プロが教えるわが家の防犯対策術!

下記長文失礼いたします。
皆さんのご意見を頂ければと思います。
私は3年程前に日蓮正宗系のお寺に入信し、そのお寺で得度を致しました。

きっかけは、今から考えれば小さい事でしたが日々何故か上手く行かないと言う様な事で
悩んでいて、相談した相手(会社の同僚)がそこで、在家得度してから全てが良い方向に
変わったと言う話を聞いて心が動いたからです。

実際その方はそのお寺に関わってから不思議な事が沢山起き、人生が良い方向に向かっていたようでした。そのお寺は教会毎に所属する様になっていて、そこの先生達のお話では

・ご先祖様を供養する事で子孫である私たちが守られ、不思議な良い事が起きると言う内容でした。

また、得度する事が一番、即効性があり、強力な効果があると言われ、得度することにしました。
得度中は様々な修業がありますが、その時に感じたのが最初の説明(得度に掛かる費用、何をやるのかなど)では触れていなかった事で修業として課せられた事がある事でした。

その中でお寺の行事に参加する、早朝の修業に参加するなどは良かったのですが、最低3名のお導きをする事(相手にお金を出してもらい、その相手のご先祖供養をさせて頂く)と言うのがありました。

実際、私としては自分の悩みで入信した事ですし、友達にも両親にも内緒にしておりました。
出来るだけ、伏せておきたかったのです(特に両親には信仰宗教に入って心配かけさせたくなかった)。

しかし、その手の話が出来る数少ない友人にはお願いし、ご先祖供養をして頂きました。
得度完了後は、そのお寺とは近すぎず、離れすぎずと言う関係でした。

ただ、何かの行事などには連絡が来て、お札を購入したり、ご祈祷をして貰ったりしてなどで年に数万の出費にはなりました。

正直な感想として、そのお寺の方は人が良い方が多いとは思います。
ただ、話題が法華経を信仰すれば必ず良いことが起きる、奇跡が起きる。御利益があると言う話の内容が中心なのです。

実際、そこに在籍している方は法華経を信仰してから何か非常に良い、奇跡的な事が起きて
それから一層、信仰、帰依をしているのですが、正直、私としてはむしろ入信、得度してからの方が
苦難が多く、全くの逆効果みたいなのです(自身、家族の病気、金銭問題、仕事の問題)。

それについて、教会の先生に相談したところ「あなたはお導きが足りない、年内までに50人お導きをしなさい、そうすれば奇跡が起きる」と言う事を言われました。

私は「50人など友達も知り合いもいない、よって出来ない」と反論すると「中学、高校の時の名簿などでTELかけまくれば50人位すぐ行く、皆そうしている」と言われまして「そんな事出来ない、そんな何年も連絡とっていなく、親しくもなかった同級生にいきなり連絡して、あなたのご先祖を供養させてもらえないかと言われたら、あいては何と思うか?気持ちが悪いと思うし、私の事が噂で一遍に広まってしまうではないか」と言ったところ「そんな事は無い、自分たちは他人様のご先祖も供養すると言う善行を行うのだ、有難がられることはあっても、迷惑に思われることは無い、中には無下に断る人もいるだろうが、それも含めて修業だから気にする事は無い」と言われました。

ここに来て私としてはかなりこの教団について疑問を持つようになりました。
・悪い事しか起きないのは修業、信仰心が足りないからとの発想。
・お導きをそう言う手法でも勧める。

宗教とは信者の魂を救い、安らかにするものでは無いのでしょうか。
私も無知な状態で入信したので、入信してからいろいろ、調べてみると私が入信した日蓮系(正宗)は新興宗教が多く、カルト的だと知りました。確かに現在も信仰心が篤く、沢山のお導きをしたりしているのはそのお寺に入信してから人生が良い方向に変わったと言う人が多く、その奇跡の話や修業の大切さはいやと言うほど聞きました。

しかし、私自信としてはそのお寺に入信してからの方がロクな事がなく、またストレスにも感じています。
宗教とはもっと穏やかで心の平安を求めていたのですが、実際は安らぎではなく、ストレスを感じています。ただ、仏教の教えや考え方自体は好きですし、自分のご先祖様供養が大切と言うのは理解できます。
そこで質問なのですが、所謂日蓮系のお寺(信仰宗教)はお題目が最も大切なのは分かりますが
・お導きに関して同じような発想なのでしょうか?
・ご先祖供養に関しての考え方は?
・私としては仏教は好きなので、今後も学びたいのですが「ご先祖様供養の大切さと説いて「お導き、お導き」と拘らない様な宗派、お寺などありますでしょうか?

以上、長文になり申し訳ありませんが、ご意見お願い致します。

A 回答 (13件中1~10件)

こんばんは。



もしも、至らない文面がありましたらお許しください。やっと核心に辿り着いた思いです。

ご質問者さんのお母様とお話になれば、おそらくは、いろんな思いは解決するものだと思っています。詳しくは語れませんが、私も、すい臓癌がどのようなものかは知っているつもりです。

「50人お導きしなさい、そうすれば癌は治る、もし治らなくても、寿命が延びる、今こそ親孝行のためにやるべき」

今、親子として、人として何をすべきか、人に聞かなくても分かるかと思います。決して、宗教団体に入って、宗教活動をすることではないですね。人の命に、宗教活動が優先することはありません。

また、病というものが治ると、奇跡を、望んだからとて、必ずしも、そうなるものではありません。それは、人の命は、人がどうするかできることではないからです。奇跡を望めば望むほど、人は欲にまみれていくものです。

一緒にいて、今までどおりに接してあげることが一番の親孝行だと思います。

ただ、こんなことを言っては気分を害されるかもしれませんが、ご質問者さんのお母様は、なんと幸せだと思います。お子様や身内がなんとかして助けたいと思っていらっしゃるその気持ちこそは、この上もない貴重な宝だと思います。

>末期癌患者の様に死期を悟った人間は仏様の様になるとどこかで聞いたことがありましたが、

私は、逆に、そうなっては、いけないと思っているのです。なんの未練もなく、この世を去っていくそうあることは、一種の美徳ですし、仏教としては理想形なのかもしれません。

