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正常とは?

まず、正常というのを辞書で調べてみました。
「正しいとされる状態にあること。また、特に変わったところがなく、普通であること。
また、そのさま。」

そこで質問なのですが、正常というのはいったい誰が決めるのでしょうか?
多数決か、それとも何か権威のある人が決めのか、、、

以前、電車の中でレイプ事件がありましたが、そこに居合わせた乗客数十名すべての人が、
それを知ってて見てみぬふりをしていました。
ヘタに女性を助けて、自分にとばっちりがくるのを恐れたのでしょう。
大多数、あるいはすべての人間は助けない。となると「助けない。」というのが
当然のことであり、それが正常なのでしょうか?

それと星新一のショートだと思うのですが、たしかこういう話がありました。
税務署のある職員が無断で、不幸で恵まれていない人にお金を分け与えていました。
ある日それが発覚し、上司に「お前は狂っているのか?」と、問い詰められます。
でもその職員は、「不幸で恵まれていない人を助けず、見てみぬふりをしているあなたらが正常で、
僕が異常なんでしょうか?」と、言い返しました。

たしかに、その職員のいいたいこともわかるし、上司がいったこともわかります。
でも、何が正常で何が異常なのかが、いまいちわかりません。
正常、異常とは何か?誰がどういうふうに決めるのか?

A 回答 (15件中1~10件)

 こんにちは。



 ものごとは すべてとどのつまりでは 主観です。
 そこに還元されるわけではないのですが しかも 主観から出発します。
 つまりいわゆる客観としての事実についても 特定の人が認識し良し悪しや適不適などを判断します。
 ですから 世界は言わば一人ひとりの主観から成っています。

 この主観〔が表わした見方考え方〕が 人びとのあいだで共同化されうるかどうか・どれだけ共同化されたか これによって 《ふつう・通常・正常》かどうかが定まって来ます。
 この共同主観が コモンセンスであり常識とよばれる思想・思潮・風潮です。

 したがって時代や地域によって 常識は異なるという事態を これまでの世界史では まねいています。
 
 これの解決は ひとつに そもそも常識は 人がその考えを変えることがあるように 動態であると捉えることだと考えられます。
 ということは ふたつに 常識が過程であり 長い目で見れば過程的に形成されるものであるとき 言論の自由にもとづき人びとのあいだで成される議論というものが――つまりは 互いの自由な批判が――大事だとなります。
 互いの批判という過程において それでは どちらが共同主観でありうるか。
 幸か不幸か これも人びとそれぞれがその主観において判断し 社会的に決まります。

 あとは付け足しもしくは繰り返しのようになりますが:
 ひとつに。したがって 常識や多数意見が そのあとの歴史過程において 間違いだったと認められるようにならないとは限らない。

 もうひとつには では ひとはその主観においてにしろ 何が他の人びとにとっても 良いなら良いとして共通の内容となると考えるのか。この問いについて 簡単な目安としては むしろ人の知覚や感性が取り上げられます。なぜなら ひとはウソをつくときには こころにやましさやむなしさを感じるものだからです。偽りを述べるときには 顔をあからめます。しどろもどろになったりします。
 いわゆる良心の呵責を感じます。そういうばあいの見方考え方が 人びとにとって共通の良い内容を持つとは まづ考えられませんから 案外 感性がむしろ理論家であると言えるときが少なくありません。

 あとは 経験合理性にもとづく無理のない推論に従っているか。これが――これだけでは かなしいかな 万能ではないのですが―― 一般的な目安です。ということは 三人寄れば文殊の知恵ではないですが さらにこの結論をめぐって 互いに自由に批判し合うということ そういう――つまりは民主主義としての――言論の過程にしたがうということになるかと考えます。

 * 思想としてもゴロツキやチンピラがのさばっている事態は 思考としての妥当性が判断の基準に成っていないことを表わします。社会力学によってのみ・つまりどういうわけか(つまり 昔からの惰性において)有力であり思潮として優位性を持つという事態によってのみ いわゆる《常識》になっています。これが 現実だと言われてもしかたがないのですが そのように言う人も多くいて しばしばこの風潮が勝っています。
 悪貨が良貨を駆逐するというふうにたとえられています。

