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ハンムラビ法典について

こんにちは。
少しまとまりの無い文章になってしまいますがお付き合い頂ければ幸いです。

私は小学生の頃にマンガか何かで「ハンムラビ法典」の考え方というものを知り、それに共感しそれを貫いてきました。共感といっても大それたものではないですし、本来の意味とは若干ズレる点もありますが
「自分が何かされたら、それを"そのまま"やり返す」

そして、それから学んだ自己ルールとしての
「自分のされたくない事は、相手にもしない」という二か条を自分のルールとして持っています。


私は、「目には目を、歯には歯を」という考え方がとてもしっくり来るのです。
くだらない事ですが、喧嘩などになった際に手が出てしまう場合がありますが。私から手を出す場合は殴られるのを覚悟し殴っていますし、相手が殴ってきたら殴られる覚悟があるのだと解釈して同じ分だけ殴り返すなどしていました。
現在では分別も付きますのでめったなことでは手を出しませんが、小~中学生ごろまでは相手が誰だろうと手を出されば出し返していました。
正直、こういった対応が正しい対応だとは思いません。理想ならばぐっとこらえて大人な対応をするべきだったのでしょうが、当時の自分にとってはそれこそが最善だと考えていたのです。


このように、私の価値観に少なからず影響を与えているこのハンムラビ法典なのですが
皆様はハンムラビ法典についてどうお考えになられますか?

話が少し飛躍するのですが実際に日本国へこの考え方を適応するということを考えるとまず無理です。
なぜなら、日本国で守らなければならない大前提である「憲法」で拷問行為などが禁じられているので、日本にハンムラビ法典をそのまま転用するのは無理ということです。
しかし、正直な所、私個人としては、人を刺し殺した人は同様に刺し殺される形で裁かれるべきだと思っていますし、バラバラ殺人などの痛ましい事件を見ていると犯人もバラバラにされつつ死刑となれば良いのにと考える時があります。

また裁判員制度などが始まりニュースなどを見たりして調べる機会があったのですが
正直、自分が裁判員になった際に刑を決めることができるかと聞かれたら「No」としか答えられません。
だからこそ、単純明快に目には目を、歯には歯をの考え方で被害者が受けたものをそのまま加害者に返せばいいだけではないのかなと思う時があるのです。

※ この意見はあくまでも私個人の勝手なものであり、何らかの危険思想や拷問の推奨および現在の日本の法などについて批判しているわけではありません。

ちょっと変で硬い?文章になってしまいましたが、お気軽に意見頂ければ幸いです。

A 回答 (6件)

日常生活において、殴られるのを覚悟で殴る、という解釈は誤用だと思います。


ほかの方の回答にもあるとおり、恨みで仕返ししすぎて殺してしまう、権力を振りかざして殺してしまう、ということを防ぐのが当初の目的であったはずです。

それをイエス・キリストが「復讐をしないように」と新しい掟を定めました。ですので、現代はこちらの考えのほうが正義です。

まあ、それでも、質問者さんと同様の気持ちは、あるシーンでは持っていました。
それは空手の組手試合に出場する時です。まさに相手に殴られるのを覚悟の上で(フルコンルールなので)、試合場にあがりますから。
いきなり入院になっても大丈夫なように、試合前日は部屋をきちんとかたずけていました(笑)。
しかし、これはハンムラビ法典の考えには当てはまりませんね。

キリストの教えにも通じる「ぐっとこらえて大人な対応」が理想だと少しでも思うなら、それに従ったらいかがでしょうか。
わたしもそうしようと頑張っています。

裁判員に関しては・・・まだ決めかねています。死刑制度に反対なので、死刑判決にならないように参加したほうが・・・とか、でも自分が関わった裁判で死刑になってしまったらわたしも人殺しの一員になるのだ・・・とか、悩みます(呼ばれてもいませんが)。
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「目には目を。

歯には歯を。」

は、ヤられたらやり返せではなく、それ以上をしてはならないと言う戒めだった気がします。
あくまでも暴力の準備を助長するようなものではなかったと思います。

またバラバラ殺人犯は同じようにバラバラにとありますが、刑を執行する人は殺人犯ではありません。
狂わずに出来る人がいるのでしょうか。

死は償いにはならないと思っていますので、殺したら死刑で終わりでは「罰」にならないと考えます。
殺人は、自分が生きるために様々な理由で相手を殺したのではないのですか。
でしたら生きて償って頂たいと思います。
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こんにちは。



聖書からですが、マタイによる福音書 第5章です。

5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

ここで、取り扱われている問題は、復讐についてです。「目には目で、歯には、歯で。」という神の戒めは、ノアに与えられ、またモーセにも与えられました。この律法もまた、被害者の権利を守るための公平な裁判を遂行するためのものです。死刑制度を反対する人たちは、つねに加害者の権利を主張しますが、それは公平とは言えません。被害者の権利は、加害者自身が同じ種類の害を受けることによって、保護されるのです。したがって、「目にはいのちを。」と言うのではなくて、「目には目を。」とあるところに、公正な判断がなされているのです。ところが律法学者たちは、復習しなければなりませんと教えていました。私たちは何か悪い事をされると仕返しをしたくなりますが、その肉の思いを助長するようなことを彼らは教えていたのです。
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ハンムラビ法典の、ごく一部だけを適応・あるいは利用されているのでは?


と感じてしまいました。

如何でしょう・・これを機会にハンムラビ法典の全容を研究されては?
もしかすると、ハンムラビ法典がそれを待っているのかも知れません。

法は、時代と共に、あるいは国によっても変わります。
未だ人類は人類共通の法と言うものを持っておりません。
また、その様な発想も無いように感じます。

いつの日にか、人類共通の法が出来れば、争いなど無くなる世界ができるかも・・
その手がかりと言うのか、元と言うのか分かりませんが、ハンムラビ法典がその一役を担うかも知れません。
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要するに、ハンムラビ法典についてどう考えるか、ですよね。



多分、質問者様と同じく小学生の頃だと思いますが、私は最初に「目には目を 歯には歯を」という文を読んだ時、なんて恐ろしいんだろうと思いました。
何かの拍子で、自分のしたことが元になって相手がケガをしてしまったら、同じケガをわざと負わされるなんて、怖いと思ったのです。

もう少し大きくなって、No1さんが書いていらっしゃるとおり、「目には目を 歯には歯を」というのは、それまでは目を潰されただけでも相手を殺すといったように、復讐のほうが大きくなっていたものを、「目を潰されただけなら、相手の目を潰す以上のことはしてはならない」という意図だと知って、法律が作られた意味が判りました。

でも、ある人(A)がBに殴られたんだと主張していたって、そうとは限りませんよね。
Aの主観ではBに殴られたんだけど、事実としては別の人が殴るか、何か物が落ちてきて、振り返ったらBがいただけなのかもしれない。そう考えると、AはBに殴られたと思ったからといって、Bを殴っていいとは言えない。復讐の上限を決めたという価値はあるけれども、ハンムラビ法典はそこ止まりで、やっぱり現代の日本の法律なんかに比べたら、考えの足りない点が4,000年分くらいあるんだと思います。
(専門家でもなんでもないのに適当なこと書いてすみません)
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うろ覚えですがハンムラビ法典は


やられた以上のことはするなだったような
殴られた仕返しに相手を殺し、その仕返しに相手の家族を皆殺し、
その仕返しに……といった仕返し、復讐合戦をとめるためのものだと思います
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