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歴史にIFは禁句かもしれませんが、
武田信玄は川中島での上杉との競り合いが長期間にわたり、その後の信長の独走を許してしまいました。
もし、村上あたりと早期に和睦して北信濃を諦め上杉との衝突を避け、1550年代後半に美濃に進出していたらどんな展開が待っていたでしょうか。
今川の西進との相乗効果で美濃・近江・山城と進出できたのではないでしょうか。

A 回答 (6件)

ifなら、


義龍が長生きして、信長が急死していたら、一色家が天下を取ったかもしれません。
義龍は、信玄のように父から国を取り、信長のように弟を暗殺し、いち早く貫高制と火縄銃を使っています。
家臣団には明智一族もいました。
http://sengoku-his.com/other/detail/309
織田信長がわずかな供を連れて上洛する際、義龍は火縄銃装備の手勢を配備し、狙撃して信長を暗殺しようとしたが、失敗に終わった。この一件は記録に残る日本初の火縄銃による狙撃となった。
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当時、信長以外に天下布武を考えた人はいない。


皆、本領安堵が目的で戦いました。
自分の家さえ良ければいい考えです。
これを実現したのが徳川幕府、各藩に自治をゆだねる制度。(秀吉は、五大老など合議制をしいて失敗。)
つまり、武田は天下を取る気も無かったから、美濃進出はあり得ない。
そして、この時代絶対に必要な大義名分が無いから、美濃に進出は不可能。

http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/20 …
信長は、譲り状を大義名分に掲げて、美濃に攻め入るが、11年もかかっている。
義龍が生きていたら、美濃攻略は無理だったかも。
義龍死後、龍興が後を継ぐと、家中で分裂が始まる。
竹中重治が稲葉山城を占拠する反乱も勃発した。
義弟斎藤利治を佐藤忠能の養子とし、二代目加治田城主として、斎藤道三の正式な美濃斎藤氏後継者として有力国人衆美濃佐藤氏と加治田衆を与力とし親族衆として支配。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD …
この後、沢彦宗恩から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用
https://senjp.com/takugen/

以上、斉藤家は人気が無いだけで、強かったんだよ~
道三と、義龍、竹中半兵衛がいた美濃は、武田じゃ攻略できません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD …
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この回答へのお礼

なるほどですね
ありがとうございます

お礼日時:2017/12/29 19:52

>美濃に進出していたらどんな展開が待っていたでしょうか。


 単に【他国に攻め入り、人を殺し領地を奪う】という略奪が続き
 野蛮な国家が形勢されていっただけかと思います。

 基本、武将はクーデター/殺し屋です。
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この回答へのお礼

おっしゃる通りですね

お礼日時:2017/12/26 13:17

「武田信玄は川中島での上杉との競り合いが長期間にわたり、その後の信長の独走を許してしまいました。


もし、村上あたりと早期に和睦して北信濃を諦め上杉との衝突を避け」

までは良いと思います。その後何故、「美濃に進出」なのでしょうか。


当時の武田信玄が上杉謙信と戦った理由は、塩の確保です。塩は海から取れますので武田家は海が欲しかったのですが、地理的に最短距離は、北上か南下です。北には上杉、南には今川が障害でした。

史実では、北上侵出をしますが、桶狭間の戦いから8年後に南下侵出に変更し、今川の領土を手に入れる形で戦略目的を達成します。




武田が上杉と戦った戦略目的は塩の確保で、それが長期化して信長の拡大を許しますが(この時点では独走はしていない。織田信長が軍事的に独走したのは、上杉謙信が死んだ後から本能寺の変までの3年3ヵ月だけ)、それを許さないifを考えるならば、まずは「北上侵出ではなく南下侵出だったら」と考えるべきではないでしょうか。因みに、今川義元の美濃侵出の目的は上洛ではなく領土拡大です。


1565年以前だと、足利義輝は健在で、彼は有能で本気で室町幕府が再び日本を実効支配する所まで来ていましたので、はっきり言って彼を暗殺しない限り天下は取れません。(上杉謙信は過去に上洛していますが、天下を取るのが目的ではなくただ単に挨拶をしただけです。)

その天下取りを実行したのが、永禄の変であり、三好義継、三好三人衆と松永久通らです。三好義継、三好三人衆と松永久通らは、足利義輝を暗殺し足利義栄を室町幕府次期将軍として擁立しましたが、将軍を殺すような野蛮な連中を嫌った天皇は彼らを公認しませんでした。そして、足利義昭が室町幕府の正当な後継者として名乗りをあげ、義栄とその賊軍を討伐せよとの勅令を出しました。


史実では、その勅令に応えた大名が織田信長です。ここから織田信長の天下人への歴史が始まります。


武田信玄がもしも「北上侵出ではなく南下侵出だったら」かなり歴史は代わっていたと思います。1550年以前の話になりますが、北上侵出は一切行わず南方侵出にしていたら。或いは、今川義元が死んだ時点で南方侵出に変更していたら。かなり違っていたでしょうね。
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この回答へのお礼

お題は美濃進出です。

お礼日時:2017/12/25 20:25

新展開が出現すれば連鎖反応的に新リアクションが起こり、全く違う歴史になります。



史実では信玄と信長は勢力拮抗ということで同盟を結んだわけですが、力の差が明らかであればそれは従属関係に変わります。
一般に領主は対外進出よりも領地内経営、もっと端的に言えば家臣の知行地の安堵を優先に考える義務があり、対外進出はその延長にすぎませんでした。
家臣から見れば、自分の利益を守ってくれるから支配者として認めているのであり、それをなおざりにするようでは自家に不利益をもたらす簒奪者ということにしかなりません。
信玄自身がそれを名目に実父を追い出してしまいました。
義元の桶狭間も従来説ではなく、三河あたりの領地平穏化が目的であったとの考え方の方が今は有力になっています。

信長と言えど、同盟も防衛も無理とあれば手段を尽くして従属関係の確立に力を尽くすことになります。
そうしないと家臣は霧散し、勝頼のような最期を遂げることになるからです。

そのあとどこまで勢力を広げられるかは、信玄の能力と寿命と運次第です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/12/24 16:48

1550年代後半に美濃に進出は難しかったのでは?


武田家臣団は国主信虎を追放し晴信にすげ替えるということをするくらいの者たちで、主君のいう事を聞かない面が多分にあったと思われます。上田原の戦いで村上に大敗したときも、家臣が自分の手柄を優先にして戦ったため 全体の統率がとれていなかったのが原因と聞いたことがあります。
この軍団を信玄がまとめあげるに至ったのが第4回川中島のころとも聞いております。
(武田軍が真に戦国最強クラスになったのは、第4回川中島以後と思われます。)
従って第4回川中島の戦い以前では領地の広さの面(国力)からいっても、武田軍の強さからいっても美濃斉藤家攻略は難しかったのではないでしょうか。
それよりは、力の弱い信濃の小領主たちを屈服させていく方が簡単で早い、そして領地を拡大してから西進するというのはとても合理的と思われますし、現に信玄公もそのようにしたのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
統率が取れないのでお寺の住職?に相談したら、他国を攻めれば自然とついてくるといった回答だったと、何かのテレビで見たことがあります。中をまとめるのに外に敵を作るのは今も同じですね。

お礼日時:2017/12/24 16:44

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