しかし、室町時代に生きた、一休さんは、アニメの小坊主とは違い、実際の一休宗純は、木刀を腰に指し、竹竿の上にドクロを乗せて町を歩く変人で、自殺未遂は二度、晩年女性を妊娠させ、とまぎれもない破戒坊主です。彼は、「人はかならず死ぬ」と教えます。彼のこの常軌を逸した行動は、「風狂」と呼ばれますが、何か人間の本質をあらわにするような気がするのです。その一休さんの最期の言葉は、確か、女性の膝の上に頭を乗せ「死にたくない」という言葉だったと聞きます。人として、けれんもなく生きたいと願う姿こそ、人間らしいものだと思っています。

私は、死を前にして、みっともなく泣き喚き、ジタバタするのが、生きる人に残す最期のメッセージだと思っています。遠藤周作さんの晩年の言葉に「人は、本当に死を目の前にすると、やはり怖いものだ」と言います。遠藤さんは、クリスチャンですから、死は消滅ではなく次の世界に行くと言っていますが、本来の仏教徒として死ぬということは、また、違う意味を持っています。

私は、すべての宗教は、最後は、同じ所にたどり着くというような考え方が好きではありません。ある意味、非常に聞こえがよいのですが、互いに理解はしても、それぞれはそれぞれが違います。統一することはできません。宗教には、T.P.O.があります。それを守らないと、カルト化します。

『千の風になって』という歌に、自分は亡くなっても、千の風になって大空を吹きわたっています、という内容ですが、それよりもずっと前に、紀野一義先生が『大悲風の如く』という本のタイトルで出版されています。それは、彼の出身地は広島で、戦地から日本に戻ってみると、家族のほとんどが亡くなっていて、ただ風だけが吹いて、それが仏の大悲のように感じた、というような話からだったと思います。

なお、本来の仏教では「逃げる因縁」とか「因縁が出ている」というような使い方はしません。まったく、意味が違っています。「業」という言葉を好む宗教団体もありますが、これも同様に間違った使い方をすることが多いです。「因縁」は、そのようなネガティブな意味ではありません。「因縁」という言葉は、紛れもなくインドから来た仏教の基礎用語ですが、物事の関係の最初になるもの、つまり「きっかけ」という意味です。そして、そこから結果につながるということで、それを「因果」というのです。こういう話は、ここの場で書いても意味があまりありませんが、こういう機械的世界論というのは、どのみち、虚無感におちいるものです。

それから、私は、どこの宗派にも宗教にも属していません。どちらかというと、日本の仏教の将来は悲観的にみています。先祖供養、輪廻転生、三世の因果とか、それら人を縛り付ける道具であって、本質的に信仰とは違います。ホイットマンは、「人間が身体をもっているのではなく、人間は身体である。」と言っています。身体なくして、精神はありません。肉体を離れた存在などはありません。今ある自分を大事にし、人としての原点に立ち返り、人として当たり前のことをして、その後で余裕ができたら、仏教や宗教を学ばれるのがよいかと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

windfaller様、ご回答ありがとうございました。今回の件(母の件)では非常に辛い思いをしました。しかし、色んな事を考え、また皆様のご意見を頂いて少しだけ成長できたかも知れません。自分にとって何が大切で何が真実か?母の姿を見て私は神々しさを感じ、感動しました。母は決して強い人間ではないです。体も若い時から弱く、精神的にも鬱を持っていました。心配性で、病弱でした。私は心のどこかで、いつもいつか母が突然死んでしまうんでは無いかと言う恐怖を持っていました。幼いころ、具合が悪く寝たきりの母が学校から帰ってきたら死んでしまっているのでは無いかととても心配していたのを覚えています。しかし、今の母は潔く病気と向き合い、泣き言、悲しい顔も見せないで、朗らかで明るいです。心中はそんな事はないでしょう。しかし、私たちに不安を与えまいと前向きにしているのです。人はとかく遠くを見がちです。近くに真理や大事なものがあるかも知れないのに、有難いものは遠くにあるような気がして、遠くへ探しに行こうとします。windfaller様がおっしゃるように今の母の言葉は釈迦の説法にも匹敵するかもしれません。それだけ重いし、真理に近いような気がするのです。私の様に憶病で、利己的で欲にまみれた人間には遠く、及びもしない所に居るようです。人としてこの様にありたいと思っています。私が母に出来る事は、出来る限りの治療をサポートする、そして安心して旅立つ事が出来るようにする事だと思ってます。

お礼日時:2013/10/15 22:30

今日は。

組織の運営上、知り合いや友達を連れて来てとうのは、別段宗教だからすべきでないと、いうことはないと思いますが、納得出来ないのであれば、学びの場としては相応しくないでしょう。あなた様が、真に学びを得て成長しついくために、広い視野で様々な宗派、道場などを訪ねてみられるのが望ましいことと思います。
私自身は、基本的に宗教というものは、様々な教義はありながらも、その道筋を辿っていくと、一つの真理に行き着くという考え方や、他の人の信仰を尊重するという基本的人権に基づいた理念をしっかりと持っている宗教、宗派に、本来の宗教の姿を見出します。また、成長や向上というものは、あなた様が指摘されるように、偶発的な幸運を期待したり、一喜一憂するものでは、決して得られるものでは有りませんよね。宗教でも、他の学問分野でも同じだと思いますが、成長とか向上とは「ああ、そうか。そういうことか」という小さな、また時には、大きな気づきの積み重ねなのだと思うのです。そして、得たものを実人生で活用する。それが、宗教、また学問の喜びであり、魅力ではないでしょうか。
あなた様は、きっと自分の目で確かめながら、真実だと思う道を進むばかりです。無事と成功をお祈りしています(^^)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

hikaricom様、ご回答ありがとうございます。私もhikaricom様のご意見に賛成です。私でも自分が良いもの最高だと感じた物は人にお薦めするでしょうし、誘うかも知れません。お導きの問題点は、

