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1. 輪廻とは 輪廻転生として生まれ変わることであり 業とは 因果応報であり これ
ら両者を合わせて人生を捉えるとするならば そのときには 次のような疑問は起きないの
でしょうか。

2. いまこの世において もしわたしが悪なる被害を受けたとするとき そのことも そ
の結果としての被害内容に対応した原因があったということでしょうか。

3. すなわち わたしがいづれかの過去および過去世において 悪なる行為をおこなった
その報いであるという解釈になるのでしょうか。

4. つまり 疑問は こうです。いま取り上げている応報(被害)というのは 現世に生
まれてから 加害者と何の関係もなかったという場合です。拉致事件なる被害に遭ったとい
う場合です。その場合にも わたしの過去のおこないが悪かったから その縁起によるとい
うことですか という問いです。

5. けれども・しかし・そうは言っても わたしと同じDNAを持った存在は 過去にい
たとは考えられません。生まれ変わりは あり得ません。なぜ輪廻転生としてのいのちの系
譜における因果応報が さも妥当な理論であるかのようになおいままだ唱えられているので
すか?

6. ブディズムは ただのマヂックであり催眠術でありお花畑幻想であり人間の白痴化へ
の陰謀ではないのでしょうか?

A 回答 (28件中1~10件)

No.23です



別人の記憶なら、どうやってその情報を手に入れたのか?
という疑問が残ります。

また、記憶だけではすまない記録も多々あるのですが、仏教中心のご質問の趣旨からそれるので、これまでとさせていただきますね。
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この回答へのお礼

★★(回答№23) ~~~~~~~~~~~
輪廻転生は、前世記憶をもつ子供の実地調査(非常に厳密に実施されてい
ます)を、説明することのできる、とても理にかなった説です。
☆☆(同・お礼欄) ~~~~~~~~~~~
なるほど。ただし 問題は 《生まれ変わり》かどうかです。現在のわれ
と同じ過去世におけるわれなる人間であったかです。