 既成事実をつくれば それ自体ですでにその中身は 社会において共同主観として受け容れられているのだと強弁することが起こります。お偉い人たちは その既得権益を守るためには 既成事実をつくっておけばよいという考え方になるようです。慣例に従うべきだと唱え 前例にないことはすべきではないと主張します。なぜなら 前例のあること・慣例となっていることは それなりに共同主観であることを示し常識であるのだからと。
 世の中 うまいこと からくりが出来ていますね。

 * 趣旨説明の中の事例は まさにいま作られつつある既成事実であり 被害者にあっても主観が共同化された(つまり加害者の主観に合意した)と周りの人びとは判断したか? んなことはない。(勇気がない。つまり魂が去勢されてしまったからでしょう)。
 あるいは 既成事実におけるものではありながら組織として規則にうたった権限関係 これが共同主観となっているとまづ考えられます。そのとき 上下関係にものを言わせて 多少そこにわがままな感情や意見をはさんでも その程度の社会力学上の力関係なら やはり常識の範囲内だと言おうとする場合もあるかも知れません。ただし 心やさしい職員も 規則をやぶるという恣意的なことをしてまで 共同主観を実践しようとするのは 叱りを受ける覚悟の上だと見るべきです。
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 そうだなあ、「自分はニュートラル」と信じている人が、躁とウツの揺れ幅に困り、精神科の先生に罹っていて、薬を服用している場合もある。

それが異常と言うことでしょうね。

 精神障害者手帳を持っていても、健常者並みに 回答 するのも異常かも、、、。
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りんさん。

こんにちわ。
つぶやきとか、憶測とか、感想とかです。
(つまり無責任なおしゃべりです。)


>まず、正常というのを辞書で調べてみました。
「正しいとされる状態にあること。
 また、特に変わったところがなく、普通であること。
 また、そのさま。」
:へえ~。そうなんだ。
しかしそれならなぜ
「正状」ぢゃなくて「正常」って書くんだろ。
(独り言ですが。)

_______________


ある「時・空間(時代・地域?)」における、
マジョリティーが「正常」と呼ばれ、
マイノリティーが「異常」と呼ばれている、
それだけのことなんぢゃないかなあ。
「とりあえず」「極めて単純に」ラベリングした、
それだけなんぢゃないかなあ。

こうすることで、
人間ひとりひとりの、
とても複雑で豊かな、
個性とか性格とか能力とか表情なんかを、
観たり考えたりしなくて済み、

それはとてもラク\(^o^)/で、
とてもつまらない(-_-;)んぢゃないかなあ。

__________________


ところで、「正常」だの「異常」だのと
「名づけている(決めている)」のは、
実は「あいまいにしたい」からぢゃないかなあ。

人やモノをよく観察し、よく感じ、よく考え、
正確に、言語を使って描写する、
ということをしていない、ってことのぢゃないかなあ。


ん~。めんどうくさいからでしょうか。
あるいははっきりモノを言いたくないから、
あるいは言う意思がないから、
あるいは言う能力がないから、かもしれません。


そんなわけで「正常」とか「異常」とか「だけ」で
済ませてしまうのではないかなあ。
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No.11の訂正



×5~10人近くの男か、

○5~10人近くの男が、




>誰がどういうふうに決めるのか?

 自分が、感覚的に決める。異様な雰囲気を察するためには基本的に、中正の姿勢が必要でしょう。

 いつもストレスを感じていて余裕がなかったら無理。

 異常な事態を不快に感じる感性と、そのときの感情を自然に出せなきゃ、いくら屁理屈論じても役立たず。
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皆さんのご回答でおよそ結論がでているようですが、あえて、分析的に機械的に回答してみました。

(自称哲学的に。哲学的とはこれ以上詰められないという意味で使っています。)

正常、異常は相対的なものですから、そもそも「絶対的」には決められない。ということで、どのように相対的かによって、正常さのレベルが決められます。私の場合は、次のように決めています。
(善、悪の判断にも応用できます。哲学的基準は、全てに応用できるものでしょう)