(1)入信(得度修業に入った)した時点で何の教義も勉強もしていないのに修業と称して、ある人数獲得するノルマがある事(この場合、殆どの信者は修業だから行うのであって、教義を理解して行っている方はほぼいません)。
(2)事あるごとに(自分が苦境に立たされた時の打開策修業としてまず、先生方に言われるのがお導きです)修業と称して推奨される事、この場合、建前(先生方の教えでは)では他人様と自身が共に自他供養されて成仏すると言う事ですが、本質は自分のトラブル解決、因縁解決た為です。
(3)勧め方ですが、良識で考えるならば(お寺の方も皆さん良識はありますが事、信仰に関しては逸脱するようです)自分はこれは良いと思うから、勧めるよと言うソフト路線ではなく、凄い事起きるよ、びっくりするような効果があるよ、やんなきゃ損だよ、絶対やった方が良いよ」と言うスタンスで来ます。

上記の部分に無理強い、強要が入るため、違和感を感じるのです。

お礼日時:2013/10/15 22:07

宗教(特に仏教)は心や精神の学びですから、「この教団に入会したから救われる」とか「多くの人を勧誘したから功徳となる」などと因果を安易に指導することは基本的にはありません。



ただ、その人にはその人に合った信仰のスタイルがあります。人によって信仰に興味を持つ時期も違えば、理解力、学ぶスピードも違います。一生を信じることやすがることで終わる人だって当然いるでしょう。
ですから、他人に迷惑をかけたり、社会のルールを逸脱するようなことがなければ、「信じる」ということに重きを置いた信仰を否定するつもりはありません。(ただ、その場合、「自分は凡夫だ」という謙虚さと、他の信仰も認める寛容さが必ずなければなりません。)

しかし、なぜ勧誘や「お導き」と言われる行為を行うのかを理解せず(指導者も説明せず)、「お導きは良い行為なんだ」と強く信じ、一生懸命に言われたままに活動すれば、盲目的な信仰になり周囲に嫌われたり迷惑をかけるようなことになってしまいかねません。

私は、末端の信者に積極的な勧誘や教団の宣伝行為などを指導する人間をまともな指導者だとは思っていません。
それらを「布教活動」と思い、「信教は自由だから布教活動も自由だ」と理解している国民が非常に多いようですが、多くは自分が信じたこと、「良い」と思ったこと(つまり拘りのようなものです)を他人に勧めているようなもので、指導者に値する人物が本当に慈悲の心を持って他者に説法をすることとは大違いです。

極端な言い方をすれば、信仰そのものに勧誘は必要ありません。寄付に関しても在家信者なら、教団を維持するために必要な程度のもののはずです。

だから身の丈以上の寄付をしたり、勧誘に夢中になり人間関係を壊すなど、末端の信者による布教活動は問題が多くなります。それを教団の指導者が放っておいているとしたら、やはりそのような教団は「宗教」と言われるようなものではなく、本来なら宗教法人であってはいけない団体です。

しかし、そのようなインチキ宗教と言われる教団が日本中に沢山あるのが現実であり、宗教法人の認可には大いに問題があると言えます。

今、ネット上では、もまともな指導者や宗教家と言われる人が書いたものを沢山読むことができます。まともな指導者とは、人間がどういう生き物で、どうすれば楽に生きることができるかを理解した人です。
それらの人に共通していることは、排他的ではないということです。「自分だけが本当の指導者だ」「この宗教こそが本物だ」などと言うことはありません。
参考
http://shogongja.seesaa.net/
http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/
http://iede.cc/
(小池龍之介氏のブログにも良い説法、経験談が掲載されていたのですが、無くなってしまったようです。)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

skypee様、ご回答ありがとうございました。教団の方たちは自分たちのお寺が最高だと常々思っているようです。日常会話でも出てきます。自分たちの信仰が最高で他はそれ以下と言うのが基本スタンスです。他の宗派に寛容と言う事は無いです。あなたがこの教団を愛し信仰しているように、他のあの人はあの信仰を愛して心から信仰していると言う単純な理論に理解を示しません。それらは恐らくこの教団に入信してから偶発的に起こった奇跡的な幸福体験、成功体験がベースになっていると思われます。その事が彼らを引き付け放さないのでしょう。

お礼日時:2013/10/14 20:53

今日は、東京在住の者です。


宗教とは精神の学問及び実践と定義できると思います。
人生は、以下。
個人-家族-集団-人類-生命-物質-精神-神(または、無限の概念)という8つの要素から構成されています。
この各々の要素が関連しあい、自己の世界を形作っているのが観察できるはずです。ですから、この各々の要素を共に助けていくことが徳となる訳です。
徳を積めば、当然人生は豊かになります。逆に破壊すれば不幸や災いとなる訳ですね(^^)
いくら環境を助けて掃除をしても、自分が毎日いい加減な食事をしていたら、これは病気にかかり易くなり危険です。
教団を助けるために、自分が苦しいと思うのも同じ事では?もし、それを自分のためと歓んで引き受けるなら良い結果となるかもしれませんが。
自分も家族もグループも、引いては人類もみな幸せになるような選択は、より正しい行いと言えます。
逆に自分の幸せにしかならず、他が傷つくような選択は、最悪の行いと言えます。
何が、私も含め良い助けとなるか?
という視点で判断されてみられると、いいと思います。

