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「障害は不便だけど不幸じゃない」
ヘレン・ケラーの有名な言葉ですね。
しかし、私は障害者の当事者ですが、
そうかな?と感じます。
やはり不幸な一面はあると思います。
乙武さんも以前にこの言葉使ってましたが、
イラっとしました。
みなさんはこの言葉に何を感じますか?

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    みなさん回答ありがとうございます。
    随時お礼はします。

      補足日時:2018/04/24 13:42
  • 乙武さんは障害者の中でも勝ち組ですよね。
    俺が障害者の気持ちを代弁してると言わんばかりの所が鼻につきます。

      補足日時:2018/04/24 17:20
  • 私は発達障害者の当事者です。

      補足日時:2018/04/24 17:35

A 回答 (67件中51~60件)

本人の受け止め方次第でただ不便なのか不幸なのか変わってくると思います。


その違いはズバリ、当人の心の持ちようではなく、周囲の人間の理解が深いかそうでないかだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2018/05/27 12:52

結局不幸かどうかは、当人達の考え方によりますよね!



ただ他の方もおっしゃっているように、よく言う「不幸ではない」「個性だ」と言うのは「可哀想な人ではない」と言うことだと思いますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2018/05/27 12:52

足を怪我している障害者として言わせてもらうと、


立つときはいつも片足で立ち、
寝る時はいつも同じ方向で寝る。

これを幸運と呼ぶのか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2018/05/27 12:51

幸せや不幸せというのは、その時々で表裏変わり続けていくものだと思います。


これは障害云々の話じゃありません。
全般での話ですが。

良いことがあった、悪いことがあった…良いことがあった時には幸せを感じるし、未来も明るく感じますよね。
逆に悪いことが起きてしまったときには、お先真っ暗、自己嫌悪とか、マイナスの感情に包まれてしまいがちです。
日常の中で、こういったことが起き続けています。
明日の自分は今日の自分じゃない。
進歩したようでいて、また突き落とされる…繰り返しの中で「何に頼るか」心の支えがあるのかどうかで、私は「幸せだと思える時間」というのは変わり続けるのだと思います。

障害は恒常的なものですよね。
日々変わらないものであるからこそ、尚更のこと「どう向き合うか」で、その重さも変わってしまうんじゃないでしょうか?。
障害の重さ、またそれに付随しての「不便さ」というのは、そうそう変わりはしないけど…向き合っていく中で何に依拠していくか、何を励ましにするかで、不幸だと思える自分をどれだけ減らせるか、というのはあるはずなんです。

もちろん、必ずしも「それだけ」で、世界が反転してしまうことなどありません。
とても地味な作業には違いないし、実感が乏しい時のほうがずっと多い。
「この言葉」を、印籠のように出して使うことは、私もそうそうするべきじゃないとは思います。
しかし必ずしも「嘘八百」ということでもない。
そういった側面もあるということだと理解しています。

言葉を武器にするときは、慎重にしなければいけないんですよね。
数多くの罪なき人を死に追いやった「演説」も、一人の男の口から出た「言葉」でした。
人は言葉を選ぶものですが、言葉はもっと人を選ぶのです。
どんな言葉であっても。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2018/05/27 12:51

途中でいきました。


続きです。
憐れみ、同情より
愛情を の意味だと
個性 と考えてください
って事でしょう
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
個性だとは思えません。

お礼日時:2018/05/27 12:51

健常者、障害者に


同じ事柄があった として
幸か不幸かは本人でないと
解らないでしょう。 受け取り方も 違うし

ただ ヘレン・ケラーの
言わんとするところは
"憐れみを受ける存在ではない"
と 私は解釈しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2018/05/27 12:50

乙武さんは例外中の例外、本で2億儲けて20代をスタートできた人と


一般の障がい者は別物でしょう。

ヘレンケラーももともと上流階級ですし。

一目で見てわかる障害と、そうでないものはまた違う。

いずれにしても、幸不幸は他人が決めることではない。
だれだって、困難を抱えて生きている。

持てば持ったで不幸があるかもしれない、お金など財産、係累。
一般に障害や困難は持たないほうが簡単な人生ではあるかもしれない。

困難を超えないとわからない境地も存在する。と感じます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2018/05/27 12:50

不幸かどうかは当事者が感じることですね。


しかも、精神障害、知的障害、精神障害があるのですから、その内容によって不便さも不幸さも違うと思います。
自分が受け入れていれば不幸ではないと思いますが、周りの当人に対する言動で否定的なギャップがあるようならば、それは不幸ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2018/05/27 12:50

障害を持つのは不幸なことかもしれませんが、不幸のタネは障害以外にも無数に転がっていますから、いちいち不幸がるよりもあるものに感謝して生きていった方がよりクオリティの高い人生になるんじゃないでしょうか。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2018/05/27 12:50

障害を負ったこと自体は不幸でも、障害があるからといってその人生が不幸なわけではない。


障害者という意味にとどまらず、人生における障害のすべてがそうだと思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2018/05/27 12:51

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