(1)自分個人にとって都合が良い。最も低級な正常(善)
(2)家族、隣人、会社など直接的に自分の生活、命を養っているものにとって都合が良い。中級の正常。
(3)自分、社会、宇宙自然の全てにとって都合が良い。これが最上の正常であり、最高絶対の善と考えます。

相対的な概念は、固定することが出来ません。生きているかぎり、何らかの都合によって変動するものでしょう。悪、異常の事象に対峙して、イライラするのは「自分の心身が不健康」である信号と考えます。健康、不健康も善悪も同じです。

イライラせずに、イラくらいにとどめて、(3)の実現に向かって行きましょう。
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 以前、電車の中で何か異常な雰囲気を感じて見たら、5~10人近くの男か、集団でうごめいているのを見て、その異常性をみて「何かあるな」と思い、一喝したら、次の駅で降りていきましたよ。

その集団が去った後には、1名の女性がいました。

 異常な雰囲気というのはあるから、それに対処すれば良いだけなんじゃないの。

 みんな、びくびくと恐れてばかりいて、バカみたいだ。
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一般に、「正しい」という言明には、2つの意味が含まれています;



1.正確に現実を記述している。
2.社会を維持するために役立っている。

特に近代社会化において、組織性(分業化、社会制度)の発達に人の意識が
ついていかず、自己チューな意識のまま社会性のコースを誘導するための
“馬車馬の目の前のニンジン”として、お金や出世といった様々な社会的な
虚構(お金なんて手アカに汚れた紙切れに過ぎない)=偽りであって“正しい”
ことが増え続けているのです。

そして、それを決めるのは「進化」です。
生物の組織性の発達においては、人類のように認識の発達による行動の多様化
による自覚的分業と、蟻や蜂のように遺伝的な多様化による先天的分業がある。
人類は、近代化以前は、原始共産制=助け合い(自律的社会性)として組織性を
発達させてきたが、近代化における更なる分業化と市場の拡大に認識の発達が
追いつかず、「ヒト型進化」の元祖(他にはカラスやタコも仲間)である人類
自身が、「アリ型進化(他律的社会性)」へと転針してしまったのだ。
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 ANo.8から。


 歴史上もそして多くの場合、人は自分が正常だと或いはそういう意識がなくても、正しいのだと思って行動してきているのでしょう。多くの場合ですが。
 しかし歴史に現れたことの多くは、そして私達の現在の日常での多くが、必ずしもそういう正常性を期しえていないことはご経験とご観察のとおりです。
 だから多くの、人と人との相克や国際間の争いもあるのでしょう。多くの場合正常と正常の相克、自衛と自衛、正当防衛と正当防衛なことです。
 人間の哀れさ、悲しさですね。

 そういう場合何が決定するのか。社会や国家、或いは国家間では平和がその存立の役目ですから、正義性と実際に平和を継続させることのできる実力性との兼ね合いがきめていきます。

 では個人の人間同士やその社会ではどうか?
 何が決めるべきか。何できまっていくか?

 未成長で未完成(不完全)な人間同士の常に未完成で不完全な決着がなされてきています。
 だから歴史はつづきます。完全に向けて。
 泣くもの笑うもの。苦しむもの、苦しめられるもの。間違いと正しさ。
 この解消に向けて人類と個人、歴史は歩んでいくとされては居ます。
 果てしがあるのか、行き着けるのか。そういう繰り返しできています。
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 正常な意識による正常な判断のプロセスと結果を正常というのだといえるでしょう。


 意識の正常性は、人のあり方だと存じます。
 今までの歴史で、人は真に正常であったか?では今、人は正常か?
 これを哲学や思索、あるいは思想として述べるならば、外面的様相としては千差万別であり、一義的或いは、価値統一的に断定する事は許されないのでしょう。
 しかし本当にどこまでも追究すれば、本来は共通、通底するはずだと存じます。

 日常的事項としての正常性はそういうことからきている判断だと存じます。
 それを理論的にインテレクチュアルに構成していくことに困難と危険、そして一定のタブーがかかっていると存じます。
 日常的にもこの事項は緩やかな常識性の世界への投影とされている事項だと存じます。
 しかし曖昧ではなく、どうでもいいものでもなく、しかも幅のあるものなのでしょう。
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最近考えていることに似ている。