あり得ないわけです。
言いかえると その記憶は われとは別人のものだと捉えるしかない。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
別人の記憶なら、どうやってその情報を手に入れたのか?
という疑問が残ります。
~~~~~~~~~~~~
☆ ごもっとも。
《前世記憶》が 科学的に実証されているかどうかを別として 《実地調
査》において それとしての《事実》であるという情報を踏まえて しか
しながらその記憶は 別人のものであると言わざるを得ません。と応じま
したが その別人説も 不確かなものでした。
――ということですね。

科学的な詰めは 輪廻転生から確かに逸れて行くと思われます。おっしゃ
るとおりだと思います。

ご回答をありがとうございます。
この件につきましては いちおうすっきりしましたね。
では またお会いします。

お礼日時:2016/02/25 09:21

輪廻と業という考え方は


時代の臨界点によってそれ以上は理解の方向に進めないことに対して
割り切った線引きをする意味合いがあったのではないかと思います。
つまり死後の世界への考察の線引きをして‘議論としては不毛な議論‘を切り上げる、
ということのような気がします。

一方被害というのは運の悪さということで
それは偶然による面が強いものだと思います。
その偶然をくよくよ悩んでしまうような場合に
その苦悩を切り上げる方向へもっていくための
割り切り方の知恵として輪廻や業と結びついた
納得の仕方を提唱したものなのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

それとして――という言い方では失礼なのですが―― 納得の行くかたちに
解釈なさっている。まづ こう受け取ります。

ですが――反論ですが―― すべてすでに人には現世のほかに前世や来世が
あるということを前提として議論しておられます。

この質問の問いは 単純です。

同じDNAの人間がわれのほかにいないからには 生まれ変わりはないでは
ないか。です。

ですから その昔その当時 こういった輪廻転生および因果応報の説が出さ
れそれなりに――おっしゃるように―― 人びとが人生におけるくるしみや
悲しみを乗り越えるための説明思想になっていたかも知れません。

そして 現代では 無理だという見方になるしかない。のではないでしょう
か? 

かんたんに切り捨てたような感じかも分かりませんが じっさいこのような
単純な問題であると思わざるを得ないのですが。

お礼日時:2016/02/23 20:13

お礼ありがとうございます。



めぐみさんの件は、現世の因果とは思えないので、過去世において
何らかの因を本人が作り、所持をしていて、それが結果として発現
した、と考えることは実に科学的であると思います。

でないとしたら、何が原因だとお考えになりますか?

善因には善果、悪因には悪果は道理ではないでしょうか?ですから、
善悪というより、結局「因果」を説いているのです。

「因果律」から辿ってゆけば、「前世」の存在が必要になってくる
と思います。
同じDNAは確かに存在しえないでしょう。しかし、それで否定しき
れるのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ でないとしたら、何が原因だとお考えになりますか?
☆ それは 因果応報が必ず当てはまるとすでに初めに決めつけた上での
問いです。

仮りの話として・しかも第三者が言うとすれば めぐみさんは 自分自身
の心の中で 世の中では因果応報ということを言う。だとすると わたし
は過去世に何かわるいことをしてしまったのかしら? と考えたりするこ
とがあるかも知れない。

けれども それは そういう事件に遭ってしまったことをきちんと受け留
めて つねに我れに還りおのれを大切にしようという心のほうの問題です。
そのために 世間の思潮に沿ってちょっと考えて見ようとしたそういう手
段の問題に過ぎません。

ほんとうに過去世でのわが業がはたらいたという自業自得なのだと思うわ
けがありません。思っても 何の現実性も出て来ません。

(ただし 生まれてからの自分の生き方について ひょっとしたら反省す
べきことがあるかしら? とは考えるでしょう。でもそれは 輪廻転生し
つつ因果がムクイとしてめぐるといったことの問題ではありません。ふつ
うの自省です)。


あとの二点は その心が分かりません。
★ 善因には善果、悪因には悪果は道理ではないでしょうか?ですから、
善悪というより、結局「因果」を説いているのです。
☆ 拉致されたということは その理論に従えば 悪果です。そしてふ
つうの考え方においても よくないことです。

★ 同じDNAは確かに存在しえないでしょう。しかし、それで否定しき
れるのでしょうか?
☆ 否定し切れませんか?

★ 「因果律」から辿ってゆけば、「前世」の存在が必要になってくる
と思います。
☆ 過去世の存在を説き 因果がムクイとなって現世に現われていると
言うのは ブラフマ二ズムが 平民や奴隷の人びとに対してそれらの身
分にあるのは まさにその因果の応報だからだと言って説明したもので
す。

そのいまの身分とその制度を固定するために用いた奥の手です。
ゴータマは このいわゆるカースト制に反対し平等をとなえたようです
が その因果応報および輪廻転生の説は 承け継ぎました。

苦から解脱すれば もうその輪廻を繰り返す《生》を断つことができる
・つまり ふたたびは《苦》なる人間に生まれて来なくなると説いたの
です。・・・

お礼日時:2016/02/23 06:16

お礼ありがとうございます。



二つの因果関係を区別し、主観がつけ添えられたものを