また、徳を積むだけでは上手くいかないことが多くあります。なぜなら、人の成功を良く思っていない類の人が世の中には居るものです。YouTubeをご覧になると分かります。本当に素晴らしい動画がUPされていても、そして殆どの人が「いいね!」ボタンを押しているのにホンの僅かな人たちが「いいえ!」と否定を表明します。これは、世の中には、良いものでも、反対に捉える人が存在していることを示しています。
巧みに自分の人生から、こういった敵対や成功の足を引っ張るような抑圧的な要素から距離をとることが意味を持ってくるのです。
こういった人と関わると、途端に物事がうまくいかなくなり、調子を崩したり、失敗したり、怪我や病気、事故を引き起こしたりします。
このような類の反社会的な要素を強く持った人たちは、グループの中に約2割存在するという統計データがあります。以外と多いですよね?
こういった人を見極めながら、自分の道をより社会的な仲間と歩むならば、必ずあなたはうまくいくはずです。
存分に幸せや喜びを享受できますように。あなた様の成功を願います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

hikaricom様、ご回答ありがとうございました。徳と言うのは難しいですね、教団の哲学では人様のご先祖を供養さえて頂く自他共に成仏(幸せになる)と繰り返し聞いてきました。その考え方は基本的には正しいでしょう。例えば困っている人が居たら助けてあげる。相談に乗るなどです。宗教ですから人の道を外れた事を推奨する事はありません。私が違和感を感じたのがお導きについてです。それは遠まわしに言えば信者数を増やす行為です。考え方のベースになっている哲学が、人様のご先祖様をわざわざ、供養させて頂く(お金は取ります←ここが大事です、依頼主がお金を払って依頼しなければ意味が無いのです)、それは自分の事しか考えない人間が多くなった現代では非常に尊い行為である。他人様のご先祖を供養すると言う尊い行為をする事でそのご先祖様と自分が共に幸せになれると言う考えです(大乗仏教と言っていました、しかし人様のご先祖供養が大乗になるのかは解りません)。方法としては、それが相手が望もうが望まないがとにかく、声をかけまくる。中にはそういった事に理解のある人もいるでしょう。しかし大半は迷惑なはずです。中には気持ち悪くてこれ以上関わりあいたくないから取りあえずお金出して事を済まそうとしている人もいるかも知れません。そう言ったイマジネーションが無いのです。そこにデリカシーの無さを感じてしまったのです。大乗と言いながら本当は人の幸せ第一ではなく、己の栄達の為に修業しているに過ぎません。本当の大乗なら奇跡体験や成功談が会話で飛び交ったりしないはずだと思います。

お礼日時:2013/10/14 20:42

#6,7の回答者です。



#8の回答のお礼から:
>伝統のある仏教寺院で日蓮の教えを勉強したいと探しているところです。

私は、それが宗教に関わる人の正しいあり方だと思います。私は、新興宗教の方が、よく「伝統的」とか「既存」という、いわゆる「オーソドックス」に対する批判を耳にしますが、歴史的な経緯を踏まえながら、原点に立ち返り学ぶということは大事なことだと思います。日蓮正宗の前に、日蓮宗の成り立ちがあるはずですし、また、日蓮のヒトトナリや比叡山というものはどういったもので、鎌倉時代の時代の時代背景が、日蓮宗にどう影響したかを知ってからでも、その道の選択は遅くはないと思います。

私個人は、一宗一派を良しとしません。日蓮宗の「四箇格言」の意味する所を知らないわけではありません。しかし、ことわざにもあるように「宗旨の争い釈迦の恥」という言葉があります。禅宗、真宗、日蓮宗、密教にも、それぞれにはそれぞれの良いところがあり、また問題点を持っています。そして、それぞれの歴史があります。

私たちは、現代に生き、現代で知りうる情報や知識を基に、宗教というものと向き合えるはずです。また、そう考えていくべきだと思っています。だから、鎌倉時代のそのままを受け入れるというわけにはいかないと思うのです。まして、先祖供養など仏教とは直接関係がありません。

私は、昔、禅の先生から、蓮如の「仏法は無我にて候」を引用され、ハッとした覚えがあります。これは、お釈迦様の仏教の原点ですね。

>法華経、先祖供養、お導きによる功徳、こう言ったものだけが正しいと他の熱心な信者は考えています。

達磨大師(ボーディダルマ)の話は、何かのヒントになるかもしれません。六世紀初頭、仏教の普及に熱心な王様(武帝)が、お寺を建てれば功徳はあるかと、達磨さんに聞くと「いいえ、功徳などありません。」と答えたと言います。形式的な良いことをしても、その良い報い(善因善果)などはない、ということを言うのです。これは、禅仏教だとは思わないでほしいです。鈴木大拙氏の『日本的霊性』(岩波文庫)の中でも、無心というのはどういうものか、おぼろげながら、理解はできるのですが、仏教というものは、どうやら、外に向かって働きかけることではなく、人間の本性を見極めるような、内面性に向いていくのではないかと思いました。

私が、昔、ある人と事実上喧嘩別れのようなことになってしまったのですが、その人が仏教系の新興宗教団体に入ってしまいました。『幻魔大戦』の著者・平井和正氏が入信した所です。その私は、何も言わずに、岩波新書の『仏教(第一版)』渡辺照宏先生の本を渡しました。「仏教」の基礎的な知識や歴史は知っておいたほうがよいと思ったからです。親しかったのですが、その後、そのまま、その人は引っ越しし、音信不通になってしまいました。

仏教には、キリスト教のような『聖書』に匹敵するものがありません。私など、とても『大蔵経』などを紐解く力はないです。もちろん、今は、名だたる学者編纂の『仏教聖典』(仏教伝道協会)という名のとても良い書籍は出ていますが、今ひとつ、普及していません。

私は、何を信仰しようとも自由だと思いますが、基本的な思想から脱線してしまったら、間違った方向に行くのは違いないと考えています。これは、微妙な部分になるのですが、例えば、チベット仏教を持ち上げる人たちがいますが、チベット仏教は、ローカルな宗教です。また、スリランカの仏教も同様です。文化や社会が違うところで発展したものを、そのまま現代の日本に持ち込んでも、社会的に害になることもあるのです。それは、過去の宗教も同じです。

>かつて私はこの信者や先生に「導かれて迷惑する人もいるのではないのか」と質問しました。

通常、法華経の『火宅』の譬えで説明するような気がしますが、どうもそうではなかったうですね。法華経の方式なら、「(私は、困っている人たちを)今いる所から助けざるを得ない。その後で、導かれた人たちは、どうすれば良いか、その人たち自身で、もう一度考えればよいのではないか。」という回答になるのかもしれませんね。詭弁(方便)には違いないのですが。

