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甲斐善光寺の源頼朝座像ですが私は武田信玄が奉納したと教えられていたのですが、神護寺の頼朝画像が頼朝でないと言って一世を風靡した黒田日出男氏は甲斐善光寺の頼朝像は北条政子の命に造像されたものと黒田日出男氏の著書で書いています。どちらが正しいのでしょうか。お教えください。

A 回答 (3件)

県指定文化財の頼朝坐像には、文保三年(1319年)の銘が


あるそうで,武田信玄が造らせた木像ではありません。

文保三年は木像の作成でなく、甲斐善光寺に奉納された年と
考えられます。

頼朝の死後政子が坐像を造らせ、鎌倉の寺にあったものが、
戦乱を避けて甲斐源氏のゆかりで、甲斐善光寺に落ち着いた
ものでしょう。
信玄は厚く崇拝したはずです。     それで奉納の誤りに
なったのでしょう。

文保三年に造像されたものを信玄が手に入れて、奉納した
とは考え難いものです。
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武田家と言えば



御旗楯無も御照覧あれ
この御旗楯無は、新羅三郎義光伝来を主張しており、頼朝の先祖である義家とは別であり、あまり頼朝の家系とはうまくいっていない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9% …


北条政子のスタンスで言えば、承久の変における演説にように
頼朝の御恩があるなら、義時を潰せと言っている上皇を捕らえよ。
というロジック。頼朝をリスペクトしないと北条家の安泰はありえない仕組みになっている。

なので、頼朝坐像は北条政子が作らせたというほうが蓋然性としては高いと考えます。
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甲斐の武田氏は、元々源氏の血流であったと言われます。


相模の北条氏は平氏の血流です。
いわゆる『源平合戦』は、京都で貴族化した平家の一族と、地方に勢力を張った新興武士勢力の政治闘争です。実態は中央と地方の武士集団の、源平入り乱れての利権争いでした。
武田氏が源頼朝像を奉納する動機はありますが、鎌倉幕府から頼朝の血族を追放した北条氏には、頼朝像奉納の必然性がありません。
私は、甲斐善光寺の武田信玄建立説と、頼朝像奉納説を信じます。
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