「世間でいうところの」「因果応報」であるという説に
は、納得しないでもないですが、そうではなくて、誰が
見ても認識できる客観的事実についての、根源的な原因
を見るのが仏法で説く「因果律」です。

例に出した、先天的重病の人は、本当のところは本人に
しか分からないにしても、肉体的にも精神的にも苦痛を
感ずることは多いでしょう。また、何よりも、健常者の
ような「はつらつとした精神」をもって生きることはと
ても難しいでしょう。
科学的には、原因は「遺伝」等であり、DNAにインプッ
トされていたため、となるのでしょうが、善悪というこ
とではなく、「何故」そうなったか、です。

苦しみにしても、幸福にしても、「それ相応の」原因が
あるはずだということです、誰もが納得できる。

現在の科学では、「前世」は証明できていない訳で、だ
から、人間の人生について「因果律」は「考えない」と
いう姿勢は私は納得できません。
科学的でないからです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 善悪ということではなく、「何故」そうなったか、です。
☆ なぜそうなったかという問いに答えたのが 因果応報の説です。しかも
いま生きている現世のみでは話がつかない――なぜなら めぐみさんの事例
のようにその被害に遭ったときに初めてその加害者を知ったという場合があ
るからです――ので 輪廻転生なる説をも ともに合わせ技のごとく持ち出
しているのです。

そして 因果応報説と言えば 善因善果か悪因悪果かのいづれかでありまさ
に善悪の問題です。

★ 苦しみにしても、幸福にしても、「それ相応の」原因があるはずだとい
うことです、誰もが納得できる。
☆ その答えが 善因楽果か悪因苦果かという方程式で捉えればよいという
ものです。

★ 「前世」は証明できていない
☆ ではなく そうではなく いまここなるわたしにとって わたしと同じ
DNAを持った人間が過去にいたということはあり得ない。と言っています。

お礼日時:2016/02/23 00:00

因果応報、つまり、現在の自分の状態に原因がありとする考え方


ですよね。
例えば、先天性の重病にかかって生まれた人については、前世の
存在を認めなければならないということになります。

これを、偶然とするならば、人生というものは、「因果律」の適
用外になるという非科学的な考え方になりましょう。
以前にも少し触れた記憶がありますが、どういうことなのかをま
ずは伺いたいです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

まづ 科学的な誰が認識しても同じ内容になる事実についての知識としての
因果関係と そして人がそれぞれ自分の主観によって良し悪しをモノゴトに
つけ添えて見るかたちを取った上での因果関係とを区別する必要があります。

後者が 因果応報の説です。
すでに 自明のように 《わたし》の主観によって善か悪かを決めてその行
為(カルマ=業)についての因果の経過を見ようとするものです。

善因善果(または善因楽果)と悪因悪果(または悪因苦果)というふたつの
見方に分かれます。だいたい。

先天性の重病を例に出していますが それは 科学的な因果律としてなら
たとえばヰルスの歴史的な伝染経路によって認識されるものです。

そしてそこに善悪の観念をつけ加えるとするなら なぜそのような苦果ない
し悪果をこうむったか? と考えた時に その原因を 心のどういう悪因が
かかわったものなのかと問い求めるのが 因果応報の説です。



この問いでは 話をややこしくしないために 生まれたときからその一生の
あいだの因果関係は 別とします。

けれども因果応報説では 輪廻転生の説をともなって 過去世における《わ
たし》およびその行為にまで原因追究をおこないます。

過去世と言っても わたしと同じDNAの人間はいるはずがないので その
ような因果関係は 認識のしようがない。となる。

のではないか? というのが問いです。

そしてさらに分かりやすく 横田めぐみさんは 拉致されるという悪果をこ
うむったけれど その――過去世における――悪因はあったのだろうか? 
とも問うています。

そんなことはあり得ない。考えつき得ない。のではないかという問いです。
つまり 過去世における悪因をもし言うとしたら それは 精神錯乱であろ
うという問いです。

お礼日時:2016/02/22 22:07

お礼ありがとうございます。



なお、ご存知のように、輪廻転生とやったからやられたのだという因果応報説とは、ベツモノです。

輪廻転生は、前世記憶をもつ子供の実地調査(非常に厳密に実施されています)を、説明することのできる、とても理にかなった説です。

因果応報説は、目には目をというハムラビ法典と同じ論理であって、社会システムや倫理としては近代以後は通用しません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 因果応報説は、目には目をというハムラビ法典と同じ論理であって、社会
システムや倫理としては近代以後は通用しません。
☆ まぁ そうなのでしょう。一般に。

ただし われなる主観の範囲内では・そして生まれてからこの一生のあいだの
こととしてなら ささやかな《報い》の理論は成り立つとも考えられます。

例によって ヤマシサ反応の問題です。良心とも言いかえられるそのハタラキ
です。

単純に言って かつて一度 わが心にヤマシサ反応が出たにもかからわずこれ
に逆らって――ということは 自分でもよくないことだと知っていて――おの
れのただ欲するところを強行突破のかたちでおこなった。

そのときのこのヤマシサなる心があとになっておのれの心の中ではたらいて 
言わばそのツケを現在のわれに回すことになる。