仏教研究家のひろさちや(増原良彦)さんは、日本の宗教は、自動販売機型だと言っていました。お金を入れると品物が出てくるように、そのシステム自体は、ものすごく単純です。「南妙法蓮華経」と唱えれば、病気が治ったり、いろんな問題が解決したり、というのは、どうにも安易すぎるように思います。しかし、その仕組は、もう少し別の所にあるような気がしますが、それは一般信者の及ばぬ所なのかもしれません。これは、宗派は違いますが、鈴木大拙氏の『真宗入門』(春秋社)で触れていたと思います。私には良く分かりませんが、「無心」で行うことで、言葉に力を持つというような内容だったと思います。

宗教、宗派にとらわれずに、いろんな本をお読みになってみると良いと思います。その中で、自分はこれだというものを見つければよいと思います。とかくカルトに関わらず、新興宗教は、他の情報をシャットアウトすることが多く、他の宗教も宗派の教えも、まったく知らないままの人が多いようです。私は、仏教や宗教は、その一つを詳細に語れるほど詳しくないけれども、いろんな本を読むと、「これは」と思うものが時々あります。こういう人もいるのだ、という出会いもあります。そういう気付きや発見で、おそらくは大きく人生が変わるわけではありませんが、何かが変わってきているように感じることがあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

windfaler様、貴重なご意見頂きましてありがとうございます。皆様から大変ありがたいご意見を頂きましたので今回の事、私の考えたことをもう少し詳しく述べさて下さい。実は今回の発端は私の母が末期癌である事が判明した事が原因でした。場所が膵臓であったために発見されたときはすでに手遅れで手術が出来ないステージIVaの診断を主治医からされました。末期膵臓癌患者の平均余命は10ヶ月程です。先日まで元気に暮らしていて調子が悪いと気が付いて精密検査したらもう手遅れと言うなんともやりきれない気持ちでした。医師からは今の医学では治すことは出来ない事(抗癌、放射線などの治療は出来るし、行います)を聞いたので、所属する宗教の先生方に相談したのです。相談と言っても科学ではもうどうにも出来ないし、後は先生方が良く言っているキセキとか病気が治ったと言う話に藁をもつかむ思いで相談に行ったのでした。しかし一方、自分の中でも整理と言うか母の死を受け入れる準備が出来つつあり、仏教の生死感についての話や又は教会の皆でお経を唱えましょうと言う様(そう言う事が私の今の不安定な心を落ち着かせてくれるし、必要だと思いました)な話があると思っていました。しかし相談した2名の先生方からは「50人お導きしなさい、そうすれば癌は治る、もし治らなくても、寿命が延びる、今こそ親孝行のためにやるべき」とそれだけを言ってきました。私は先の質問の時に書いたように「50人も友達がいないし、そんな事したら友人を失う事になる」と反論しました。そして帰ってきた答えが「他人様のご先祖を供養させて頂くと言う善行を行うので有難がれるはずだ、50人友達、知り合いがいなければ、卒業した学校に名簿から連絡して電話をかけまくったり、行きつけのお店の店員、飲食店の店員、はたまた最近は坊主バーと言うのがあるからそういうところならば割かし受け入れやすいと言うか理解されやすいはずだし、絶対50人導きをしなさい」と来たのです
私は何と無神経で非常識な人だろうと悟りました。「仮に本気で50人導いたとして、それに掛かる時間がもったいない、母と過ごせる時間は物理的に短いのだ、そんな事している時間があれば少しでも母の傍に居て話をしたりして一緒に居たい」と言うと「この修業でだれだれの信者は癌が治った、科学で説明つかない事など実に多いのだ」と切り返してきました。基本的にはお寺の人は良い人が多いです。今までお世話になったと言う気持ちもありますし、人としては好きです。しかし、この件で私はこの方達とは根本的に発想、思考回路が違うんだなと感じました。それはどちらが良い、悪いではなく合わないと思いました。その他、この宗派では良く因縁と言う言葉を使用します。例えば上記の様に先生に対し反対意見を出した場合「あなたには今、教えに対し受け入れない、逃げると言う因縁が出ている、そう言う時は逃げてはいけない、因縁が出ている時こそ、因縁に立ち向かって勝たなければいけない」「50人お導きをする前から出来ないと言う因縁が出ている、挑戦しないで楽な方に逃げると言う因縁である、これを避ければ更なる強い因縁が出てくる、よって避けてはならない」と言う様な感じです。調べましたが仏教思想と因縁は解りませんでした。一体何なんでしょうか?そして、親しい友人で若くして癌で両親を亡くされた人に母の病気の事を話しました、彼は「人間はいつかは死ぬし、親が先に死ぬのは自然な事、順番は間違っていない。私が出来る事は母の寿命は長くはない、でも母は治療をして1日でも長く、家族と暮らしていたいと願っているならば出来るだ限りのサポートをし、自分が成長したことを母に見せて安心して送るのが私が出来る最大の親孝行である」と言っていました。彼は無宗教ですが、よほどまともな事を言っているように思いました。また、突然自分の死期をしらされた母は非常に落ち着いていて、狼狽する事もなく、いつもと同じく明るく、朗らかです。私の知り合いでレイキが出来るの人の話をした(癌が治ったこともあったそうです)のですが、自分は興味ないと潔く断ってきました。死期を悟っても恐怖を克服し(本人がどれだけ、不安や恐怖を感じている事でしょう、私なら耐えられず、自分で死を選ぶかも知れません)、淡々としている姿を見てむしろ母の姿にこそ仏性を強く感じました。末期癌患者の様に死期を悟った人間は仏様の様になるとどこかで聞いたことがありましたが、その潔さ、強さは神々しくもあります。私を幼稚だと非難する教団の方たちもまた、大いなる依存に掛かっている(宗教ごっこ)のではないでしょうか。今回の母の事や宗教の事は自分の弱さを認識し、さてどうするかと考える大きなきっかけでした。