例えばあなたが消防士だったとします。
火事の時に賢明に火を消しますよね。
中に人がいれば助け出しますよね。

で、ふとまわりを見ると、他の消防士は燃えていない箇所に水をかけている。
まるで水撒きを楽しんでいるかのよう。

「こっちを一緒に頼む」と言うと「了解です」と言うので、また中に入って人を担ぎ上げて外に出ると、まだ他の消防士たちは水撒きしている。

「なにしてるんだ そこはいいからこの中にいる人を」と言うと「了解です」と言うが動かない。
口論している暇は無い、とにかく中に入って一人でも救出しないといけないと、あなたはその場で助け出さない消防士を相手にせず、任務を遂行しつづけた。

後でどうして何もしなかったのかと遊んでいた消防士たちに聞くと「あんたが俺に命令する権限は無い。」と言ったとする。


「人が中で倒れていたんだぞ、命令とかじゃかく助けるのは当然だろう。」と言うと、「自分で歩いて出てくればいいんだ。自分の生命を自分で守れないやつが悪いんだ。助けるとまた助けてもらえばいいと思って、自分で火の管理をちゃんとしなくなるから、懲りて今度管理をさせるために助けない方がいいんだ」と言ったとする。


理解不能だが、とにかく任務を遂行しない他の消防士のことを上司に報告したとする。
すると返って来た返事は、「あいつは働かないからね」

「今回は全員救出できたけど、今まで救出できず亡くなってしまった人の中には、救命をしない消防士が原因で助かる命が助からなかったもかもしれないです。これは非常に危険なことじゃないんですか。そうであれば過失致死ではすまされず殺人ですよ」と言ったとする。


それを聞いた上司は<あなた>をどう処分するでしょうね。
救命しなかった消防士たちではなく、上司はあなたがとても煙たいわけです。


あなたは消防士という仕事に生きがいややりがいを持っていたとします。
人を助けられたとき、よかった と自分の存在の意義を実感できていたとします。

小さい頃から生まれ育った街で、その住民とは親しく家族のように思っていたとする。
だから、他の市で消防士として働くより、今も市で働きたいとする。

だけど、今の市の消防士たちは任務をしない、その任務をしない消防士たちがいることを自分以外が問題視しない。
上司はもみ消したし、告発したらどの消防署もここと似たようなもので、あなたのような人を煙たがって採用しないだろうと言われたとする。


消防署が防災を市民に指導して、市民に対して上から目線で指導しているのを見て、市民たちがその話を真剣に聞いて消防士たちに従っているの光景を眺めているうち「虚像」という言葉が頭をよぎるとする。


あなたが挙げた例は不正で横領です。
貧乏な人を助けてあげたいと思えば、自分が稼いだお金を渡せばいいわけで、他人の財産を奪ってまでしては駄目です。
正当な手順を踏んで、法を改正すればいいわけです。
自助努力が国民の義務で、それすらできない人を国が保護します。
貧乏な人は他人が犯罪を犯してまで自分を救うことを望んでいません。



私が挙げた事例はもっと複雑です。
その内容と同じような種類が現実に起こって私はどうすればいいのか、考えているわけです。
告発したら私が権力によってつぶされる。

以前、児童擁護施設で虐待があり、子供たちが市長の実体の告発をする手紙を送ったら、市の職員が施設にやってきて、児童福祉施設は子供のいたづらだといい、職員はそれを信じたため、虐待はその後も続いたという事件があった。
児童施設と市役所でもみ消された事件。


何が正常で、何が異常というより、悪者は同じ悪者をかばうことで権力を維持する。
これが真理の一つだとわかっていないと、理解不能に陥る。

結局 自分のやっている労苦に満足する以外には無いと思う。
以前 「便所に100ワットの電球はいらない」と言われたことがある。
「へー ここは便所だという認識なんだ」と相手のバカさ加減に呆れて、もうこいつにはどんな倫理も通用しない、人間ではなくケダモノだとわかった。
相手を人間としてみていたから腹がたったわけです。
相手は知性の無いケダモノだとわかった後は、腹もたたなくなった。

人間はいないのかーー おーーい 人間ーーー いたら返事してーーーーー!
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