これなら 原因と結果とがそれとしてつながっている。そして しばしば そ
のツケを払わされることを ムクイであるというふうに――主観の内で――見
ることは可能。自業自得とも この場合には 言います。


さて 輪廻転生のほうです。
★ 輪廻転生は、前世記憶をもつ子供の実地調査(非常に厳密に実施されてい
ます)を、説明することのできる、とても理にかなった説です。
☆ なるほど。ただし 問題は 《生まれ変わり》かどうかです。現在のわれ
と同じ過去世におけるわれなる人間であったかです。

あり得ないわけです。
言いかえると その記憶は われとは別人のものだと捉えるしかない。
こうなりませんか?

お礼日時:2016/02/22 14:45

客観的に確かめられない考えは、いっぱいあります。



唯物論も、その一つです。すべての行為の原因を、物質的なプログラム、多くの場合DNAの状態に求めるのですが、すべての行為を規定するプログラムはみつかっていないし、瞬時にとられる様々な行為を関連付ける時々刻々変化するDNAの状態を確かめられようもありません。唯物論も、まさしく輪廻の自業自得論と、またく同じで、「客観的に確かめられないことに起因させる」構造をもっているのです。

人が客観的に確かめられるのは、あくまで部分知に過ぎません。

どの考えを信じるかは、個人の自由ですが、その考えを他人にあてはめて発言することは、侮辱や人権侵害になることがあります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人が客観的に確かめられるのは、あくまで部分知に過ぎません。
☆ そうですよ。そして それは 経験知の領域の問題です。

人間の現実には 経験世界を超えたところ――そのような場・そのよ
うなチカラ――が想定され得ます。
《非経験の場》です。いわゆる《神》です。

ところで 唯物論も唯心論もいづれも この《神論》を成すものです
よ。

ヒトは 身と心とから成る自然本性として生まれて来ます。
身体と精神。物質(精確には 質料)と精神。モノと心です。

したがって この経験世界を超えたところをどのように説明するか?
となったときには 必然的にかどうかは知りませんが ふたつの見方
が現われました。

《非経験の場――すなわち 神のことですが――》は モノの根源が
きっとそれであろうと見る向きと そしていやいや じつは 心の根
源があって そこから モノと心つまり身と心とが現象して来ている
のだと見る向き。

いづれも 《非経験の場》を想定した上にさらに 推測を加えている
ものです。そういう神論です。

つまりは 神は モノの根源であるという唯物論とそして 心の根源
であるという唯心論とです。

ですから・つまり 唯物論というとき 神論としてのそれとそして経
験世界において経験事象としてモノをあつかう場合のそれとを区別す
る必要があります。

いわゆる自然科学がモノについて探究するとき その研究者が 神論
や信仰として 神としての唯物論を採っているかどうかは別の話です。

★ 人が客観的に確かめられるのは、あくまで部分知に過ぎません。
☆ という能力の限界を知りつつ研究していることが共通ですが そ
の人が どういう神論を持つかは また別であり自由であり 人それ
ぞれになります。

このとき 輪廻転生なる説は 自然科学として成り立たず また同時
に 神論としても成り立ちません。非経験の場を説明するのに ヒト
という経験存在のことを――生まれ変わるものだとして――勝手に決
めつけているだけだからです。

転生を抜きにしたこの経験世界におけるモノゴトの因果関係を捉える
因果論は あり得ます。

ただし因果応報説は そのモノゴトについて良し悪しをおのおの主観
的にさらに付け加えて見ているからには これも アウトです。
アニメの中なら許されます。

お礼日時:2016/02/22 10:05

>では その原因は どこにあるのか? これです。



そのようなことは凡夫に分かるわけがありません。
ものの生ずることを仏教では五蘊仮和合と言いますが、
因も縁もひとつとは限りません。
いろいろな因、いろいろな縁が絡まってものごとは
生ずるとあります。

重要なことは「本人がどう感ずるか」なのです。

たとえば先の三陸沖地震、津波によって亡くなったり
被害に遭った人たちを「過去の業が悪かったのだ」などという仏教者
がいたとしたら、その人は仏教が何も分かっていない人です。

因果応報とは仏教の定理でありひとつの運動法則ではありますが、
それは「他人にどうこう言うことではない」のです。
本人がどう感じるかが大事なのです。

あなたがこのような質問をたてたのも(横田めぐみさんが可哀想だ)
というのがあったと思います。
もしかすると、「それは彼女の前世の業が.......」というようなことを
言った人があったのかもしれません。
もしそういう人がいたなら、その人はインチキです。

人を思う気持ちは大事ですが、それと「法」を一緒にすると
訳が分からなくなると思います。
仏教は深いです、本を2、3冊読んだくらいでは絶対に
理解出来ません。

>過去世にわれと同じDNAの人間はいない。

この御発言であなたは輪廻転生が理解されていないことが
分かります。

> 因果応報説は 子供だましよりもたちがわるい。のではないか?

世の中には色々な考え方があります。
子供騙しは無視なさるのがよいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 原因は・・・

そのようなことは凡夫に分かるわけがありません。
~~~~~~~~~~~~
☆ わたしが言おうとしていることは ゴータマであろうと誰であろうと
《分かるわけがない》ということです。過去世の問題ならばです。