お礼日時:2013/10/14 09:08

質問者様の文中において、紛らわしい文面がいくつか御座いますので訂正させて下さい。

質問の題名は「日蓮系宗教団体」これは正しい表現ですが、「日蓮正宗系のお寺に入信し、そのお寺で得度を致しました。」、ここが、日蓮正宗の末寺で得度を行ったように解釈されますが、日蓮正宗の末寺では得度は行っていません。又、在家得度、お札、お導きという言葉はその貴方が行った宗教団体の中での俗語で、日蓮正宗ではそのような言葉は御座いません。貴方が行った宗教団体の教え、本尊、そこに問題があります。そんな宗教はいつかボロが出るものです。本当の日蓮の教えに触れるなら、破門された団体「顕正会」「創価学会」ではなく、日蓮正宗末寺に行くべきです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

8302171様、ご回答ありがとうございました。表現が違っていたようで申し訳ありませんでした。
お寺の名前は伏せさせて頂いておりますが、確かに日蓮正宗の末寺ではありません。そこから分派したみたいです。
今、自分ではこうした新興宗教ではなく、伝統のある仏教寺院で日蓮の教えを勉強したいと探しているところです。

お礼日時:2013/10/13 07:42

#6の回答者です。



お返事ありがとうございました。
こう言っては失礼かもしれませんが、ご質問者様は、新興宗教などよりも、一段高い所にいらっしゃるのだと思います。だから疑問に気付かれたのだと思います。

法華経の成立の壮大な歴史を知れば、もっと宗教全体の違ったものがみれるかもしれません。法華経は、お釈迦様の直接の教えではありませんが、当時の人たちが、何を考えて法華経にまとめたのか、なんとなくですが分かるような気がします。

仏教というのは不思議なもので、前回挙げた、浄土真宗に、なぜ、臨済宗の一休宗純は入信しようとしたのか、そのルーツも、とても壮大な話に発展していきます。浄土宗は、本来、仏教が元ではないという話になるそうなので、私は、浄土系は難しいと書きました。

もう一つ、禅仏教も、なかなか分かりにくいです。禅の先生(元大学教授)から講義を受けたのですが、正直、さっぱり理屈が分かりません。発祥はインドの南部なのだそうですが、私たちの印象とはまったく違った仏教のひとつです。そのほかにも、密教というものがありますが、これが、一番、インドらしさが残っていますが、私たちは、分かる必要がないとは言われるものの、やはり分かりにくい仏教になってしまいます。

>法華経は大乗仏教だから、自分だけではなく、他人様も幸せになって貰わないといけない、
>その他の小乗仏教は軽んずべきものだと言っていました。

小乗仏教の国、タイは熱心な仏教国で、民衆のボランティア精神が非常に発達していると言います。その点で、一般人の宗教心は、日本人とは比較にならないほど高いと言われます。小乗仏教(ヒマヤーナ)は、大乗仏教側からの呼び名で、本来は、テーラヴァーダ(上座部仏教)と呼びますが、本質的に何がいっしょで、何が違うかというのも考えさせられるものが多いかもしれません。

『ジャータカ物語』の内容は、本来民間伝承で、仏教のオリジナルの教えではありませんが、その教えは仏教の考え方のように教わります。横浜で、踏切内の老人を助け、自らは、電車に轢かれて犠牲になった女性のように、古来、仏教徒は、自分のことは顧みず、人を助けることを美徳とするようになりました。しかし、その女性は、本当にそれでよかったのか、私には分かりません。まして、仏教徒なら、どうするかとも言えません。

しかし、人として、大津波で自分が助かったことを喜ぶことよりも、失われた命を悼む気持ちのほうが優先してもよいはずです。私は、宗教家や霊能者などが言う「必然論」がどうにも好きになりません。ある宗教家が広島の原爆で亡くなった人たちのことを、必然と言いましたが、私は、それを聞いて憤慨しました。

明日が分からない偶然を楽しんでもよいのではないでしょうか。雨の降る日もあれば、晴れの日もあります。雨の日は雨の日の楽しみ方があります。こうすると不幸になるから、今はこうしなければならない、という考え方は賛成できません。

私の場合は、宗教は素人で、広く浅くでしか知識はありませんが、仏教、キリスト教、イスラーム教と均等とは言えませんが、本を読みました。この中で、仏教が一番分かりにくいのです。いろんな教えがあるし、そこに神道の考え方が、割り込むと、余計にややこしく感じます。キリスト教やイスラーム教の主流の教えには、神秘主義を排除しようとする動きがありますが、仏教は野放しのままです。神秘主義というのは、ここでは「奇跡」を信ずることです。しかし、常に、自分の欲望の赴くままに、その成就を願う人生ほど、他人からみて、惨めなものはないと思います。

>この排他的で狭心的(過激)な発想がはたして本来の仏教に通じているのか?

良いご提案だと思います。私に明快な解答はありませんが、元来、仏教は、人と争うことを嫌い何でも許したから、問題を残してしまったのかもしれません。では、統率やルールで人を縛ることが仏教において正しいことかというと、少なくとも、大乗仏教の在家信者にはそうではないようです。遠藤周作さんは、晩年、宗教とは、「自分の死について考えさせてくれるものだ」とおっしゃっていました。しかし、私たちは、各々の宗教という垣根を越えて、本当に必要なもの、守るべきものは何か、ということを問わなくてはならないかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

