた時、「幸せ」だと思っています。
人生、万人、事、の全ての場面に於いて。
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唯一、概念のないものが「幸福」「幸せ」と私は考えています。



定義付けのしようのないもの。
定義付けできないもの。

人生における、心の空白を埋めるために作られた、概念がないゆえに、追い求めてしまうもの。
概念がないからこそ、心が求め続けてしまう以上、その存在を否定も出来ないが、定義付けが出来ない以上得られることもないもの。

そのようなものと考えます。
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私は、創価学会という宗教団体に籍を置く者です。



さて、幸せといえば、たいていの人は「金持ちである」「豪邸に住み、モノにあふれている」とか「社会的立場がある」「背が高い、美貌である」などを連想しますね。確かに、そのいずれにも縁のない(笑)私も、そういう境遇にある人が羨ましいと思うことも、正直ありますよ。

しかしながら、それらの幸福は、絶対的なものではなく、相対的な幸福と言わざるを得ません。「金持ち」「モノにあふれている」といっても、金やモノがたんまりある屋敷のなかで、家庭的には恵まれず、孤独で悶々としている人もいます。また、「金があればあるほど、もっと欲しくなる」ということで、人々を食い物にして、刑務所送りになって転落する人もいます。社会的立場あるといっても、その立場ゆえに、他の人がしなくてもよい大きな苦労と重圧にさらされ、苦悩を感じている人もいますし、背が高い、美貌であるといっても、それを鼻にかけて人々から嫌悪されている人もいますし、病気などで苦しみ、その外観の幸せを感じるどころではない人もいます。また、社員にろくに休日も与えず酷使して財産を貯め込み、豪遊などやりたい放題であったが、病気になって死期を迎えた時には、親しい友もなく、「カネ、カネ」とうめきつつ悲惨な末路で終った、哀れな会社社長を、私は知っています。

いずれも、外観が恵まれている姿であるからといって、その内面の幸せに必ずしも結びつかないわけです。「あなたは幸せですね、お金があって屋敷に住んで、そのうえ容姿も端麗で」と人からうらやまれても、「自分はちっとも幸せなんか感じない。人の気持ちも知らないのに何を言うか」と、その恵まれた立場を幸福と感じることができない。金やモノ、立場があっても、心がそれに幸福を感じられなければ、何の価値もありません。ですから、こういうものは「相対的幸福」と言わざるを得ないのです。

真の幸福とは、「何をやっていても楽しい」「どこにいても楽しい」と、金・モノ等があろうがなかろうが、そういう外的なものに左右されることなく、生きていること自体に幸福を感じることができる境涯です。心自体に喜びを感じることができることです。これを「絶対的幸福」と言います。これこそが、人類が目指すべき本当の幸福です。

「蔵の財(たから、金やモノなど)よりも身の財(社会的立場や特技、容姿など)すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財つませ給うべし」(崇峻天皇御書)と、日蓮大聖人も仰せです。「心の財」、これが絶対的幸福境涯です。創価学会が目指すのは、まさにこの「心の財=絶対的幸福」です。もちろん、信心実践の結果として「相対的幸福」に相当する功徳を得ることもありますけど、あくまでも通過点であるといえます。究極的な功徳は所詮、「相対的幸福」なのです。

宗教的観点からの投稿で、ご不快を感じられたのであれば、お許しください。
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地球の梵人にとっては宇宙人であるエイリアンによる略奪婚は幸せには結びつかないのではないか?


少なくとも世間的には祝福はされるべきものではない。
人間の質の問題というところ。
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聖人が幸せと感じるのは、他人に利他愛で奉仕する行為ですかね。

地球の凡人には理解不能でしょうね。
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心が満足と感じる状態ですかね。

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物質には目的性はありませんが、それによってエントロピー増大=淘汰となって、生物は常にそれに対する反力を持たされ、それは感覚器官での情報処理による自律的行動において“意思”となり、そのフィードバック(意思の達成の感受)ににおいて、精神的充足を成します。



そこにおいて、根源的な衝動性の強いものを「快楽」と位置付けるならば、より認識性の深まったもの(遠い目標、他我性etc.)を「幸福」と言えます。

「精神的充足量」は、現象表面的に考えられる“意思の大きさとその達成度”だけでなく、その「意思」のベクトルの基底として、あるいはその達成の把握として、認識の深まりが重要な要因となっており、「生きる目的は物質的繁栄ではなく精神的充足」と言った場合の印象である、快楽主義的志向とは異なるものとなる。
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>普遍的な幸せの定義ってあるのでしょうか?



まず、人間の最終生産物は脳で感じる精神的なもの=脳波ですよね?
てことは、人生を通算して精神的充足量を最大化させる志向が「幸せ」なのだと思います。それは短絡的な快楽ではなく、生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力。で定義することができると思います。
認識力とは、例えば、生きる目的は「生きること」と認識できる、また、社会生命としては「働く=生きること」ということが認識できるか?という力です。そもそも原始時代、遊びと仕事は分かれていなかったことをふまえた上で(これも認識力)、現代において、何の「実体生産」を伴わない営為は社会生命としては死んでいると同じ(株の投機的利益追求=虚業、親の金を食いつぶすドラ息子)、ていう観点から考えてみてはどうでしょうか?
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