★ ~~~~~~~~~
因果応報とは仏教の定理でありひとつの運動法則ではありますが、
それは「他人にどうこう言うことではない」のです。
本人がどう感じるかが大事なのです。
~~~~~~~~~~~~
☆(あ) 《定理》でも《理論》でもあり得ないと言おうとしています。
《分かるわけがない》からです。

(い) 《本人の問題》だとすれば 本人の心構えの問題です。因果応
報として捉える場合も わづかながら あるかも知れない。といった程
度の問題であるはずです。

★ 仏教は深いです、本を2、3冊読んだくらいでは絶対に理解出来ま
せん。
☆ この言い回しが インチキだと敢えて申しましょう。

なぜなら もしそうだとすればその《深さ》を知ったあとでないならそ
ういうことは言えないからです。ただの子供だましだということです。

★ ~~~~~~~~~~
 >過去世にわれと同じDNAの人間はいない。

この御発言であなたは輪廻転生が理解されていないことが分かります。
~~~~~~~~~~~
☆ その根拠は? 《奥深いオシへ》について どうして理由を明らか
にせずに勝手にそういう結論を出せるのでしょう?

★☆ この御発言であなたはブディズムが理解されていないことが分か
ります。
☆ よ。

お礼日時:2016/02/21 17:49

2016/2/1220:51:37


ご存知だとは思いますが、因果応報について一応簡単に
ご説明します。

「因」(原因)これはあなたが何かの「行為」をした、ということです。
この行為を「業(ごう)、サンスクリット語でカルマ」と言います。

原因があれば必ずあなたに「果」(結果)が出ます。

結果のない原因はないし、原因の無い結果もありえません。
これは科学と同じです。

原因の元となった行為(原因、業)を行ったあなたに結果があり、
それをあなたが受けることを「報」と言います。

「天につばをする」という例えがありますが、良い例えです。
自分が真上に唾を吐けば、自分の顔の上にその唾が落ちてくるという
意味ですね。

あなたは電車に乗っています、隣に座っている人をいきなり殴りました。
隣の人は(殴り返してくる)(怒って怒鳴る)(無視して黙っている)
どれにしても結果です。
殴り返されるにしろ、無視されるにしろ、それが殴ったあなたが受ける
「報」です。

あなたは電車に乗っています、隣の席に素敵な異性が座っていました。
「あなたは素敵な方ですね」と言いました。
その異性は(にっこり微笑んだ)(無視された)(怪訝な顔をしてシート
を去った)どのような結果にしろ、それがあなたの受ける報です。

応報に良い悪いはありません。自身が行った原因によってその結果を
自身で受けるという当たり前のことなのです。

どうも世間では「因果応報」をドロドロとしたミステリアスなものと
思っている方が多いような気がします。
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この回答へのお礼

因果応報説だけで いわゆるブディズムにあっては――ブラフマ二ズムの説を採り
入れてのようですが――すでに何度も生きては生まれまた死んでは生まれ変わると
いう輪廻転生の見方をもふくんでいる。と考えられます。

ここで問うているのは 生まれてこのかた一度も会ったこともない人間によって或
る日或るとき拉致されたという出来事をめぐってです。

拉致されるという・どう考えても《よくない》結果をこうむったことになります。

では その原因は どこにあるのか? これです。

一般に因果応報の説によれば 前世におけるわるいおこないの結果としていまの現
世にむくいを受けているというものです。

果たしてそうか?