windfaller様、ご回答ありがとうございます。私が高いところにいるかは解りません。何故ならこのお寺に入信したのがそもそも、現世利益が目的でした(今より幸福になりたい、人間関係改善、トラブル解消など)。他の信者の方と同じ目的とは思いますが、私は幼少の頃より、絶対これだけが正しいと言う考えは出来ない方でした。そういう見方もあるが、こう言う見方もあるんじゃないかと考える方だったのです。しかし、お寺ではその考え自体が間違えであるとされました。法華経、先祖供養、お導きによる功徳、こう言ったものだけが正しいと他の熱心な信者は考えています。そうかも知れません、その方たちにとっては、何故なら自分のピンチを救って頂いたのですから。
しかし、世の中にはもっと多様な考えがあっても良いと思うのです。私を勧誘した会社の友人ですが、この方は自分の考えをまず曲げませんし、人に助言はしますが、助言を聞くことはしません。ブレない、迷いがないといえばそうなのですが、大乗と言う割にはキャパが小さく感じるのです。それは他の宗派の事を云う場合や、最近活動しない信者、辞めていく人を言う言葉などです。自分と同じように人様にも自身の考え、状況があってそれでご自身で決定されています、それは熱心な信者の方と同じことです。自分の行動は称賛されて、それによる功徳の話や、キセキ体験を言います。そしてあなたのため、あなたが幸せになる事だからと人のためにと言う(自分ではなく)事で話してきますが、結局は人を幸せにすることが自分の功徳になり、幸せになると言う発想なのです。だから、彼らにはあなたのご先祖供養をさせてくださいと言う事が人様が有難がることだと信じているのです。でも、それはそう言う風に感じる人もいるかも知れませんが、少数です。実際お導きの上手い人は、100人単位でしてきたりします。どこにそんな知人がいるのかと思いますが、コンビニの店員、仕事で出合った人、ところ構わず見たいです。またお導きの数が多いほど、お寺から喜ばれ、褒められ、功徳が積めると言います。かつて私はこの信者や先生に「導かれて迷惑する人もいるのではないのか」と質問しました。帰ってきた答えは「自分の願い、悩みが解決するなら、なりふりなんて構っていられない」と言う事でした。「あれっ」って思いました。お導き(他人様の先祖供養)はあくまで「わざわざ私が人様のご先祖を供養させていただく」=親切、と聞いていましたので、結局は自分のためだけにやってるんじゃんとびっくりしました。他人の気持ちを少しでも感じる、あるいは考える、思いやりの気持ちがあれば、その行動は出来ないと思います。

お礼日時:2013/10/12 19:26

最初に、#1さんの


「仏教に詳しくありませんが日蓮系は個人的には勧めません。」
とありますが、

多くの人たちが、戦後の創価学会の問題で、日蓮宗に対して誤解や敵意を持つようになってしまいました。日蓮宗のお寺にはとてもすばらしいものがあります。しかし、その歴史を読むと、戦後の経済発展と共に、日蓮正宗を後ろだてにした創価学会の躍進とその問題は、宗教問題とは違ったものかもしれません。いくら袂を別ったところで、日蓮正宗もその誹りは免れないと思います。ご質問の日蓮正宗系と書かれてあるので、ひとつ思い当たるものがありますが、私の知っている所でしたら、評判があまりよくないようです。

創価学会こと創価教育学会は、私の知る限りにおいて、昭和の始め、牧ロ常三郎さんのご活躍の頃は、教育者を中心とした、一大ブームで、その中には、宮沢賢治氏や庭野日敬氏もいました。知識人たちは、法華経の雄大さを知り、感銘を受け、そこから、いろんな新興宗教団体が生まれました。創価教育学会はそのひとつです。

また、日蓮宗は、空海の真言宗と並び、日本の代表的な宗教にも関わらず、日蓮宗は、人々から疎まれることになったのは、ひとえに創価学会によるものだと思います。ただし、歴史上のことを考えると、親鸞の浄土真宗が代表的な宗教という方もいらっしゃると思いますが、思いの外、研究者たちからは、理解するのには難しいと言われる宗教です。『歎異抄』は有名ですが、それを理解するのは、宗派に関係なく、宗教心によって左右されるものです。

それはともかく、ご質問者さんの内容をお読みしていると、仏教に対して、まったく違った知識を持ったようです。

・「ご先祖様供養の大切さ」
親鸞の『歎異抄』の中に、「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。」つまり、父母の供養などしたことがない、というわけです。おバカな宗教家は、親鸞自身の批判をしますが、これは、親鸞が書いたのではなくて、お経の原典にあるわけです。ただ、いわゆる親鸞教は、今、別のカルト問題が発生しているようです。その教えは、親鸞とは真逆の方向に進んでいます。

「ご先祖様を供養する事で子孫である私たちが守られ、不思議な良い事が起きる」などとは、仏教の教えではありません。先祖供養は、本来、中国思想に影響されたもので、儒教にも受け継がれていますが、仏教の本来の教えにはありません。

・「悪い事しか起きないのは修業、信仰心が足りない」からとの発想。
 仏教の根本的な教えに、「一切皆苦」というではありませんか。「四苦八苦」という言葉も仏教語です。人は、多かれ少なかれ、生きていくことに困難さを感じているわけで、それを感じなくなったら、生きていないことになります。願いが叶うことも、また苦悩のひとつなのです。

人間というものは、哀しいものです。「何か非常に良い、奇跡的な事が起きて」と信ずれば信ずるほど、悪い方にいくと思う人も、良い方にいくと思うことも、それはどちらも仏教的な考えではなく、欲にとらわれた亡者のありさまだと思います。ことわざにもあるように「思う事一つ叶えば、また一つ」といいます。

・「あなたはお導きが足りない」
これは、仏伝を読んでみるとよいです。お釈迦様の驚くような言葉が出てきます。ある偉い王様が、お釈迦様に帰依を申し出たら、「あなたはあなたの信仰をするのが良い」と言って、入信を断る部分があります。私は、仏伝は何冊も読んでいますので、どれに書かれていたかははっきりしませんが、私の仏教の勉強の原点になる、渡辺照宏先生のお書きになった、『新釈尊伝』(ちくま文庫)がよろしいかと思います。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089 …

昔、京都の花園大学(禅仏教系)の大学入試試験に、漫画の白土三平さんの『カムイ伝』が出たそうです。理由はよく分かりませんが、もし、仏教が『カムイ伝』のような弁証法的唯物論の世界観を認められるとしたら、それはなかなか理解に難しいかもしれません。しかし、仏教の世界は、「諸行無常」といわれるように、唯物論的だと思います。

もしよかったら、日蓮宗の方でももある、紀野一義氏の書籍を取り上げて読んでみるとよいかもしれません。もっとも有名なのは、中村元先生との共著の『般若心経・金剛般若経』と『法華経』(岩波文庫)です。また、彼の著作の『大悲 風の如く』(ちくま文庫)と他二冊の全三部作は、つとに仏教は何かを教えてくれる書籍として有名でした。なお、紀野一義氏ご本人は、その作品の雰囲気とはまったく違った、良くも悪くも日蓮系の人そのものです。言い換えれば、口さがないのです。