過去世にわれと同じDNAの人間はいない。ならば その過去世にわれがわるいこ
とをおこなったということはあり得ない。

いったいぜんたい 因果応報説は 子供だましよりもたちがわるい。のではないか?

こういう問いです。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/02/21 10:40

仏教の立場で回答させていただきます。



まず、因果について、自分で認識できる範囲とできない範囲があると思います。
認識できる例は、勉強をすごく頑張ったから(因)難関校に合格した(果)といったようなものです。
認識できない例は、質問文にあるような、突然の事件や事故に巻き込まれたりといったようなことです。ですがこのような場合でも、自分は認識できないだけで、客観的に見れば因果が成立しています。加害者と何の接点がなくともそこに居合わせたというような因があります。

問題は自分の主観で見た場合です。自分中心にものごとを考えると「なぜ自分が?」「何も悪いことしてないのに、、」といったような思いがわきます。
ここで仏教で説かれる言葉に“諸法無我”と“中道”という言葉があります。
因果の道理はあくまで客観的なものであり、そこに自己中心的な善悪という判断を用いると成立しなくなります。釈迦はあくまで自我を否定します(諸法無我)。また、善悪のどちらかに決めることも自己の判断ですからこれを否定し、あくまで客観的にものごとを見ろと説きます(中道)。

宝くじで3億円当たった人をどう思いますか?まずはそれがその人の人生にとって善いことだったのか悪いことだったのか、これはその人の主観の問題です。さらにそれに見合う善い行いや悪い行いをしたから当選したのでしょうか?それは誰にも分かりません。しかし客観的に見れば因果は成立しています。

仏教でいう因果は善悪という主観を切り離して、客観的に見た場合の論理です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自分は認識できないだけで、客観的に見れば因果が成立しています。加害者と
何の接点がなくともそこに居合わせたというような因があります。
☆ このたぐいのご議論をなさるのであれば 因果関係ということについて二種あ
るということを 共通の前提とせねばならないと思います。

ひとつは いわゆる科学的に認識される〔と見なされる〕因果関係。
もうひとつは 因果応報の説を形成するようになる因果関係。

つまり 後者は あくまで主観が入ります。
科学的な因果論は いちおう誰が認識し判断しても同じ内容となるということです。
(いわゆる客観的な事実認識としてです)。

主観が入るということは 良し悪しの判断が絡むということです。
ですから 善因善果(または 善因楽果)と悪因悪果(または 悪因苦果)とがあ
るし そのような因縁の経過として見ることになります。

★ 勉強をすごく頑張ったから(因)難関校に合格した(果)
☆ として挙げられた事例は びみょうですね。

勉強の方法が 一般に誰もが採用しているものであって あとはおもに時間的にど
れだけの量をおこなったかなどの客観的に認識しうる物指しで測った場合には 科
学的な因果論になるかも知れません。

もし 勉強することが なまけているよりも《よいこと》だという主観的な価値判
断が差し挟まれているのなら 《むくい》という見方の問題になります。そうです
よね。

ですから おっしゃるような《認識しうるかし得ないか》による場合分けというの
は 必ずしもブディズムの説についてはそぐわないかも分かりません。

事実として認識しえなくても――特には 過去世の場合などはつねにそうなのです
から――認識し得たと見なして この応報説を打ち出して来ているのではないか?

★ あくまで客観的にものごとを見ろと説きます(中道)。
☆ 《中道》というのは ものごとの判断においてあり得ると見ますが この場合
には必ずしもそうではなく もし《客観的な認識》というのであればそれは 科学
による場合のみです。と違いますか?

言いかえると 良し悪しが入るなら つねに主観的な捉え方にしかならない。

★ 仏教でいう因果は善悪という主観を切り離して、客観的に見た場合の論理です。
☆ という場合には 因果応報説とは別になるはずです。

お礼日時:2016/02/20 23:47

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