『大悲 風の如く』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480032 …

最後に、某仏教系宗教団体の教祖(故人)が、学問と信仰は別だ書かれていましたが、結局、その仏教団体は、仏教とは関係のない「悪霊」だとか言い始めましたし、ブッダの言葉を、直接、霊と会話して語るとか、書いている内容が、まるっきり、史実にはそぐわない内容でした。多くの学者は、宗教団体には無知ですから、それに利用されていることも多くありましたが、まず、基本的な仏教の知識を知らないままに、仏教の道に進むのは無謀だと思うのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

windfaller様、ご回答ありがとうございました。
おっしゃる通り、信者では全く仏典を理解出来ていなく、奇跡体験を拠り所に「法華経、法華経」とお導きしている方とご回答者様の様(恐らくお寺の先生方でも回答者様ほど知識は無いし、勉強されていないでしょう)の様に知識を持たれている方もいます。以前、得度中にも色々な事で教会の先生方には人生相談したのですが、途中まではお釈迦様はこう言った、日蓮様の話はこうだったと言うそれなりに説得力(私が求めていた答え)が来るのですが、最後の方には所謂、新興宗教色バリバリになって、奇跡体験の連打、あの震災の時に信者の家だけは津波が避けたとか、あの信者さんはその修業して潰れそうになった会社が立ち直ったとか、そんな娑婆的な現生利益的な話に落ちてきて「だからあなたも一緒にがんばりましょう」となるのです。そして何か少しでも良い変化が起きると「あなたの修業の効果が出た」そして、逆効果になると「今は試されている、修業をしなさいと言うメッセージ」と言う話になります。良い事、悪いことがすべてその宗教の中心になるのです。
私もご先祖供養と仏教との関連性を調べたのですが、見当たりませんでした。私のお寺の話ですと、開祖がいるのですが、その先生が法華経をベースに新たな解釈として先祖供養、霊界への功徳などの効果を見つけ、広めたと思われます。私も仏教とお導きの関連性が解りませんでした。先生に質問したところ、法華経は大乗仏教だから、自分だけではなく、他人様も幸せになって貰わないといけない、その他の小乗仏教は軽んずべきものだと言っていました。
この排他的で狭心的(過激)な発想がはたして本来の仏教に通じているのか?と疑問を持ちました。

お礼日時:2013/10/12 13:09

こんにちは。


参考にならないと思いますが、この宗教信仰はカルト教団の匂いがプンプンですね。

理由として…

・不思議な事が沢山起き…意識していなければ気がつかないが、毎日誰でも不思議な体験をしている。考え方しだいって事。

・人生が良い方向に向かっていた…誰が決めるの?本人の気持ち次第でしょ?

・得度する事が一番、即効性があり、強力な効果がある…即効性って何ですか?強力な効果ってなに?魔法?脱法ハーブや麻薬のような幻覚でしょうか?

・相手にお金を出してもらい、その相手のご先祖供養をさせて頂く…お墓の住人側から考えてみると、知らない連中が突然来て玄関先で線香たいてガヤガヤしている。これってありがたいですか?
私なら気持ち悪いので家から出ません。誰かに追い払ってもらいたいと思うでしょう。
お坊さんでもない見知らぬ人に合唱されても、供養にならないのでは?

・何か非常に良い、奇跡的な事が起きて…人間や植物すべての生き物は生きている事自体、奇跡。あなただけに良い奇跡と考えるのは都合がよすぎると言うか、おめでたいと思います。
ご先祖様や仏様の奇跡を期待しているならば、罰あたり、と言う言葉が当てはまる。

・年内までに50人お導きをしなさい…これを""ネズミコウ""と言います。
法律的にも禁止されている行為です。
もし、実行した場合あなたは危険人物として友達知人家族ですら距離を置かれ孤立するでしょう。
孤立したあなたのよりどころは、この宗教しかなく深みにはまるでしょう。

信仰するのは人それぞれ自由だし、不幸であるか幸せかは考え方しだい。
自分は不幸だと、常に考えている人は常に不幸でしょう。
心の中でご先祖様に感謝して居ればその気持ちが伝わるかもしれません。
本来、供養とは感謝の気持ちであって、お金がかからないものです。
お金をかけても死んだ人には何の価値もないし感謝すらされません。
車と同じで見栄と自己満足するだけ。

お金をかけるとその人の位が上がるとか、死んだあとに天国に行けるとか見た人いるのですか?
死んだ本人から聞きましたか?
仏教を学ぶのは良いとして、学び方が間違っていますね。
今の宗教にはかかわらない方が無難でしょう。
あなたも会社の同僚も宗教団体のお金になる一部でしかないと言えます。

あなたや宗教団体の誹謗中傷をするのが目的ではありません。
現実に戻り真実を直視してください。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ginzake様 ご回答ありがとうございます。そうですよね。この教会の方たちと食事に行ったりして、お話をすることが多いのですが、その中にいると「法華経は素晴らしい」「誰々の病気が何々の修業で治った」と言う話が会話の中心で傍から見たらかなり、特異な集団(ファミレスとかで大きい声でこの内容ですので)と思われている事でしょう。中に入ると判断が狂うと言うか、正直、私はかなり覚めた目で見ているのですが、他の信者は(過去に信仰してから大きな成功体験が起きた人ばかりです。去っていった人も多くいますが最初ぼろ糞に言われます)、陶酔しているみたいなので正直、会話を合わせている状態です。得度の即効性は何でも得度すると7代前までの先祖が成仏するのだそうです。誰が言いだしたのかは知りません。

お礼日時:2013/10/12 10:52

立正佼成会であれば、すぐさま縁をお切りになられた方がよいでしょう。


ここは日蓮仏法とは何の関係もない、法華経を利用した擬似宗教サークルです。
従って何の功徳も現世利益もありません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

marbleshit様、ご回答ありがとうございます。
お寺の名前は出せませんが、立正佼成会ではありません。

お礼日時:2013/10/12 10:54

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!